審判の日
古びた洋館に訪れたキング。家主はかつてナチスで戦果をあげてきた人間だった。狡猾でメイドを蔑み、死神と取引をしてでも生にしがみついてきた家主には、たったひとつ思い残した事があった。その話を聞いたキングは、ある取引を持ちかける。
住宅街の一番外れにある、ひっそりと佇む古い洋館。建物には蔦が這っており、小さな庭もあったが手入れがよく行き届いていた。玄関からは赤い絨毯が伸びている。廊下の突き当りにある書庫で、キングは本を読んでいた。
パタン
10センチはあろうかと思われる分厚い本の表紙を閉じて、読み終わった本の上に重ねる。半日で既に三冊読み終えたキングは廊下へ出ると、壁に飾ってある家主の写真を眺めていた。ドイツ国防軍、そのトップと握手をしながら笑う、在りし日の家主。
家主はかつて、ナチスの上層部まで上り詰めた男だった。
本名はヘッゲルと言ったが、この国では通り名を使っている。
キングは戦果の数々を誇る男の写真を眺めながらゆっくり歩くと、美しい少女の写真の前で止まった。真っ白い肌、肩にかかるゆるいウェーブの透き通る金髪、エメラルドグリーンの瞳。後ろで手を組んだキングは、首を傾けながら少女の写真を暫く眺めると、館の中央にある螺旋階段を見上げた。
カシャン!
「ええい!何度教えたら分かるんだ!お前がドイツ人だと言うから雇ったのに。マトモな紅茶の入れ方も知らんのか!」
「申し訳ございません、旦那様」
絨毯に叩き落された年代物のティーカップを拾い上げたメイドは、ガラスを拾い上げる際に指先を切ってしまい、その痛みに顔を歪めていた。ドアの前に立っていたキングは、メイドを見下ろして一瞥するとそのまま通り過ぎて、ヘッゲルの方へと歩いて行った。
「おう、来たかね。キング。そこのメイド!紅茶……もういい。何でもいいから飲み物を持ってこい!」
「かしこまりました、旦那様」
キングに会釈したメイドは「ガラスがまだ残っていますので」と言い残すと、部屋を去っていた。
「全く、頭のトロい女だ」
ベッドの上で右手を左右に動かしていたヘッゲルの手をそっと握ったキングは、顔を近づけると耳元で優しく囁いた。
「旦那様、ペンダントはこちらです。きちんと首から下げておかないと」
「すまんな、キング。盲目はこれだから困る」
「……ですから、こうして手触りを感じていらしたのですね」
エメラルドの装飾が光るロケットペンダントを首に戻してやると、ヘッゲルは右手でキングの顔をなぞり始めた。
「ああ、なんて美しい顔なんだ。髪と肌は?目は何色なんだ。教えてくれないか」
「父は、僕の髪を白に近いプラチナブロンドと言っていました。アルビノと形容していた事もあります。瞳の色は……きっと旦那様のお好みではありません。ブルーです」
ヘッゲルの手がキングのシャツを弄り始めたので、さりげなく立ち上がるとベッドから距離を取った。ヘッゲルは少々気まずそうに咳払いをすると、話の矛先を媚びるような口調で変えた。
「本はどうだったかね」
「今日は英語の本を三冊、読ませて頂きました。どれも今では手に入らない、貴重な本なんでしょうね。戦時中のメディア公開されていない情報が、網羅されていました」
「キング、君はまだ15歳とか言っていたな。半日であんな難しい本を三冊も読んだのか?一体、どこまで賢い少年なんだ。最初に本を読みたいと現れた時は、警戒したがね」
「僕には両親がいないんです。学校へ通い始めたのも、最近ですから。知らない事が多くて」
「それは流石に冗談だろう」
「いいえ、本当です。薬物中毒の売春婦が母親ですよ?これ以上は言わせないでください」
キングはヘッゲルの元へ再び近寄ると、彼を抱きかかえて丁寧に車いすへと移乗させてやった。たった数日で、ヘッゲルの望む全てを先回りして行動へ移すキングに対して、彼は警戒心を解くどころか信頼を寄せ始めていた。
ヘッゲルはかなりの高齢だった。90歳は優に超えている。それでも歩けなくなった以外さしてどこも悪くないのは、繰り返し行った臓器移植の賜だった。
「ありがとう。そうだ、面白い話をしよう。現実主義の君は信じるかな?死神の存在だ」
「さあ……どうでしょう。具体的にはどのようなお話ですか?」
「わしは目が見えんじゃろう。左腕もない。これは死神と取引した結果、と言ったらキング。君はどう考えるかね」
キングは車いすを窓際まで移動させると、一言「信じますよ」とだけ言った。
その時、小さくドアをノックする音が聞こえて来た。トレイにカップを2つ載せたメイドが立っていた。
◆
「わしを憎んで殺したがっている連中は多い。戦後、この国へ逃れて来てな。慎重に生きてきたが、2回だけ絶体絶命の危機があった」
「その絶体絶命の危機に、死神が現れたと」
「そうだ。この目と左腕はその代償、という訳だな」
「旦那様、ココアをお持ちしました」
「ノックぐらいしたらどうなんだ!何がココアだ。それしかマトモに作れないクセして」
メイドはノックをしていた。不条理に怒鳴りつけられ顔を強張らせてしまう。しかし、キングが微笑みかけると俯いてまた元の無表情へと戻っていった。
「僕、紅茶よりココアが好きだな」
「おお、そうかい。それは良かった」
「メイドさん、割れたソーサーは気にしないで」
今まさにソーサーを片付けようと屈みかけていたメイドは、驚いた様子で顔を上げるとキングの美しい右目の斜視を見つめた。
盲目のヘッゲルはムッとした表情をしていたが、キングの言葉を無下にも出来ない。そのまま出て行けというジェスチャーをすると、メイドが去るまで無言でいた。
「本当に使えない女だ。見た目もきっと醜いに違いない」
「死神と取引をしてから雇ったメイドですか」
「ああ。ナチス占領下で生まれたと言っていた。わしは国のために戦争をした。後悔はしていない。しかし贖罪の意識はあるから、あんな女でも使ってやっているのだ」
「なるほど。僕、ドイツ語が読めないんです。英語の本にはナチスが何をしていたのか……一方的な目線でしか書かれていませんでした」
キングはヘッゲルの手を取ると、掌をそっと自分の顔へと這わせた。ヘッゲルはされるがまま下卑た笑みを浮かべると、キングの顔をいやらしい手つきで撫でまわした。
「キングの顔を触っていると、エマを思い出す」
「一階に飾ってあった写真の少女ですか?」
ヘッゲルはキングの顔から手を離すと、エメラルドの装飾が施されたロケットペンダントを握りしめながら、エマという少女の話を始めた。
「ナチスのやってきた事は大体知っているだろう。そこに関して、今更言い訳はせん。それでもな、悪いことばかりしてきた訳じゃない。特殊な才能を持つ子供たちを施設に保護して、面倒を見ていた。その一人がエマだ」
「特殊な才能?」
「そうだ。エマは、賢く才能に溢れた……とても美しい少女だった。ああ、そうか。エマと似ていたのか。君に惹かれた理由を、今になって理解するとは。わしも耄碌したものだ」
「エマは……どうなったんですか?」
「死んだ、と聞いている。わしは施設の責任者ではない。戦況もどんどん悪化する一方だった。ホロコーストは君も知っているだろう。民族浄化がどんどんエスカレートしていってそれどころじゃなくなった」
「――……エマは、ガス室送りになったのですか」
「それは違うな、キング。彼女はドイツ人だ。そこら辺のユダヤ人とは違う。それでも何があるか分からないのが戦争なのだよ。エマだけは何とか助けたかった。養子にしようと、上層部へ何度も掛け合ったが手遅れだった」
「――……そう」
「……案の定、施設は閉鎖された。戦場下だ。衛生環境も良くない。子供たちは全員、肺炎で亡くなったと聞かされた」
ヘッゲルはキングの気配が変わった事に感づくと、盲目の閉じた目で探すように顔を左右へと動かした。キングが窓を開けたのだろうか。冷たい風と共にレースカーテンが揺れて、ヘッゲルの顔をなでつけてゆく。
今までとはまるで別人のようなキングの声が、部屋の中に響き渡った。
「死神とは、エマと会えるよう取引をしなかったんですね」
「――……考えた事もなかった。エマは死んだと聞いていたからな」
「……エマに会わせてあげる。僕、死神なんだ」
風が一段と強くなり、メイドが置いていったティーカップが落ちてゆく音がした。ヘッゲルは身体中に鳥肌が立つのを感じながら、キングが死神である事を確信していた。
最初に死神と取引をしたのは両目だった。相手は国家で、向こうは自分を暗殺するまで絶対に諦めないと判断せざるを得なかった。流石に国家相手では、為す術がない。
次に取引をしたのが左腕だった。既に盲目となっていたヘッゲルは、その時に死神の気配を覚えた。
鳥肌を立てていたヘッゲルは、同時にゾクゾクするような興奮を覚えていた。
こんな興奮を覚えるのは、ガス室送りにした者たちの阿鼻叫喚を聞いて以来だ。
キングが纏っているのはまさに死神の気配、そのもの。
以前現れた死神は、見るからに間が抜けていて信用出来なかった。
キングは白マントを羽織り、大鎌を担いでいた。無表情なままヘッゲルを見やると、ふわっと宙に浮いた。
そして斜視になっている右目を掌に落とすと、ヘッゲルの方へと差し出した。掌の上に載った眼球は軽く浮きながら、ゆっくりと回転していた。さながらサファイアが回転しているかのようなキングの瞳。
盲目のヘッゲルは風の音だけが渦巻く室内で、異様な光景が繰り広げられている気配を確実に感じ取っていた。
「エマとはどうやって会うつもりだ?死んで夢の中、というのは御免だぞ」
「取引をした死神を殺したのは、僕だよ。マヌケな骸骨男だろ?アイツを乗っ取って死神になったんだ」
「ああ、なんて事だ。それでは両親がいないというのも……」
「そうだよ、僕が殺した」
「どこまで素晴らしい少年なんだ!キング、君は悪そのものだ」
「死なずとも、エマと会うことが僕なら出来る。取引するかい?」
「君ならば、絶対に出来るのだろうな。取引したい。しかし、見返りに渡せるものがないぞ」
「僕は……英語以外の本も読めるようになりたい」
「そんな事で良いのか?是非、私の養子になると良い。いくらでも語学教師をつけさせよう」
キングは眼球を舌の上に乗せると、ニヤリと笑ってみせた。
「ヘッゲル。取引は、成立だ」
◆
ヘッゲルは、急に眩しさを感じて目をすぼめた。最初はぼんやりとだったが、自分が視力を取り戻した事に気がついた。
キングはあの死神が持っていった目を戻してくれたと言うのか。
本当に死神を殺して乗っ取ったのだな。
シンと静まり返る部屋に人の気配を感じて振り返ると、エマが目の前に立っていた。
真っ白い肌、肩にかかるゆるいウェーブの透き通る金髪、エメラルドグリーンの瞳。
あの頃の姿、そのままのエマ。
ヘッゲルは目と視力を取り戻してくれたキングに感謝をしながら、涙を浮かべていた。
「おお……エマ。私のエマ。君だけは助けたかった。いけない事だと分かっていた。それでも幼い君を愛してしまったんだ。ここに来ておくれ。抱きしめさせてくれないか」
エマはゆっくりとヘッゲルの元まで歩いてくると、彼の頬に手を当て、耳元で囁いた。
「違うわ。私はエマと貴方の娘よ」
ヘッゲルが見ていたエマの幻影。
はたしてその正体は、あのメイドだった。
年齢はそれなりに重ねていたが、メイドの顔はエマと瓜二つだった。
契約通り、ヘッゲルはエマとの邂逅を果たしていた。
メイドはヘッゲルを突き飛ばして車いすごと転倒させると、ペティナイフを首に突き刺した。最初に首を刺されて声が出せなくなったヘッゲルへ馬乗りになったメイドは、続けざまにナイフで身体を滅多刺しにしながら、叫んだ。
「愛していた、ですって?貴方が母さんを犯し続けて出来た子供が私よ!」
信じられないという目でヘッゲルがメイドを見る。メイドは、見ることも許さないといった面持ちで、彼が取り戻した左目にナイフを突き立てた。首から下げたロケットペンダントを引きちぎったメイドは、今度はペンダントで右目を潰した。
「肺炎?冗談じゃないわ。疫病にどれだけ耐えられるか、実験していただけじゃない!貴方は人殺しを楽しんでた。笑いながらガス室の人たちを見てた!」
ここまで来て、違う……とでも言いたげに首を振ろうとしたヘッゲルに、何かが切れてしまったメイドは、ナイフが折れてしまうまで彼の顔をナイフで刺し続けた。彼の血が自分にも流れていることを、メイドはどうしても許す事が出来なかった。
面影など、一編たりとも残したりなんてしないわ。残してなんかやるもんですか。
「もう死んでるよ」
キングに声をかけられようやく我に返ったメイドは、絨毯に突っ伏すと声を上げて泣き叫んだ。どのくらい泣いていただろうか。ようやく落ち着いたメイドは、淡々とした口調でキングに語りかけた。
「私の命を持っていったら?私は人を殺したわ」
「僕だって両親を殺してる。それに、君とは契約してない」
メイドは唇を震わせながら、再び涙を浮かべるとキングを見つめた。
「なら取引して。私を母さんの元へ連れて行ってほしいの。もう、生きてなんかいたくない!」
キングは悲しそうな顔をして暫くメイドの顔を見つめていたが、彼女の決心が揺らがない事を悟ると右目を口に含んだ。そして隣に立つと、彼女に向かって手をかざした。メイドの身体が崩れ落ちてゆく。
彼女は永遠に覚めない夢を見ていた。
光の向こうで笑いながら手を振るエマ。
私のママ。
「ママ、私やったわ。アイツを殺した!」
「苦しみを背負わせてしまって、本当にごめんなさい。私がやるべきだったのに」
「いいの。ママは早くに死んでしまったもの……私がしたこと許してくれる?」
「当たり前よ、大事な娘だもの。どこへだって一緒に行くわ」
「ずっと一緒よ。約束して、ママ」
二人は手を取り合うと、泣きながら抱きしめ合い、光のずっと先にある暗闇へと向かって歩いていった。
再び意識を取り戻した時、彼女は何者でもなくなっていた。
「街はずれにこんな屋敷があるなんて知らなかった」
「キングの親戚が住んでたって話だぜ」
「なんで過去形なの?」
「親戚、亡くなったとか言ってたけど」
街はずれにひっそりと佇む古い洋館に来ていたキングのクラスメイト達は、手入れの行き届いた小さな庭を抜けると蔦の這う建物の前に来ていた。ドアベルを鳴らすと、すぐに愛想の良さげなメイドが出てきた。
「坊っちゃんのご友人ですね。いらっしゃいませ、お部屋にご案内します」
「ありがとう、エマ。後は僕がやるよ。さあ、皆さん。どうぞ」
メイドの肩越しに私服姿のキングが顔を覗かせると、彼女に笑いかけた。エマと呼ばれるメイドは笑顔で会釈をすると、お茶の準備をしにキッチンへと下がっていった。
「すげえ、メイドいんのかよ……」
ビックリした様子で思わず声を出してしまったクラスメイトに向かって、キングは微笑みかけた。
「この家にずっと仕えてきてくれた人なんだ、エマは。僕一人じゃこんな家、維持できないって」
肩をすくめてみせるキングにクラスメイト達はドッと賑わうと、彼の後を付いて屋敷の中へと入っていった。
赤い絨毯の廊下にあったはずの写真は一枚もなくなっており、代わりにエマが選んできた絵が飾ってあった。
屋敷の主人となったキングは、エマの写真が飾ってあった場所に目をやると悲しげに目を伏せた。
僕は、何があっても死を選ばない。どんな手を使ってでも、生き抜いてやる。
――……エマたちの為にも。例えそれが偽善と呼ばれるものであろうとも。
「おーい、キングー!」
「今いくよ」
キングはお茶の支度をするエマの後ろ姿を見つめながら、小さい祈りを捧げた。