甘い節制-Ⅰ
おかしな言動を取る者ばかりになってしまったハイスクール。学園祭当日、視察に訪れていたアンナ・キンドリーは事件に巻き込まれてしまう。追い詰められてゆくキングは――
どうして、どうしてこんな事になっちゃったんだよ!
……!
眼鏡の少年マシューは、6回目の転倒にもんどり打っていた。ヒビの入ってしまった眼鏡を必死に拾い上げる。お世辞にも運動神経が良いとは言えないマシュー。それでも彼は全ての力を振り絞って、キングの屋敷に向かって走っていた。
あのキャンディーのせいだ。あれで皆、おかしくなっちゃったんだ!
助けて、キング!
今日は学園祭。
ある生徒は無断で宿泊し、またある生徒は両親が目覚める前からハイスクールに登校していた。欠席だなんてとんでもない。だって今日は学園祭。皆、お祭り気分で浮足立っている。
「おい、マシュー。行くぞ、さっきから何やってんだ」
「あっぼっ僕……キンドリー兄妹を迎えに行かないと」
「そんなのはお前の役割じゃないだろ。生徒会長をなんだと思ってんだよ。なあ、キング」
そこにはいないキングに笑いかける生徒会メンバー達。彼らは顔面蒼白で震えるマシューを見やると、首を捻りながら生徒会室を後にしていった。
キング本人は数日前から欠席している。それなのに、揃いも揃って見えない彼に話しかけていた。生徒会だけではない。学園中で同じ光景が繰り広げられているのだ。
昨日まではこんなんじゃなかったのに。変なのはクイーンビーだけだったはずだ。皆、あんなに警戒してたじゃないか……絶対、あのキャンディーのせいだ!
眼鏡のマシューはキングの良き友人であった。そして二人は苦手を分かち合える同志でもあった。それはフルーツ。独特の酸味が苦手だと、よくこっそりと話をしたものだ。決してお行儀の良くない話だからこそ、分かち合える笑いもある。
ハイスクールの女王クイーンビーがばら撒いたのは、フルーツ味のキャンディーだった。
紅梅色の瞳に縦長の瞳孔。一斉に振り返った友人たちの目を思い出したマシューは、怖気の余り、思わず生徒会室の鍵を掛けてしまった。教師に助けを求めようかという思いが頭をもたげる。しかし、おかしいのは君だけだと言われるのもマシューは怖かった。
部屋の中でオロオロするばかりのマシュー。突然ドアのノック音がして、飛び上がるほど驚いた彼はドアに耳を近づけた。
「おい、マシュー。いるのか?」
教師の声だった。涙声のマシューが神にもすがる思いでドアを開ける。
「先生!みっみんなの様子が……」
「ん?何を言ってるんだ。キングは主催の挨拶準備で忙しいんだ。キンドリーさんが到着されてる。早く出迎えに行ってくれないか」
「はい……」
マシューは絶望していた。教師まで紅梅色に染まった瞳と縦長の瞳孔をちらつかせている。肩を落とした彼は、重たい足取りでアンナ・キンドリーの出迎えに向かった。
学園前では、黒のロールスロイスからアンナが車いすへ移乗されている所だった。眼鏡のマシューに気づいた彼女がジャケットのポケットをまさぐる。アンナは生まれつきの盲目であった。そしてメモ用紙とペンを取り出すと何やら書き出した。
読みにくいのは事実だがそれでも筆記が出来るのは、ひとえに彼女自身の努力に尽きる。
(こんにちは。喉が悪くて声が出せません。私はアンナ・キンドリーです)
「こんにちは。僕はマシュー・ヴィンセントと言います。ようこそ、我がハイスクールへ」
恐怖と緊張がないまぜになったマシューの声。それを敏感に感じ取ったアンナの表情が怪訝になった。彼女はペンを取ると再びメモ用紙に書いた。
(ごめんなさい。兄は後から来ます。先生に伝えてください)
車いすを押すSPはサングラスをかけていて、表情がまるで分からない。彼に助けを求めるのも場違いな気がしたマシューは、そのまま校舎を案内した。
講堂へ向かう道すがらも話題はキング一色だった。というより、キリストでも復活したかのような熱狂っぷりなのだ。学校案内をするマシューの声がぎこちなく震えていた。
アンナは目が見えない分、他の感覚が鋭い。彼女の表情がまたしても訝しげなものへと変わっていった。
(どうしました?マシュー)
アンナがメモを見せるが早いか、マシューはついに限界を迎えてしまった。講堂まで後200メートル。SPに申し訳程度の会釈をした彼は、堪らず踵を返すと一目散に逃げ出した。流石に驚いた様子のSPと盲目のアンナを置き去りにして。
途中、PTSDで退学したはずのノーマンとすれ違った時、マシューは恐怖が臨界点を越えて悲鳴を上げそうになっていた。
元ハイスクールの王、ノーマン。彼が手にしていたのはサブマシンガンだった。
銃声がハイスクールに轟いたのは、それから10分後の事であった。
「取引しないか、エマ」
「だからしますって、坊っちゃん。さっきからなんなんです?ハロウィンはまだ先ですよ」
メイドのエマは、死神の格好をしたキングを見て呆れた声を出していた。清潔好きな彼女はモップがけの最中であった。呼び止められたと思ったら、屋敷の若き主人が妙な仮装をしてコミックさながらの台詞を口にしている。
どんなに大人びて頭の良い少年でも、思春期特有のそういう時期があるのだろう。そう結論付けたエマは、キングの掌の上で回転する瞳を微笑ましい表情で見つめた。
「それにしてもすごいですね。坊っちゃんにアートの才能があるとは思いませんでした。お顔だってそれ、特殊メイクなのでしょう?」
「そういう訳じゃないんだけど……」
かつてのエマとしての記憶を、取引によって全て失ったのが今のエマだ。
元より薄々感じていたが、やはり取引は成立しなかった。呆れ返るエマとは対象的に、至って真剣なキングは落胆していた。いくら彼女の望みでそうしたとは言え、記憶を奪うとは相手の人生を奪う事だ。
レイラとジョージの姉殺害の一件で浮上した特別顧客の存在。彼らからエマを守れないのはキングにとって痛手であった。特別顧客が狙っているのはクロエだけではない。キング自身と関わった人間、その全てで間違いないと言うのに。
微妙にすれ違っている二人の沈黙を破ったのは、電話のベルであった。
キングは電話を自室に回すようエマへ合図をすると、部屋に戻っていった。大鎌を担いだまま受話器を取る。声の主はフランツ・デューラーであった。
この屋敷を乗っ取った際、元々の主人ヘッゲルの養子となったキング。フランツはヘッゲルの弟だ。彼にとっての叔父にあたる。
「お忙しい所、申し訳ありません。フランツさん」
「いや、構わないよ。イブの庭の事なんじゃないのかい?」
「はい、お話が早くて助かります」
「私なら大丈夫だ。実は君に言わなかった事があってね、キング。イブの庭はソビエトが関与している、というのが私の業界では定説なんだ。保険であちらの新興財閥に投資している。上納金、と言ってしまうと聞こえは悪いだろうが」
キングは、かつてジョージをそそのかしたのがソビエト組織であった事を思い出していた。特別顧客がソビエトと組みしていたとしてもなんら不思議ではない。冷戦の兼ね合いによる利害関係。それは何もイブの庭だけに限った話ではなかった。
「まあ、ポーランドの友人にこれを言うと怒られてしまうんだがね。それより君の方は大丈夫なのか」
「はい、今のところは」
「どうだ、エマを連れてポーランドの屋敷へ来ないか?雇ってる者たちは金しか信用していない連中だ。思惑がない分、逆に信用出来る」
エマだけでも……と言いかけてキングは黙ってしまった。今のエマはフランツの知るエマではない。それに、死神としての正体を彼に明かす事はできない。明かしたが最後、フランツは永遠にキングを許さないだろう。無論、エマの事もだ。
「お言葉はありがたいのですが。こちらには以前、エデンの家で警備に当たっていた傭兵がおります。何とかなるでしょう」
キングは嘘をついていた。死神が介在していると判明した以上、傭兵など全く意味をなさない。それは彼が新興財閥に上納金を納めた所で、到底諦めるとは思えないのと同じであった。フランツとポーランドの屋敷だけならどうにかなるだろうが。
「そうか……屋敷へ入った子供たちも一筋縄ではいかなくてね。洗脳が解けた子もいるんだが、今度はその子を巡って喧嘩さ。裏切り者に見えてしまうんだろうな。エデンの家出身の子供たちにとっては」
子供たちの養育費用はキングも投資で折半していた。タックスヘイブンにそれ専用のペーパーカンパニーがある。それでも、未だ傭兵部門トロイにいるアダムの子たち。彼らの事を考えると責任の重大さを感じずにはいられなかった。
その時だった、屋敷の扉が激しい音を立てて開いたのは。
「キング、キングは居ますか!」
「一体、どうなさいました。坊っちゃんは今……」
「いいんだ、エマ。どうした?マシュー。何があったの」
制服姿のキングが玄関中央にある螺旋階段から降りてくる。キングの元まで駆け寄ったマシューが彼の手を掴んで悲鳴を上げた。
「皆、おかしくなっちゃったんだ!赤くて猫みたいな目をしてるんだ。いもしないキングと話してるんだよ!」
「赤くて猫みたいな目?」
キングの表情が一気に険しくなる。それは彼がクイーンビーに夢を見させて、デートをはぐらかす時に使っていた手法だ。魔術師が介入しているのか。キングが生徒の無事を確認したのは昨日だ。
無事なだけでは済ませないと言うことか。
だったら尚更、急いでエマを何処かへ隠さなければならない。ジョージの母親とてそれは同じであった。彼女はイブの庭信徒であり、クロエやエマと同じく取引が成立しない。
「とにかく早く来て!ノーマンが銃を持って学園に戻ってきてるんだ!」
「ノーマンが銃……」
レイラから特別顧客へ報告するよう取引した『契約の誤認識』それを悪用されたとしか思えなかった。ノーマンは記憶を奪われていない。キングによって彼の過去を追従させられ、心を病んでしまっただけだ。
やはり、魔術師が直接関与しているのか。
「行こう、マシュー」
「坊っちゃん、警察へ通報します」
「通報は控えてくれないか、エマ。僕が何とかしてくるから」
州警察の不穏は想像以上にキングの選択肢を奪っていた。しかし特別顧客が把握していない事もある。それはキングという少年が持つ、生来の強さ。心根の強さだ。
彼はマシューの手を取ると二人で屋敷を飛び出していった。
「もし、そこのお嬢さん。こちらはキング・トートさんのお宅でよろしいですかな?」
「はい。どちら様でしょうか?」
腑に落ちない思いでモップがけを終えたエマが振り返る。彼女はまた仮装かという面持ちで男の姿を見つめた。
「私はキングさんの友人でしてね」
男はシルクハットを脱ぐと、芝居がかった仕草で革靴を鳴らしていた。
大きな赤ん坊に成り果てたはずのノーマン。そんな彼の再来と突然の銃乱射は、学園内を大パニックに陥らせるには十分すぎるほどであった。不幸な事にアンナ・キンドリーの身を庇ったSPが最初の犠牲者となってしまった。
「おい!本物のキングは何処にいる!あの野郎、ぶっ殺してやる!」
ノーマンの咆哮と共に鳴り響く銃撃音と生徒達の悲鳴。隣りにいた彼の恋人レベッカも銃を構えて不遜な笑みを浮かべていた。
二人共、やはり瞳は紅梅色に染まり、瞳孔が猫のような縦長になっている。
アンナは手探りで身を隠しながら、電話の在り処を探していた。職員室らしき場所までたどり着いた彼女は、充満する死の匂いとうめき声に一瞬だけ怯んだ。しかし事は早急を要する。
警察に電話さえ繋がれば、銃撃音で緊急事態は確実に伝わる。必要ならSOSのモールス信号を打つつもりでいた。
勇気を振り絞ったアンナは、血で滑りながらも電話を探し当て受話器を掴み取った。
『嘘』
電話線は何者かによって切断されていた。うんともすんとも言わない役立たずの電話。声を出すことの出来ないアンナの口から絶望の言葉が漏れていた。
また別の場所では、生徒達がひとかたまりになってその身を隠していた。皆、 そこにはいないキングに助けを求めた。だがしかし、彼は微笑みながら首を横に振るだけだ。
「怖い……」
「ふざけんな、キング!ここで死ねっていうのかよ!」
「シッ!大きな声を出さないで!」
「キング!隠れても無駄よ。ノーマンなら私の愛で立ち直ったわ!よくも騙してくれたわね!」
「偽者ばっかり用意しやがって、あの斜視野郎!小賢しいマネしてないで出てこい!」
ノーマンとレベッカの声だ。生徒達は泣きながら悲鳴を堪えるので精一杯であった。彼らが通り過ぎるのを確認した生徒の一人が廊下に顔を出す。ここで隠れていても埒が明かない。
見たことのない生徒が、何かをばら撒いていた。
「……武器だ。誰かが武器をばら撒いてる」
「私が取ってくるよ。ノーマンの暴走を止めるには戦わないと」
「キング……!」
歴代最年少で生徒会長となったキングは、無力に首を振ったりなどしない。生徒達はそんな彼が帰ってきたと、思わず歓喜の声を漏らしそうになっていた。しかしそれだけは絶対に避けねばならない。ノーマンに殺してくださいと言っているようなものだ。
代わりに彼らはキングの身体にしがみついた。現人神へすがるようにして。
「ふうん、私はキングか……」
立ち上がったキングが、恐れなど微塵も感じさせない様子で廊下へ出てゆく。彼ならノーマンの暴走を止めてくれるはずだ。生徒達は震えながらも安堵のため息をついていた。
けれども、キングはノーマンの元へは行かず、代わりに拳銃を数丁拾ってきただけだった。
意味が分からないという表情を浮かべる生徒に、拳銃を手渡すキング。彼は歪んだ悦びを押し殺すと、わざと悲しい表情を浮かべてみせた。
「私だけではどうにも出来ないよ。皆の力が必要なんだ。やってくれるだろう?」
「そんな……」
キングと呼ばれる人物は、生徒の肩を叩くと力強く頷いた。拳銃など触った事もない生徒達。彼らはキングの提案に逆らう事が出来ないでいた。恐る恐る安全装置に手を掛ける
「そう、それでいいんだよ」
声の主はアルビノを思わせる白い肌。サファイアを彷彿とさせる青い瞳を持ち、猫のようにしなやかな身体をしていた。しかし、髪の色はキングと真逆のブルネットで上背もある。何より、特徴的な斜視が存在していなかった。
「今から他の生徒にも応援を仰いでくる。先生達は最初に襲われてしまった。戦うんだよ、それしか方法はない」
キングと呼ばれていた人物。ヨシュア・キンドリーは邪悪な微笑みを向けると、別の生徒達を誘惑しに何処かへ行ってしまった。
置き去りにされた生徒達は、安全装置の外れた銃を手に選択を迫られていた。
ーつづくー