喫茶“なしのき”
腕時計を見ると、針はとっくに0:30を過ぎていた。
駅を降りる人間は自分ぐらいだ。
今夜は季節の割には少し冷える。風がひゅっと頬を撫でた。
今日もこのまま家へ帰り、冷凍のグラタンでも食べて眠るのだ。
この時間ではニュースもやっていない。撮り溜めたドラマを観る気力は残っていない。
ここ最近、毎日こんな生活……少し足が重い。
ふと視線を横へやると、店の灯りが目についた。
温かみのあるオレンジ色のLEDが、真夜中のアスファルトを照らしている。
(こんなに遅い時間まで……たしか喫茶店だったような?)
喫茶店が0時を過ぎても営業しているだろうか。
それとも閉店して、まだ店の人が後片付けでもしているのだろうか。
何気なく小窓から店内を覗くと、カウンターには男女の大人が2人、作業していた。
(なんだ、やっぱり後片付けをしているんだ)
家へ帰るだけ、なんて……つまらないから、他人の淹れたコーヒーでも飲みたい気もするけれど、そういった類の店は流石に何処も閉店している。
はぁ、と小さく溜め息を残して帰ろうと踵を返すと―――、
「まだ、やってますよ」
ガチャリと静かに開いたドアから、さっきまでカウンターに居た女性が声をかけてきた。
「えっ?」
「ウチの店はまだやってます。よければどうぞ」
女性はにこっと微笑んだ。
「あっ、えっと……まだ、やってるんですか?」
「はい。ウチの店は閉店が1:30です。ラストオーダーは1:15、まだ40分ほどありますから」
物腰柔らかな言い方と、店内からほんのり漂うコーヒーの香り。
誘われるままに店へと足を踏み入れた。
席までに向かう途中、ちらりとカウンターを見ると男性スタッフは黙々と作業を続けていた。
席に座り、メニューを手にして一番最初に驚いたのは金額だった。コーヒー、紅茶、麦茶、緑茶のみのラインナップで、全て200円なのだ。こういう喫茶店って、安くても500円ぐらいのイメージがある。
「お客様、膝掛けはご利用されますか?」
「膝掛け?」
「今夜は冷えますから。ウチの店は膝掛けの貸出しをしてるんです」
「あ、ありがとうございます……。あの、コーヒーをお願いします」
「はい、コーヒーですね。少々、お待ち下さい」
女性スタッフから膝掛けを受取り、せっかくなので広げて膝に掛ける。薄い布だがしっかりとぬくぬくと温まっていく、自分の脚は冷えていたのだと実感した。
改めてテーブルの上を見ると、ピンクのリボンで飾りつけられたカゴに、砂糖とミルクが入っていた。
メニューの表はよく見れば手描きだった。読みやすい達筆に、可愛らしいネコが描かれている。
店内を見回すと、至る所にアンティークものの雑貨が装飾されている。
時計はローマ数字、飾られている洋書は年季の入った、イイ具合に日焼けして茶色く黒ずんでいる。
隣にある写真立ての中の写真は、何処かの街の晴れた景色だ。
不意に、コーヒーの香りが強く漂って来た。見るとすぐそこまで女性スタッフが来ていた。
「今日も一日、お疲れ様でした」
女性スタッフは言いながらマグカップをテーブルに置いた。
「えっ?」
「お仕事の帰りですよね?こんなに遅い時間まで、お疲れ様です。こちら、よろしければどうぞ」
目の前にはお菓子の入ったバスケットも置かれた。中にはチョコレート菓子やせんべいが入っている。それも相当な品数だ。
「いいんですか?」
「もちろんです。今日は何か、イイ事はありましたか?」
「……いい事?」
「はい。私、お客様とお話するのが好きなんです。ですから必ずお聞きしてます。イイ事を話すのは楽しいじゃないですか?」
女性スタッフはいたって真剣な表情で同意を求めてきた。
「あ、もちろん、無理にとは言いません。私が話したいだけですから」
「いえ……いい事、なんて何も……。ただ働いてそれに夢中で……」
今日どころかここ最近、いい事など無かった。
上司に褒められたりとか、道端で100円を拾ったりとか、片想いしている人と目が合うことも。
「お疲れ様です。お仕事は何をされてるんですか?」
「派遣会社の事務です」
「いつもこんなに遅くまで?」
「いえ、普段はもっと早いです。この前、監査が入った時に、「書類が足りない」と指摘されてしまって……。前任者に連絡をとったところ、退職する時に処分したと言われてしまって」
「処分してはいけない物だったんですか?」
「はい。作成し直しと、他の資料も全て整理していて……。あ、すみません。いい事どころか、つまらない話を……」
「いいえ。私はお喋りが好きですが、聴くことも好きです」
女性スタッフは呆れた雰囲気すら見せずに、にこっと微笑んだ。
「資料の作成って、意外と時間がかかりますよね」
「えぇ。あの、チョコを1つ貰ってもいいですか?」
「もちろんです。1つと言わず、お好きなだけどうぞ。それではごゆっくり」
女性スタッフは軽いお辞儀をすると向こうへ行ってしまった。
温かいコーヒーは、冷えた身体を隅々まで暖めてくれた。
喫茶店でゆっくりコーヒーを啜るなんて、久しぶりだ。
そりゃぁ、家でも飲んだりはするが、やはり場所が違うだけで気分も変わる。
ほぉ…っ、思わず溜め息が零れた。それはいわば幸せを噛み締める時にでる溜め息と、とても似ていた。
ふと時計を見ると、1:15を過ぎたところだった。
―――いけない、思ったよりも長居してしまった。
立ち上がり荷物を持ちレジへ向かうと、
「お帰りですか?」
女性スタッフが尋ねてきた。
「はい。あの、本当に200円、ですか?」
「はい。コーヒー1杯ですから200円です」
「じゃぁ……」
小銭のトレーに100円玉を2枚置くと彼女は、
「ありがとうございます。明日もイイ事がありますように」
レシートを渡すと共にそう言葉を添えた。
「はあ、どうも」
「お気をつけて」
女性スタッフは最後ににこっ、と微笑んだ。
不思議なスタッフだったな。
お喋りが好き、話を聴くのが好きだと言って、自分の愚痴を思わず聞かせてしまった。
だけれど、彼女の「お疲れ様」は嬉しかった。
職場は監査の影響で緊張が張り詰めていて、呼吸をするにも苦しい。
資料作成など各々で当たり前に行なっていることだから、「時間がかかる」などと共感してくれたのも、そう思っているのは自分だけではないのだと思った。
―――今度はいい事があった時にでも行ってみよう。
「今日はもう閉店だね」
彼女の言葉に彼は頷き、先程の客が使用したテーブル席の後片付けを始めた。
彼女はドアを開け、小さな看板を店内に入れてから、ドアに掛けられている“OPEN”の札を反転させて“CLOSE”の文字を表にした。
ここは、“喫茶なしのき”。
お喋り好きな彼女と無口な彼が、趣味で気ままに経営する、真夜中限定の喫茶店。
大人の仕事終わりの寄り道、癒しと解放の空間を提供している。
読んでいただき、ありがとうございました。
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