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大砂を抱く巨獣

作者: リドン

砂漠のど真ん中に、男は荒いエンジン音を響かせながら船を進ませていた。

男の視線の先には、果てしなく地平線が続いているだけで何も見当たらない。だが、その眼は船が進む先にある何かをしっかりと見つめている。

男には目的があった。この広大な砂漠の中船一隻だけで航海をしているのも、目的のためだ。ふと、どこからともなく頭上から砂粒が降り注ぐ。降ってくる粒の中には砂利や小さな石も混ざっていて、さながら雹のようだった。男は雹などまるで知らないのだが、この奇妙な現象を見てから、軽く息を吐いた。どうやら目的地に着いたらしい。

陽炎が揺らぎ、砂塵が舞う。

永久不変とも思える景色に現れたほんの小さな変化を、男は見逃さなかった。

砂の海から一つの小さな影が飛び出し、また潜っていく。飛び出しては潜り、それを繰り返していく内に一つだけだった影は数を増やしていき、やがて群体を成し始めた。

砂海に生息する、スナウオの群れだ。小型の砂漠魚で、普段は砂の下に潜んでいるせいで姿を見せることは無いが、年に一度、産卵の時期が迫るとこうして大群で移動し始めるのだ。

やがて群れは辺り一帯を埋め尽くし、砂埃がより激しくなる。

今も砂上でご機嫌に飛び跳ねるスナウオを見て、男も口角を吊り上げた。

男は漁師だった。砂漠漁を自らの天職と定めてから十年間、彼はほぼ毎日こうして砂の大海に船を出している。故郷ではもはや彼の腕に勝るものはおらず、まだ若々しさを残しつつも、顔つきは歴戦のものになっていた。

男はスナウオの群れから視線を離さずに、手元に置いてあった得物を構え始めた。手に取ったのは銛、長身の男よりも大きく、刃先もまるで刀身のように長く鋭いそれは、銛というよりかは槍や矛に近い。

勿論、そんな得物で大群のスナウオを捕えられる筈がない。無論、歴戦の漁師が狙っているのもスナウオではなかった。

群れと船の距離を一定に保ち、機会が訪れるのを窺う。

じっくりと、ただひたすら待つ。見逃さまいと大きく見開いた目に砂埃が入ろうとも、拭う素振りすら見せない。

そして、奴は現れた。

前兆は突如として船を襲った震動。立つのも厳しくなるほど激しい揺れが、船から漁師を砂海に落とそうとする。男は鍛えている強靭な足腰で耐えていたが、いよいよ揺れの激しさが最高潮になると、なりふり構わず船にしがみついた。

震動の正体は、奴が砂の海底から浮上してくる際に邪魔な砂や岩石を強引に押しのけて起こるものだ。

そうして浮上しようとした場所は、不運にも漁師の船が停められた場所だった。

気付いた時には、既に砂海は船を持ち上げ、丘のように盛り上がっていた。こうなっては船も身動きが取れない。

しかし、砂海が今も尚膨れ上がっている中、漁師はこれを絶好の機会だと自らに言い聞かせ、銛を固く握り締めて衝撃に備えた。

そして、海が爆ぜた。

砂海をものともせず、最初に突き出たのは尖塔のような大角、その次に現れたのは、見るもの全てを驚嘆させる岩石の巨躯。

漁師の目的は他でもない、クジラだった。




大砂を抱く巨獣、クジラ。砂海の中でも浮力を保つ柔らかい脂肪を覆っているのは、岩盤の如く硬質化した皮膚であり、獰猛な性格と手当り次第に食い散らかす雑食性を持ち合わせている。

クジラがこうして現れた目的は、スナウオの大群だ。未だに生態の大部分が謎に包まれているクジラだが、一つハッキリしているのは、一年に一度のスナウオの大移動と共に出没頻度が高くなるということだ。

クジラにとって、餌の乏しい砂漠の中であの群れは貴重なご馳走なのだろう。

しかし、何でも喰らおうとする獰猛性は危険極まりなく、先日も砂上キャラバンの船団がクジラに襲われ、壊滅的な被害を被っている。

小型船一隻程度ならクジラは気にも留めないが、それが集団を形成すると瞬く間にあれの餌食になるのだ。あの巨躯からすれば、船もスナウオも大した違いは無いのだろう。

男がこうしてこの場所に赴いたのも、その事件が起こったからだ。

クジラがこの場所に居座っている限り、ここら一帯の安全は保障されず、交易にも多大な影響を及ぼすため、クジラを狩った経験がある唯一の漁師である男に依頼が回されたのだ。


クジラが上空へと飛んだ。

クジラの跳躍は砂海の名物であり、旅人が語って聞かせる自慢話の定番だ。

クジラはその巨躯にも関わらず、自身の大きさ程の高さを跳躍し、宙空に舞う。その迫力は正に自然の雄大さを思わせるものである、と彼らは語る。

それを見るためだけに観測所や灯台から離れようとしない者もいるほどなのだ。旅人にとってクジラとはよほど浪漫に溢れたものなのだろう。

だが幾らその姿を目に焼き付けようと、クジラを語ることは出来ない。遥か遠くから、安全な場所から見ただけの感想では、クジラの真の強大さは表現出来ない。

宙に舞ったクジラが陽光を遮り、一瞬だけ船の周りに夜が訪れた後、衝撃が船を吹き飛ばした。

クジラがスナウオの群れを空中から丸ごと呑み込んだのだ。

何度見てもあまりにも一瞬の出来事で、それに美しさや感動を覚えることはない。がいつも心に抱くのは畏怖だった。

幸いにも、男は浮上場所に位置していた船諸共吹き飛ばされたのにも関わらず、転覆することなく着砂した。

とはいえ、かなりの高度から落下した衝撃は凄まじく、痛みが男の身体を襲う。

歴戦の漁師として皆に尊敬されるようになり、既にクジラを狩った経験があるにも関わらず、男はクジラへ恐れを抱かずにはいられない。砂漠を呑み込み、巨大船を貪り、砂海を縦横無尽に荒らす暴君。正に災いと言うべき存在。

旅人の憧憬は、男にとって絶望でしかなかった。

だが、それでも漁師は闘志を絶やさない。それは、無念を遺して散ったキャラバンの為でも、己の帰りを待つ故郷の為でもない。

何があってもずっと手放さなかった銛を更に強く握り締めた。そして、投擲の姿勢を構えた。

クジラは漁師を意に介さない。文字通り眼中に無いからだ。砂中で育ったクジラは視覚ではなく、聴覚で獲物を認識しているらしいのだが、どちらにせよ油断していることに変わりはない。

砂の波がクジラの躍動に合わせて揺れ動く。そんな不安定な足場においても、漁師は姿勢を崩さない。焦らず、ただ一点を見定め、捉える。

満足した獲物が寝返り、岩の外殻に覆われていない腹部を砂海から露出させる、と同時に漁師が銛を放った。

放たれた一撃は船と獲物の距離をすぐに埋め、無防備な脂肪を貫く。それどころか、銛は勢いを失わぬまま突き進み、僅かではあるもののクジラの臓腑を傷つけた。

瞬間、鈍重な咆哮が砂漠に轟く。威嚇でも、警告でもなく、痛みに耐えられない悲痛の叫び。

ほんの一瞬、刹那の間に現れた鋭い痛みは、蝕むように広がる。

クジラが痛みに耐性がない訳ではない。むしろクジラの日常は生傷絶えぬものだ。大抵は自重に耐えきれずに、自身を覆う岩に皮膚を裂かれるときだってある。同族同士で争う時は片方が死に絶えるまで続き、勝者も満身創痍になるのが常だ。

だが、それでもこの広がる痛みは、クジラの知らないものであり、とても耐えられるものではなかった。

漁師の放った銛には劇毒が塗られていた。かすりでもすれば、人間すら即死に至らせる毒。流石にクジラ相手では即死とまではいかないが、それでも弱らせるには十分だ。ましてや、それが臓腑に達していたならば尚更だ。

会心の手応えを覚えた漁師はすかさず予備の得物を手に取る。早々に仕留めきるつもりなのだ。

そうして二射目を構えた瞬間、想定外の事態が起こる。いきなりクジラがこちらに狙いを定め、突進してきたのだ。

いまにもこちらを食い散らさんと、その巨躯には似合わない速度で突進してくる。

漁師はあくまで冷静に船のエンジンを急点火し、フルスロットルの加速でクジラの突進を間一髪回避して見せた。が、冷静を装った表情の裏には、不安と焦りが渦巻いている。

今までのクジラは一投目で悶え苦しみ、二投目で絶命していった。だというのに、このクジラは毒で身を蝕まれて尚、こちらへの敵意を絶やさず襲い掛かってきたのだ。

漁師は船がじゃじゃ馬のように荒ぶるのを制御し、クジラと相対する。

クジラもまた、視力なき瞳ではあるものの、しっかりとこちらを見つめていた。

砂海の暴君として恐れられた怪物が、一つの小さな存在を脅威とみなしている。

どうやったかは知らないが、痛みの原因はあれだ。ならば、あの影は喰わなければならない。

激痛が身体中を襲っていても構わない、必ず喰う、否、殺す。

この砂海のありとあらゆるものを喰らい尽くして手に入れた歴戦の自負。それを脅かすものは何であろうと許されない。それが取るに足らぬ小さき者だったとしたら尚更だ。

クジラの背に聳える岩山から、砂潮が噴き出す。クジラが獲物を仕留めるのに興奮している。躍起になっている。

漁師は初めて獲物から敵と認められた気がした。唐突に湧いた未知の感情が、不安も焦りも畏怖すらも消し飛ばし、漁師の心を埋め尽くす。高揚が止められない。

エンジン音が更に荒くなり、船体が悲鳴を上げる様に軋む。

構わない。片手で舵を制御し、銛は変わらず握りしめる。

誇りならば、この男にだってある。

男は歴戦の漁師だ。数多の獲物を獲り、幾度の死地すら乗り越えた。技量も度量も運すらも、誰にも負ける気はしない。例えそれが、山岳の如き怪物が相手でも。

互いに歴戦を自負する二つの誇りが、今決着をつけるために交錯し、激突した。

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