破り捨てる絵描きの話
僕の目の前で、彼女は眠っている。
すやすやと、邪気の無いような顔をして。
握った手の先、彼女の手首から腕にかけて、無数の赤い線が描かれていた。
僕が彼女に出会った頃、彼女は絵描きの見習いだった。
幼い頃から絵画の才能に恵まれ、いくつもコンクールに出品し、賞ももらっていた。
だけど彼女には妙な癖があった。
彼女は自分の描いた絵を必ず破いてしまうのだ。
特に、出来が良いものや完成度の高いものほどずたずたに、びりびりに破いてしまう。
コンクールに出した絵も、返却された途端にナイフを突き立てていた。
無事なのはどこかに寄贈されたものくらいだった。
そのため、彼女がこれまで描いてきた絵で、手元に残されているものはほとんど無かった。
どうしてそんなことをするのか、当時彼女に聞いてみたことがある。
彼女は笑いながら答えた。
「だって、あんまり上手に描けちゃったもんだから」
上手いのは確かに認めるが、見習いとは言え、仮にも創造することを生業としているのに。そのとき僕には理解ができなかった。
彼女は出来上がった絵を満足げにじろじろ見回すと、ガシャンとイーゼルごと蹴り倒して、カッターナイフを手にカンバスをびりびりと引き裂いてしまう。
そのときの彼女は、笑っていた。
幼い子どもが、自分で作ったブロックの車や砂のお城を最後に思い切り壊すかのように。
邪気の無いような顔をして笑っていた。
彼女はその後も絵を描き続け、破り続けた。
それでも彼女が学校を卒業する頃には、世間から注目を浴びるようになっていた。
もはや見習いではなく、仕事として絵を描くようになった彼女は、自分の絵を破くことはしなくなった。
彼女は以前よりも更に多くの絵を描き、多忙になっていった。
寝不足気味な様子だったし、あまり食欲も無いと言っていた。
ちょっと無理しすぎてないか、大丈夫かと聞いても、平気だよ、と、目の下に隈のできた顔で笑った。
やがて僕と彼女は一緒に住むようになった。
ふたりとも決して裕福ではなかったが、彼女のために静かな町外れに居を構え、小さいが明るく風通しの良いアトリエも用意した。
これで彼女も少しは楽に絵が描けるだろうと。
しかし彼女は、ぱったりと絵を描かなくなった。
朝早く起きて、家に併設したアトリエに行ったかと思うと、絵筆を握り締めたまま夜まで一日中カンバスの前に座ってぼうっとしている。
食事もほとんど摂らず、夜もあまり眠れない様子だった。
一体どうしたのか、大丈夫かと聞くと、スランプかなーおかしいなーと彼女はぼんやりと答えた。
僕は、無理に描こうとしなくていいから、とにかくちゃんと食べて寝て休めと言った。
それでも相変わらず、一日中アトリエでぼうっとしていた。
ある日の夜、何やら音がしたのに気が付いて目が覚めた。
隣で寝ているはずの彼女がいなかった。
まさか。飛び起きて部屋を出ると、アトリエの方から音がしてきた。
大きな音。ガラスの割れるような、何か倒れたような、小さな物がばらばらとぶちまかれたような、色々な音が聞こえてくる。
アトリエに駆け付けると、電気も点けていない薄い月明かりの中で、彼女は泣いていた。
部屋中にはイーゼルやら絵筆やら画材やら様々なものが散乱し、静物も割れていた。
その真ん中で、彼女はぐすぐすと泣きながら何かごそごそしている。
僕は一度ごくりとつばを飲み込んで、電気を点けると、彼女は自らの腕にカッターナイフを突き付けていた。
僕は慌てて飛びついて彼女からナイフを奪った。
彼女の腕にはいくつもの赤い線が描かれていた。
「創くん」
彼女は傷だらけの腕で僕にしがみついて、
「壊したい」
震える声でそう言い、大声で泣き出した。
僕は彼女を寝室まで連れ帰り、憔悴し切った彼女を寝かし付けようとした。
ベッドに横になり手を握っていると、彼女は少し落ち着いてきたようで、ぽつりぽつりと話し始めた。
「壊したいの」
「何を?」
「今まで描いた絵、全部」
あんまり上手に描けちゃったから?と、昔彼女が言っていたことを思い出して聞いた。
「うん、思った通りに、頭の中にある通りに描けすぎちゃった」
「どうして思い通りに描けたら壊したいの?」
「だって、」
彼女は言葉を詰まらせた。
「だって、全部、わたしなんだもん」
握っていた手に力がこもった。
「描いた絵、全部、わたしなの。わたし自身なの。だから、壊したい」
彼女は枕に顔をうずめた。
「だけど・・・描きたい。いっぱい描いて、描いて、それからずたぼろに壊したい」
僕は芸術とか絵のことはさっぱりわからないが、彼女がこれまで描いてきたものは、彼女自身なのだろうとは感じていた。
だけど、それは彼女にとって、否定したい自分自身だった。
否定したい自分を形にすることで、そしてそれを破壊することで、否定してきたのだ。
形にしても壊すことができないバツの悪い苛立ちから、絵を描くことができなくなったのだろう。
ついにその苛立ちをカンバスではなく自分自身の身体にぶつけてしまったのだ。
僕は少し考えて、言った。
「壊していいよ。好きなだけ破いていいからさ、その前に、描いた絵、僕に見せてよ」
彼女は枕から顔を上げた。
「いいけど・・・」
「じゃあ、約束ね」
彼女は、うん、と小さく言った。
ほどなくして彼女は眠ってしまった。
僕は、握った手の先に無数に走っている赤い傷に、そっとキスをした。
大丈夫だよ、この傷ごと、愛してるから。
それからしばらくの間、彼女は利き腕を骨折したと言って、絵の依頼を断っていた。
しかし自宅のアトリエでは、猛烈なペースで絵を描き続けた。
僕が仕事から帰ると、絵具まみれのエプロンのまま玄関にやって来て、また描いたから見てくれる?とおずおずと聞いた。
僕は毎日のように彼女の絵を見た。
彼女の中にある否定したい気持ちを、真正面から受け止めた。
不安、孤独、焦燥、狂気、破壊衝動。
それらを全部絵に、僕にぶつけてきた。
僕は毎回、うん、よく描けたね、と言って、その絵を見た。
そして彼女はそれを僕の目の前で破いた。
僕はその様子も、しっかりと見届けていた。
彼女はいくつもの絵を描き、僕に見せ続け、破いた。
それを繰り返すうちに、だんだんと、彼女は絵を破らないようになっていった。
彼女が否定しているとしても、僕は決して否定しない。
受け入れる。
それが伝わったようだった。
それと同時に、彼女はきちんと食事を摂り、眠れるようになった。
彼女はどうやら利き腕の骨折が完治したようで、仕事も再開した。
僕の目の前で、彼女は眠っている。
すやすやと、邪気の無いような顔をして。
握った手の先、彼女の手首から腕にかけて、無数の薄い線が描かれていた。
きっといつか完全に消えてしまうだろうと、僕はその傷跡にそっとキスをして、彼女と一緒に眠りについた。