epilogue 『一人目』
――――ビール掛けというのはこんなにも激しいものだっただろうか。
「――――、――っ! だあああああああ!!!」
「あ、あ、あ、あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛!!!!!」
「ごひゅ、が、ぼぉえぇっ! オエ…………」
今のは誰だ。
誰の叫び声だ。
誰かが溺れている?
分からない、周囲の状況が全く――――!
前後不覚、視界はほぼ潰れ、目は焼け、喉は爛れる。
こんな――――こんなだったか!? ビールかけって!?
「――――オウルズ三十四年ぶりの――ですがっ! うわ――今の気持ちを率直に――しまーす!!」
美人アナが麦酒の滝という洗礼を受けている。
あんな荒行の中、質問を言い切った彼女は敬服に値するだろう。
だからこそ、彼女の勇姿に応えるために。この場にいるオウルズに携わった人間全員が、同じ言葉を口にした。
「「「「「「「――――サイコーです!!!!!!」」」」」」」
「いやーヤバかったっすね。ビールかけ!」
「いやホントに……お前ら遠慮なさ過ぎ」
一時の祭りが過ぎ去った後、身体のべたつきを拭き流す。
会場は盛況に、未だ興奮冷めやらぬといった様である。
「いーじゃないすか。俺ら初めてなんすよ? 国奏さんは経験あるでしょ?」
「確かにウルフェンズの時に何回かやったけど、こんなんじゃなかったわ……」
そういう国奏の目は充血しており、隣で話す後輩投手の目もまた同じだった。
ゴーグルを余裕で貫通する麦酒。どんだけぶっかけてんだよと心中でつっこむ。
「監督がビールかけは日本一になった時って言うから。みんな我慢してたんすよ」
「あー気が緩むからって言ってたな。というかお前、真野さんとコーチにばっか集中的に狙ってただろ」
「あ、バレました?」
いくら無礼講と言っても加減というものがあるだろう。
しかし、実際問題これはオウルズにとっては数十年ぶりの日本一なのだ。
受け継がれてきた思いの丈は計り知れない。
選手のほとんどはリーグ優勝も経験した事がなかったのだから、盛り上がりすぎてしまうのも当然かもしれない。
「全員俺が泣かせてやりましたよ」
「アホ、あれは感極まって泣いてたんだよ……じゃ、お先」
「うーす、お疲れさまでーす」
濡れた身体をタオルで拭き、着替える。
忙しい事だが、明日もインタビューの予定がある。
ある程度早く身を整えなければならない。
そして諸々の支度を整え、帰宅の途につこうとした時。
「ん?」
揺れる胸元ポケットのスマホ。
取り出して画面を確認すると、そこには少しばかり懐かしい名前が。
「…………もしもし」
『ん、あー。そんな声だっけ? お前』
「おい」
一声目からなんとも失礼な奴だ。
しかし、それも不快ではない。
そういえばこういう奴だったな、と思わず笑ってしまった。
「アルコールで喉が焼けてんだよ」
『お前祝勝会の掛け酒そんなに飲んだの? やるねぇー』
からかうような軽さのある声。
しかしこれは電話主生来の声質で、どんな時でもこの男の声色はこんな感じだった。
「……で、祝いの電話か? 近郷。タクシー待たせてるから手短に頼む」
『おー、そうそう。優勝と日本一おめでとう。てかひどいな、元チームメイトで同期だよ俺たち』
「ありがとう。手短の下りは第一声の仕返しだ」
『あー……お前そんなキャラだったな。忘れてたわ』
こういう掛け合いも昔はよくやっていた。
ウルフェンズ黄金期を代表する選手。昨年度からMLBへ移籍した遊撃手。近郷愁斗。
電話の主は、国奏にとって親友と呼べるその男だった。
「…………で、どう思った?」
『あと一年、こっち来るの遅らせても良かったかなって思った』
これは少し、返答に困った。
「それは……助かったな。お前が相手に居たらこっちはマジできつい」
『まぁ試合の内容は単純に面白かったよ。みんな相変わらずだなって。外から見るのはおもろいわ』
「…………」
近郷の近況、というか向こうでの活躍は国奏も知っている。旧知の仲という事で単純に興味があるし、そもそもスポーツニュースだとよく取り上げられるからだ。
「そっちはどうなんだ? やっぱメジャーってヤバいの?」
『やーばいねー。打つ方はまぁ何とかなるかなって感じなんだけど、守りが段違い。結局ショートのレギュラー取れなかったし』
近郷は即戦力の内野手としてMLB球団と契約した。
本人はショートで挑戦すると公言していた筈だ。
しかし、結局起用される守備位置はセカンドを中心としたものに落ち着いていた。
それが、国奏には衝撃だった。
近郷は国奏が見てきた選手の中で最も攻守でずば抜けていた選手だと言ってもいい。
そんな選手でも通用しなくなるメジャーリーグ。
海外では、最も身体能力に優れた選手はショートを守る傾向がある。
即ち、メジャーの遊撃手は野球選手の中でも特に怪物がひしめく場所なのだ。
その程度の知識は当然国奏にもあったが、それでも近郷なら日本人初めてのMLBショートとして成功すると思っていた。
少なからずのショック。それが近郷を近くで見ていただけの国奏にもあったのだ。
本人はどれほどの――――
『でも俺はあきらめてねぇよ』
「…………」
『年齢的に身体能力のピークは過ぎただとか、エイジングカーブだとか知らねぇ。俺は挑戦できる間は常に上を目指す』
「…………ま、お前はそういう奴だよな」
『つーか俺の話はいいんだよ。お前の話だお前の』
「俺?」
『あぁ、久しぶりに見たよああいうプレーするところ。それでびっくりして電話かけたんだよ。ホントは初戦の時にコールしたかったけど、これでも遠慮したんだぞ?』
「……話変わるけどお前今どこにいんの?」
『ロス』
「じゃ、今早朝か」
わざわざ早起きして試合を見ていたんだろうか。
『で、話し戻すけど……お前どうなん? 先発戻んのか?』
「――――いや」
その想いはもう断ち切った。
しっかりと清算するものを全て清算し切った。
もう国奏の中にはそれは残っていない。
『吹っ切れたのか?』
「吹っ切ったつうかなんというか……今までの自分を否定したくなかったって言うか……まぁ、こういうのもアリだよなって」
『…………』
電話越しの沈黙。
まずいな、変な空気になってしまった。
たった一年会わないだけで、会話を繋げる言葉が出てこなくなる。
「何だよこの会話……中学生みてぇな話してんな俺ら」
こんな、間を繋ぐだけの誤魔化しの言葉しか言うことが出来ない。それがもどかしい。
しばらくの間、そんな沈黙を破り切れない言葉の応酬が続いて。
『ジュンヤさ、こっちこねぇの?』
先に破ったのはあちらの言葉だった。
懐かしい呼び方が、少し耳に残った。
「こっちってアメリカ? そりゃ流石に、無理があるだろ色々と。第一、まだ俺は3年契約の一年目だ。契約完了するころには30超えてる」
『関係ねぇだろ。いっぱいいるよそういう人。39歳で挑戦して結果残した大先輩もいんだろ。MLBは凄いのがいっぱいいる。化け物みてぇな体してる奴等がアホみてぇなスピードで駆け回ってる。投げる方だってとんでもねぇ球が来る。そういうのと勝負して、勝つのはすげぇ気持ちいいぞ? 他の奴等にも声かけてさ、昔のノリで中年なりかけの俺らが殴りこむんだよ。絶対面白いわ』
「それは……魅力的だな」
『だろ? なら――――』
「でも、やっぱいいかな」
『…………理由は?』
「今はまだ、この自分を楽しんでみたい。今の自分を全部やり切ってまた次の自分に会いたくなって。その時まだ俺を必要としてくれるところがあれば考えるよ」
再び、沈黙。
だけど今回は、もどかしくはなかった。
『結構長電話しちまったな……最後に一つだけ聞かしてくれ』
「なんだ?」
『満足したか?』
――――やっぱり変わっていないな。
どこまでいっても、この男はあの時のままなのだ。
常に上を見て、常に周りを引っ張り上げる。
あんな昔の泣き言を、未だに気にしてくれている。
「ああ」
『おっけ。長く喋って悪かったな。あっ、今の住所教えろよ。いい感じにえげつない珍味がこっちにあってな、送ってやるわ』
「いらね。送りつけたいなら自分で渡しに来いよ」
そう言って、電話を切る。
話すべき事は話し終えた。
いつの間にか、酔いはすっかり醒めていた。
ふと空を見ると、随分と明るい夜である事に気付いた。
一等光を放つ星もあれば、ちかちかと明滅する星もある。
天体観測に興味はなかったが、こうしてみるとなかなか風情があって乙なものかもしれない。
「綺麗なもんだな……」
自分のスタンスはもう決めている。
リリーフ。短いイニングを投げ、後続に繋ぐモノ。
もしくは、窮地の味方を救援するモノ。
ウルフェンズを出て、オウルズに来て。
自分の価値を揺さぶられて、その原点に立ち返って。
今やっと、そこで生きていこうと本当の意味で決意できた。
かつての国奏淳也が夢見た姿からは少し褪せているけれど。
――――鈍く輝いて、誰かの目に留まる程度には成れたように思う。
最終話です。完結です。
長い間お付き合いいただきありがとうございました。
更新の遅い本作に付き合ってくださった皆様には感謝しかありません。
またネットのすみっこの方で出会う事があったらよろしくね。




