48話 『主役』
奇妙な感覚だった。
間違いなく人生の中でも上位に位置するマウンド。戦況。先発。
この試合を預かる立場として、それ相応の緊張をもって今日という日を迎えるだろうと思っていた。
なのに、目が覚め今この時に至るまで。自分にはこれっぽっちも気負いというものがなかった。
「なんでだろうね? 流石の日本シリーズといっても2度目の先発だとそこまで緊張しないものなのかな?」
「いや、日本一が懸かってるんだから少しは緊張してくださいよ、としか俺は言えないですね……」
そういう不破の言葉に、国奏は苦笑しながら答えた。
早朝、関係者駐車場。
先日第5戦を勝利したオウルズは、1日の移動日を挟みホームへと帰還していた。
シーズン初めの春先。
朝早くに球場入りする不破と国奏は、自然と会話する機会も増え、今はこの駐車場で顔を合わせるのが一種の習慣のようになっている。
「随分とこの時間の車も増えたね」
「まぁ、大事な日ですから」
「シーズンが進むにつれて増えていったんだよ。徐々にね。チームに実感として優勝の意識が生まれていった証だ」
雑談をしながら歩く。
不破のその様子は、普段と何ら変わりない、慣れ親しんだそれだった。
不破は本日の試合の先発だ。
3勝で日本一に王手をかけているオウルズ。言うまでもなく、不破のこの試合における役割は大きい。
そんな状況で全く気負わないなど国奏からしても信じがたかったが、何の変わりもなく会話する様子を見て、本当に言葉の通りなのだと理解した。
「自分でも不思議なんだけど」
「はい?」
「勝つという確信があるんだ。そりゃ簡単じゃないだろうし、相手も必死だろうし、僕は打たれるだろう。でも、今日の試合で全部決まって終わるような。そんな感じがする」
ま、僕の勘はあんまり当たらないんだけど、と不破は付け加える。
「…………」
試合前に結果が分かる筈もなく。不破の言葉は楽観が過ぎると言う事もできる。
しかし――――
「俺からすれば、今更ですね」
「ん?」
「俺はこのチームに来る事を決めた時から、日本一になるという確信しかなかったですよ」
スポーツ選手は、これぐらいでいい。
敗北をイメージするような選手が勝利を掴める筈もない。
戦うのならば、確実に勝つ。戦えば、負ける筈がない。それぐらいのメンタリティが健全なのだ。
「うーん……薄々感じていたけど、君のソレはメンタルコントロールの一種だね」
「あっ、分かりました?」
「春キャンプの挨拶の時から国奏くんは飛ばしてたからなぁ。言霊という考え方もあるし。最初はそういうタイプの人なのかと思ったけど、時たま出るビッグマウスがやけに場を意識したタイミングだったからね。意図的なんだろうとは思っていた」
「こういうのは他人に伝えた方が効果が出る気がするんです。ただマスコミに喋るのはアウトですね。一度それで痛い目を見ました」
「それは、ご愁傷様」
お互いに何とも微妙な表情で笑う。
どちらも10年以上プロで生きてきた人間。
外野に色々と言葉を盛られる経験も覚えがある。
「ただ、僕の勘は君のとはちょっと違う気がするな」
「そうなんですか?」
「うん。だって僕は本当に、何故か今日は勝てると思っているんだ。それもこれまでのように劇的な展開はなく、いつも通りのウチの野球で。いつもの通りに勝つと思う」
不破の物言いがしっくりとこなかったのか、国奏は不思議そうな顔をする。
「どんな試合だろうと、僕たちのやる事は変わらないって事だよ」
「あぁ、そういう意味でしたか。確かに、やる事やるだけですね。物事の真理だと思います」
会話はそれで切り上げ、後は各々の調整へ。
球場に入り、すぐに二人は行動を別にした。
本当は不破が国奏に語った言葉にはもう少し理由があった。しかし、それは語らずに心にしまっておく。
「(だって――――そうなる運命を感じるだなんて、三十路を超えた中年には気恥ずかしすぎる台詞だろう?)」
◇
7回の表、国奏淳也の名前がコールされた。
ここまで投げた不破は6回3失点という成績で、試合を後続に引き継いだ。
現在のスコアは3-3の同点。緊迫した試合、簡単なゲームなど一つたりとも存在しない。
マウンドに上がる時、国奏は違和感――というには少しばかり脆弱に過ぎる、脳裏に霞む懐かしさ――を覚えた。
少し考えれば、その原因はすぐに特定できた。
普通の中継役として投げるのは、随分と久しぶりなのだ。
ポストシーズンに入ってから、国奏の起用法は特殊なものだった。
それに起因し、先発やショートスターター、抑えまでやったが、シーズン中自分が担っていた勝ちパターンの一角、リリーフとしてのメインの役目は一度も果たしていなかった。
つまり、この試合。この瞬間に初めて。
シーズンを通して、オウルズの一員として、リリーフとして。
自分が積み上げてきた純粋な全てを、狼相手に振るうのだ。
「(あぁ――――なるほど)」
不破の言葉の意味にようやく気付く。
彼の言う通り、今日の試合は普段のオウルズの得意なパターンで進み、シーズン中に何度も行った勝利への道筋をなぞっていた。
先発が試合を作り、中継ぎが抑え、1点でもリードを保ち、勝利する。
秘策、奇策に頼ってきた日本シリーズ。
その中で、勝てば日本一が決まる王手をかけた試合。
そこで初めて、本来の姿のオウルズが、強者ウルフェンズと戦えているのだ。
だとすれば確かに。
この試合に特別な展開などなく。
淡々といつも通りに、梟は勝利するだろう。
『どんな試合だろうと、僕たちのやる事は変わらないって事だよ』
全くもってその通り。
国奏の役割はどんな場面だろうと0で抑える事。
自分の役割を果たせば、誰かが打って、誰かが抑え、誰かがヒーローになる。
そうやってこの舞台に辿り着いたのだから、そうやって決着をつけるのが正道だろう。
保証はない。ただ確信はある。
この試合は勝つだろう、と。
事ここに至って国奏は不破と同じ感覚を体験する。
状況は五分。しかし、役割を果たせば後に続く誰かが必ず勝負を決める。
何故なら――――今日の主役は誰でもないのだから。
◇
成功と失敗。
行動を起こした結果。物事の取捨選択をした結果。
個人もしくは集団が行うアクションに付随する大雑把な評価の尺度。
成否、正誤、是非、正解か不正解か。
人ひいては集団の選択する行動には、必ず終わりにその選択が成功したのか失敗したのかの判定が下される。
人か数字か歴史か。
ジャッジを下す裁定者は違えど、その裁決によって決断の成否は決定される。
そして、選択による結果をまざまざと見せつけられるのは――誰だろうと堪えるものだ。
「ふぅー…………」
汚れのない灰皿。設置されて以来一度も使われたことなく、最早ただのインテリアとしてその機能を持て余していた陶器に、煙草が押し付けられる。
職場での一服は、茂木多健一の流儀に反していた。
煙草は日に一本。その日の仕事を全て片付け、何の憂いもなくなった時に嗜むもの。
そのように、やってきた。
だというのに、茂木多は今日、そのポリシーを破ってその一服に手を出した。
煙と一緒に吐き出すは、数々の情緒か。直前まで茂木多を支配しかけていた感情の濁流は、その一息によって随分と落ち着いた。
その知らせは、茂木多の耳にも届いていた。
届いたからこそ、受け入れなければならない。
既に結果は出て、裁決は下されたのだから。
「……完敗だな」
茂木多はウルフェンズのゼネラルマネージャー。チーム編成部のトップである。
その役目は勝てるチームを作り出すこと。ゼネラルマネージャーの成果はシーズンが終わり、順位が確定した時に判明する。
プロ野球において勝てるチームを作り出すにはどんな手段があるだろうか。
現在のチームに足りない点を的確に把握し、補強すること。現場との連携を怠らず、人員を適切に配置すること。細かく見れば、必要とされる能力は山ほどある。
しかし、ひとつ。非常に単純で分かりやすく。他の何よりも効果を発揮する方法がある。
『金を使う』ことである。
シンプルに、他の球団より金を使えるチームが強い。
これが真理であり、覆しようがない現実である。
その点で言っても、現在のウルフェンズは日本最強のチームと定義できる。
表に出ている総年俸でもNPB最高。動かしている総資金で最低額のチームを3つ分は優に養える。
無論、これだけの金をひねり出したのは茂木多の手腕もあっての事。
三連覇による主力選手の年俸高騰。膨らむ運営資金を何とかやり繰りし、選手を動かし、今の金額まで抑えたと言ってもいい。
しかし、それでも日本で一番金をかけているチームである事は変わりようのない事実なのだ。
一番金をかけているチームが、負けていい筈がない。
もしそんな事が起こったとしたらそれは――チーム編成を根本的に間違えた事の証左に他ならない。
つまりは、編成の失敗だ。
「62億対31億……笑えないな」
言葉に出して、背筋が凍える。
ジャイアントキリングといえば聞こえは良いが、やられる方はたまったものではない。
昨年の敗北に関しては、相手がほぼ同等の資金力を持つラビッツであったので言い訳が立った。
しかし、今年に関してはそうではない。
62億と31億。これはウルフェンズとオウルズの、表に出ている分の選手の総年俸である。
公表されていない裏では更に金が動いている。
しかし、それを考慮してもウルフェンズはオウルズのおよそ倍程度の金額をチームに費やしている。
それにも関わらず、敗北した。
何を間違えたのか。どこに間違えがあったのか。
それを目を閉じ、考える。
「(いや……全ては結果論だ。未来を見通す事など出来ない。誤算は全ての決断に発生しうる。あの時点での私の判断は、今でも間違っていたとは思わない。しかし――――)」
結果論と言えど、失敗した事に変わりはない。
二本目の煙草を取り出し、火をつけようとしたところで、脳裏に一番の誤算の顔が思い浮かぶ。
茂木多は苦笑しながら手に持った煙草を箱に戻し、椅子に背を持たれ天井を仰いだ。
「結局は、私は失敗し君は成功したという話なのだろうな」
次回最終回です。




