47話 『沈む左腕』
「あー……」
観客席に消えていった白球を、水瀬透火は傍観した。
ハミルトンの調子は良くはなかったが、最後の一球に関しては悪いと言えるものではなかった。
少なくとも、自分が出したサイン通りに投げられていたからだ。
それが、スタンドに叩き込まれた。
――――読まれた。
つまり、駆け引きに負けた。
上から被せるような力感のないスイング。高めの球を叩くという意識がなければ繰り出せない一振り。
「マジで、しんどい試合やわ」
じわりと。
染み出すような熱が。
心にはかつてあった炎が灯りかける、が。
すぐにその火に水を被せる。
自分が、バッテリーがすべき事はこれ以上失点するのを防ぐ事。後続を打ち取る事。
悔恨の情に身を委ねるべきではない。
長いプロ生活で身に着けた切り替えの心得。悪い結果はすぐさまに捨て去る。
「切り替えていこうや。大丈夫や、普通に投げれば抑えられる」
「OK...OK...I know」
マウンドに向かい、投手に声を掛ける。
流石にハミルトンといえどショックを受けているようだった。
それも当然か、最後の最後、9回に逆転打を打たれて何も感じない抑えなどいない。
だが、切り替えねばならない。1点差で抑えれば、裏で逆転の目もある。
「一人一人な」
ハミルトンが頷くのを確認し、守備位置に戻る。
マスクをつけろ、イニングはまだ終わっていない。
引きずるな。
こだわるな。
前を見ろ。
自分を切り離せ。
……それが、ベストだと分かっているけれど。
「…………」
今日の灯火は、なかなか消えてくれなかった。
◇
ピッチャーの真価は打たれた後にこそ発揮される。
優秀な投手は致命的な一打を続けさせない。
故にこそ、開き直ったハミルトンは完璧な投球で後続を三振に取った。
試合は9回裏。点差は1。ウルフェンズの攻撃。
この試合、最後の攻防へと入っていく――
ウルフェンズ、ベンチ前にて。
円陣を組み、気勢を上げる。
狼にとって、今年の日本シリーズは日本一を取り戻す為の戦い。
二年連続の敗退は、このチームには許されていないのだ。
対するオウルズ。
こちらの選手は逆転の興奮冷めやらぬ様子だった。しかし、首脳陣は一転して落ち着いている。
既にブルペンに連絡は済んでいる。つまり、ベンチでやるべき事はもう終わっている。
元より、この展開になればこうする手筈だった。
『選手の交代をお知らせします――』
ファンにとってすっかりお馴染みとなった登場曲と共に、名前が呼ばれる。
背番号20、国奏淳也。
上がる歓声。響く手拍。
今現在、最もオウルズで信頼できるリリーフエース。
この場面でクローザーではない選手を登板させる。その采配に対する不満は、この空間にはひとかけらも存在しなかった。
周囲を見渡す。
キャッチャー、ファースト、セカンド、ショート、サード。
流石に表情は見えないが、外野手。
守備固めの選手もいれば、押しも押されぬチームの顔もいる。
彼らだけではない。
ベンチからフィールドを見つめるチームメイト達。
自分を信じて使い続けてくれた首脳陣。
勝利を祈るファンの方々。
全員、この一年間国奏と共に戦ってきた仲間なのだ。
国奏にとって、9回のマウンドというのは余り経験のない場所である。
一人一人が死力を尽くし、積み上げ、繋いできた結果を最後に預かる。それが9回に投げる投手の責務だ。
――――重いな。
このマウンドに掛かる重圧は、ここまでのソレとは全く異なる。
投球練習一つとっても、空気が違うのを感じる。
だからこそ、この場面で国奏を選んだ首脳陣、拍手で迎えてくれたファン。両方に応えられる結果を残す。
相手は難敵。クリーンナップから始まる強力打線。
たった1本のホームランで振り出しに戻る状況で、彼らを相手にしなければならない。
簡単に終わろう筈がない。全てを使って攻略しに来るだろう。
――――それが、心地良い。
こんな状況で。不謹慎かもしれないが。
どうしようもなく気分が高揚している自分がいる。
純粋な『リリーフ』としての自分が、勝負所でウルフェンズにぶつかる。
どうやって抑えるか、どうやって立ち向かうか。
これまで自分が積み上げてきた経験がどれだけ彼らに通用するか、楽しみで仕方がない。
これが“気負っている”という事なのかもしれないな、と国奏は自嘲する。
国奏の定位置、つまり8回に名前が呼ばれた時は、どんな場面だろうがこんな気持ちになる事はない。
それこそ、今日の試合であっても8回ならば平常心でマウンドに上がり、いつもと同じように投げていただろう。
冷静に分析するならば、クローザーとしての重圧に立ち向かう為の無意識の鼓舞なのかもしれない。
しかし、例えそうであっても。
この気持ちは、それだけではないと思いたい、というのが国奏の本心だった。
――――なぁ、お前もそうだろう?
打席に立つ男と目が合った。
その顔は、かつて――初めてこの世界に足を踏み入れた時――見た表情と同じで。
思い返せば、同期で最も負けず嫌いで、自己の成長に貪欲だった。
それがどこから来たものなのかは分からなかったが、間違いなくウルフェンズの“この世代”は水瀬からうつされた火が灯っていた。
かつてあり、いつか消えたその灯火。それが今、自分に向けられ燃えている。
止まる事なく成長していき、前へ進んでいく背中。
それに追いつく為に必死だった。
昔に思い描いた関係ではなく。敵である投手と打者の立場ながら。
今ようやく、10年の積み重ねを以って、同じ場所に立てたような気がする。
今から、国奏は積み上げた10年の全てをぶつける。
挫折し、立ち上がり、必死の思いで手に入れた生き方の全てを。
水瀬もまた、同じように積んできたものをぶつけてくるだろう。
決して突出した能力を持っていた訳ではない選手が、10年かけて球界のトップに上り詰めた。その全てを。
どちらが勝つのかは分からない。
それは劇的でドラマチックかもしれないし、思ったより呆気ないのかもしれない。
しかし、どのような結果になろうとも、この打席だけは。
今の国奏淳也として勝負を楽しもうと、そう思った。
投球の動作に入る。
ともすれば緩慢にも見える力感のないフォームから、左腕がマウンドに沈み込んだ――――




