46話 『Ghost Strike』 Ⅳ
間を空けてしまって申し訳ありません。
前半ちょっと表現が特殊です。
ホームで2連勝を上げ、勢いよく相手ホームに殴りこんだオウルズは、返す刀でウルフェンズに2連敗した。
下馬評を覆す梟の健闘に、完全に押される形でホームに帰還した後の2連勝。
言うまでもなく、ウルフェンズのムードは最高潮まで高まっているだろう。
結果として、今年の日本シリーズは両チームホームゲームで全勝。ビジターゲームで全敗という内弁慶の様相を呈してきている。
故に第5戦、先に日本一への王手をかけるチームを決めるこの試合。
ホームゲームであるウルフェンズの優位はゆるぎないものだった。
◇
――試合開始 18:00
『日本シリーズ開幕から2連勝、破竹の勢いで日本一へと突き進むオウルズに立ち向かうのは常勝ウルフェンズ。梟に負けじとホームで2連勝を叩き返し、勝敗を五分に戻す王者の意地を見せつけました。さぁ日本シリーズ第5戦を制し、先に栄冠への王手をかけるのはどちらのチームになるのでしょうか。…………放送席の方をお伝えしてまいります。この試合の解説は黒沢英雄さんと共に、実況担当を三沢恵一がお送りしていきます。黒沢さん、よろしくお願いします』
『はい、よろしくお願いします』
『黒沢さん、先日までの試合展開など色々お尋ねしたい事もあるのですが……まずはこのスターティングラインナップ。特にオウルズのメンバーがこれまでの試合からは大きく変化しています。これについてはどう思いますか?』
『そうですねぇ。ここ2試合のオウルズは打線の方に勢いがないというか少し繋がりに欠けている印象がありますから。点を取りあぐねているうちに投手が相手打線に掴まってしまって競り負けるというのを2試合繰り返してしまっていますからね。真野監督が動いたという事でしょう』
『2連勝と非常に良いスタートを切ったオウルズですが、敵地に来て2連敗と苦しんでいます』
『先に二つ取って。それが非常に勢いある勝ち方だったので、もしかするとこのままいくのかなぁ~と思ったのですが。いや流石はウルフェンズといいますか。勝たなきゃいけない所を落とさない。勝ち方を知っていますよね。反面オウルズはやはり勢いで駆け抜けてきたチームですので。再び勢いづかせたいというところで打線にテコ入れをしたんでしょう』
『なるほど。真野監督はここを勝負所だと考えたという訳ですね。この真野采配が的中するのかどうかもこの試合の見どころとなりそうです』
――2回表 オウルズの攻撃 ランナーなし ツーアウト 0‐0
『本日ウルフェンズ先発の天瀬、第1戦に先発しこのシリーズ2度目の先発ですが、立ち上がりはどうでしょうか?』
『う~ん、抑えてはいるんですけど、ちょっと彼の良い時と比べるとストレートの数が少ないのが気になりますね。多分、1番の島袋君へ2球投げただけなんですよね。ここらへんが使わないのか、使えないのか……後々の配球を考えてやっているのか、これは今日は使えないと判断して使っていないのか。そこらへんを注目してこの後の投球を見ていきたいですね』
『1イニング目はセンターフライ、ライトフライ、ショートライナー。2イニング目はここまでサードゴロ、ライトフライ。三振とゴロアウトが多い天瀬ですが今日はアウトをフライでとるパターンが目立ちます。4球目――ボール! これでストレートのフォアボールとなりました。本日1つ目の天瀬選手が出した四球となります』
『いまのもね。普段ならボールが先行しても強い質のボールをゾーンに投げられるのが彼ですから。多少甘くなっても押し込める球を持ってるんですよ。それが4球全部変化球でしょ? ツーアウトからストレートで四球ってのはゲームの流れとしてあんまりよろしくないですし、浅い回ですけどここは大事なところですよ。初球は絶対気を付けないと』
『そうなりますか。ランナーは1塁、打席には今日スタメンに抜擢された武藤が入ります。この選手も非常に積極的なバッティングが持ち味です……初球を叩いた! 打球は――外野の間を抜けるッ! これは長打になりそうだッ! 1塁ランナーは足が速い! 3塁蹴ってホームへ! 返球は――間に合わないッ! オウルズ先制、値千金の先制ツーベースを打ったのは本日スタメンの武藤選手!』
『いや良く打ちました。真野さんも嬉しいんじゃないでしょうか。武藤選手は完全に狙ってましたね』
『浮いてきたスライダーを捉えたように見えましたが……』
『やっぱり「おい今日変化球多いぞ」と前のバッターから教えられてると思いますから。四球の後の甘いところの変化球は狙われますよね』
――4回裏 ウルフェンズの攻撃 ランナー1塁2塁 ノーアウト 0‐1
『ここまで上手くウルフェンズ打線を抑えていたオウルズ先発の千堂ですがヒットと四球によりピンチを迎える形となります。打席には5番で今シリーズホームランも打っている鹿島。ウルフェンズとしてはここでまず同点、という気持ちでしょうか』
『それは勿論そうなんですけど、オウルズは慎重にいかなきゃいけませんよ。鹿島選手も乗っていますし、一打席目もいい当たり飛ばしてましたからね』
『オウルズからすれば、ウルフェンズ打線の中でも要注意のバッターという事ですね。さぁ、そんな打者に対してバッテリーはどんな球を初球に選択するのか――外角のストレート! ゾーンを少し外れています。2球目は――またも外角、外に逃げるツーシームでしょうか』
『良いですねぇ、鹿島選手見えてますよ』
『それはやはり状態が良いと?』
『やっぱりバッテリーとしてもこの場面は引っ掛けさせて併殺を狙っていると思うんですけど、今の2球に反応しないとなると、なかなか誘い球に乗ってきませんよね。状態の良さもそうですけど打席の中での自分の役割というか、やるべき事を冷静に考えられている証だと思います』
『そんなバッターに対してボール先行、オウルズバッテリーは苦しい状況と言えますが……3球目、おおっと外れるっ! インコース外れました、ボール、ボールです。今のは……黒沢さん際どい判定に見えますが。アンパイアの手は上がりませんでした』
『バッテリーからしたら……取ってほしいボールですよね。構えた所にちゃんと投げてるわけですから。ただこれ、鹿島選手は全く気にしてないんですよ。ストライク取られても問題ないよって感じで見送ってましたよね。ああいう見送り方するって事はやはり右方向を狙ってると』
『なるほど、そういう反応も踏まえて、これからどう立て直すかという所でしょうか。……4球目は高めのストライク。ここは鹿島見送りました』
『ここですね。勝負所です。甘い場所は絶対ダメですよ。集中力あげていかないと』
『流れの変わり目です。――キャッチャー外角に構えた! ……上手く拾ったァ! 打球はファーストの頭を越えて外野へ落ちる! セカンドランナーがホームに帰ってくる! 同点、同点です。外角に落ちるボールを拾い鹿島タイムリーヒット! 試合を振り出しに戻しました!』
『上手く打ちましたねぇ。普通はあのカウントであそこに落としたら空振りするんですが。崩されてるんですよ? 崩されてるんですけども、こうやっていいところに落ちてヒットになる。こういう打ち方が出来るのが状態が良いってことなんですよね』
『その好調鹿島に軍配が上がったという事でしょうか。とはいえまだスコアは1‐1の同点。オウルズはここでしっかりと後続を打ち取って同点で止めたいところです』
――6回裏 ウルフェンズの攻撃 ランナー1塁 ワンアウト 2‐1
『打球は――――セカンド正面! 4-6-3のダブルプレー成立です。6回の裏ウルフェンズはランナーを出しましたが得点ならず。試合は後半戦へ入ります。ここでこの試合のハイライトを振り返ってみましょう。
まず初回、両軍先発の天瀬千堂共に立ち上がりは三者凡退に抑えます。
2回の表オウルズの攻撃、ツーアウトから出した四球からバッター武藤! 浮いてきた変化球を綺麗に捉えてタイムリーツーベース、オウルズがこの試合先制点を奪いました。
その後の4回の裏、ここで試合が大きく動きました。ヒット四球で生まれたチャンスでバッター鹿島がライトへのタイムリーヒット、同点に戻します。後続の6番7番をオウルズ先発の千堂が二者連続三振に打ち取りました。この隙に1塁ランナーの鹿島は盗塁で進塁。そして8番の打席で、追加点となるタイムリーヒット! ウルフェンズはこの回2点を取り、逆転に成功しました。
そしてそのまま試合は続いていき、スコアは2‐1のウルフェンズリードでこれから7回の表に入っていきます。オウルズの逆転はあるのか、それともウルフェンズがこのまま突き放すのか。まだまだ試合は見逃せません!』
――イニング間 攻守交替中
『さて、試合も7回に入っていきますが……監督が出てきました。やはりこれは、ウルフェンズの投手交代でしょうか?』
『天瀬投手はベンチ前でキャッチボールをすぐ切り上げたんですよねぇ。気になっていたんですけどやはり交代でしたか』
『天瀬選手の球数は6回終了時点で98球ですね』
『前の回は抑えたんですけど、大分球威が落ちてバテてきている印象があったので、ここで交代という決断をしたんでしょう』
『となると気になるのは誰がマウンドを継ぐのかというところですね』
『ウルフェンズもね、ポストシーズンに入ってから中継ぎ陣が少し不安ですからね。任せられた投手がどれだけ監督の信頼に応えられるかというのは重要でしょうね。勝ちパターンの投手だと……』
『ん? あっ、ハミルトン、ハミルトンです! ウルフェンズの守護神J.T.ハミルトンの名前が今場内にコールされました!』
『おおっと……3連投ですよこれは』
『7回のこのタイミングでまさかの守護神を起用! ウルフェンズ、ここにきて大きく動いてきました!』
――7回裏 ウルフェンズの攻撃 ランナー2塁 ツーアウト 2‐1
『先頭打者にツーベースを打たれ交代した千堂ですが、後続のリリーバーがきっちりと2つアウトを取りました』
『やはりオウルズの中継ぎは潤沢ですね。こう、相手に流れが持っていかれそうな展開を止められるというのは強みですよ』
『この回ハミルトンが3者連続三振でイニングを締めた事といい、オウルズ的には嫌な雰囲気があったと思いますが……おっと、先ほど投げたハミルトン、ベンチ前でキャッチボールをしています。これは次のイニングも投げるという事でしょうか?』
『続投という事でしょう。いやぁ、これは動きましたね~。賭けですよこれは』
『ハミルトンが複数回を投げたのはシーズン中に3度。4月に2回と5月に1回です。守護神に定着してからは一度もありません』
『この試合を絶対に獲るという覚悟がウルフェンズベンチからは感じますね』
『9回まで投げるという事も考えられるでしょうか?』
『いや分かりませんよ? 分かりませんが……十分あり得る可能性でしょう。少なくともベンチが一番信用している投手である事には変わりないですから』
――8回表 オウルズの攻撃 ランナーなし ワンアウト 2‐1
『ファーストに転がる! ハミルトン先頭打者をファーストゴロに打ち取りました』
『相当気合入ってますよ彼。シーズン中よりカバー入るの早いですよね。普段ならもうちょっと飄々と投げてるんですが』
『こうなるとオウルズはこの投手を何とか打ち崩さないといけませんね。黒沢さんから見て、ハミルトンという投手はどういった風に見えていますか?』
『非常に打ちにくそうですよね。変則気味の左でタイミングがとりづらい。それに加えて150キロを普通に超えてくる球速でしょ? 成績見ると左右どちらも抑えてるんですけど、ちょっと左打者は短期間で対応するのは厳しいかなと思いますね。やっぱり怖いですよ。自分の身体側から剛速球が食い込んでくるのは』
『当たるんじゃないかと?』
『そうですね。僕自身左打ちだったのでよく分かるんですけど、左のサイドってうわっ、当たる! って思ったボールが普通にストライクになったりするんですよね。変化の大きいボールだと背中通るんじゃないかと思うようなのがゾーンに入ったりしますしね。それでやっぱり、腰が引けたりタイミングがずれたりして上手く振れないんですよ』
『ちょうど今、ハミルトンが外角高めのボールで2つ目のアウトを三振で取りました』
『今のもね。彼も左ですよね? これ見てるファンの方はどこ振ってんだよって思うかもしれませんが、ほんとにサイドであれだけ速いとあれがストライクに見えるんですよ。オウルズで言ったら国奏選手も同じタイプですよね。球速帯は違いますけど、フォームメカニクスや球質はとても似てると思いますよ』
『なるほど……打球が転がってセカンドの正面。鹿島それを軽快に捌きます、スリーアウト! ハミルトンこの回も一人もランナー許す事なくパーフェクトピッチングを繰り広げています。この狩人を梟打線が打ち砕くのか。それともこのまま狼が逃げ切るのか。これから8回の裏へと入っていきます!』
――9回表 オウルズの攻撃 ランナーなし ノーアウト 2‐1
大きく息を吸いながら、肩を思いきり持ち上げ、大きく息を吐きながら、肩の力を抜く。
それを二回繰り返すルーティーンを終えると、オウルズの1番を打つ島袋陽介は、ゆっくりとこの日4度目の打席に向かった。
1点差とはいえ、大きい一本を狙うつもりはない。
自分の役目は出塁する事。そして塁上で相手をかき回す事。
粘るのだ。何度でもバットを振って。何球でも泥臭く。
簡単な相手ではない事は既に知っている。体験している。体感している。
「(不思議と、とても冷静だ)」
日本シリーズという大舞台。
9回の攻防。わずか1点の差。自分の打席で天秤はどちらにも傾き得る。
以前ならば。ほんの半年前の自分ならば、身体は緊張によって固まり、岩のようになっていたに違いない。
そしてチャンスを無為にするという恐怖。背後から忍び寄る呪いに支配権を絡めとられ、別人のような無様さで失敗を重ねてきたのだ。
しかし、今の島袋は違う。
もうあの声は聞こえず。振り切った想いを背負うだけの覚悟も持った。
「(そうだ。あの恐怖に比べれば。こんな直球怖い筈がないッ!)」
振る。
がむしゃらに振った。
常にベンチから投球の間隔を計った。イメージを固め、投球フォームの始点からどの程度の間隔をもってボールが投じられるのか理解しようとした。
ここまでやってもまだハミルトンの手からどのタイミングでボールが離れるのか。球離れの瞬間は打席からでは把握できない。
島袋の積み上げてきたバッティング。フォーム。その目付けとハミルトンの特殊なフォームはあまりに相性が悪かった。
ただ、それでも。
そのスイングは道を見出した。
「当たった……」
芯を外した時特有の、右手に残る軽い痺れ。
差し込まれ、ポイントもずれ、ヒットになろう筈もない。
だが、バットに当たった。手に響いた。
島袋のスイングが、初めてハミルトンのボールに触れた瞬間である。
当たるのならば、どうとでもなる――――
1度、2度、3度。
スイングを重ねるたびに、ズレは小さく。確かに芯へ近づいていく。
マウンドに立つ相手は、鬱陶しいと言いたげに顔を顰め。ボールを受ける司令塔は、いやな雰囲気があると警戒し。ベンチから声を出す仲間たちは、まだまだいけるぞと鼓舞し。その姿を見るファンたちは、最後の瞬間まで拳を握り続ける。
気付けば、フルカウントまで打席は進んでいた。
ラストボール。
アウトロー。コースぎりぎりを狙うウィニングショット。
島袋はどんなボールが来ても振るつもりだった。しかし、手を出さなかった。
約10球粘った末の、価値の詰まったフォアボール。
ライトスタンドからは緊張が、レフトスタンドからは溢れんばかりの歓声が上がる9回裏の第一打席。
切り込み隊長が、反撃の狼煙を上げる。
トップバッターの雄姿は、梟の希望を繋いだ。
――9回表 オウルズの攻撃 ランナー2塁 ワンアウト 2‐1
杉宮灯矢が打席に入った時、球場のボルテージは最高潮まで高まっていた。
1点差の9回に先頭打者が出塁し、次の打者が送りバントを成功させる。
そうして作ったランナー2塁の同点のチャンス。盛り上がるのは当然と言えた。
この打席にかかるプレッシャーは大きい。この試合の勝敗。オウルズ数十年ぶりの日本一という悲願。それらの想いの全てが杉宮の双肩に乗っている。
――――重圧。
プレッシャーを呑み込み、糧として成長してきた杉宮であっても、このたった一つ。一度の打席、一瞬の攻防にどれほどの願いが向けられているかは量り切れない。
大きさが分からぬモノを呑み込む事など出来はしない。人生において体験した事のない規模のプレッシャーをどう扱えばいいのか分からない。
呼吸は浅くなり、筋肉が強張る。
拳を握る。足を踏み出す。単純な動作の連結がスムーズにいかない。
「フゥー…………」
だが、自分が緊張しているという事実を受け入れ、自己の状態を万全に把握できているのなら。やりようはいくらでもある。
ネクストサークルから打席に入るまで。踏み出し歩むという動作の中で。平常の自分とズレている箇所を修正する。
緊張を呑み干せないのなら、その状態を慣らしてしまえばいい。
十歩の後に打席に入る杉宮は、既に普段と変わらない性能を取り戻していた。
「…………」
セカンドにランナーがいると、打者からはそのランナーの顔が見える。
四球を選び、得点圏まで進んだ島袋。その顔にかつての怯えはない。
先輩とはいえ、一軍定着は杉宮の方が先。1軍と2軍を行き来する島袋の姿に、以前は無性に腹立たしかったのを覚えている。
何故、掴み取った1軍でのチャンスに怯えているのか。ミスを恐れた、老いたプレーに苛立ちを覚えた。
あの時と比べると、頼もしく尊敬できる表情をしている。
――――いいぞ。万全だ、落ち着いてる。
視野も広い。無駄な思考をする余裕もある。
自分と相手だけでなく、ゲーム全体の動きを考え、かつ無為な思考に脳を浸す。
この状態が、自分にとってのベストコンディション。
――――ここに持ってこれたのなら、俺は確実に打てる。
構え、迎える。
野球というスポーツにおいて、投手は勝敗の8割を占めるとまで言われる。
それはなぜか?
投げる打つ守る――野球の大部分を構成する3要素において、プレーを始動する立場にあるのは“投げる”のみ。“打つ”と“守る”は後手に回るしかない。
だからこそ、打撃と守備には懐の深さ、間の深さ――相手の力を呼び込む動作が重要となる。
ピッチャーは投げるタイミングをずらす、微妙なモーションの変化などを操って、打者の間を外し、崩そうとしてくる。
ハミルトンの投球は、そういう意味においては難敵だった。
なにしろ、変則気味なフォーム。剛速球を持たぬ者が生み出した打者を抑えるための技術に、突出した球速まで備えている。
普通はそれらの両立など出来ない。どちらかを持てばどちらかを失い、下手をすれば両方手放す羽目になる。それを成立させている。簡単には攻略など出来る筈もない。
マウンドに立つ190㎝を超える狩人が、その弓を引き絞った。
157㎞/hの白球は線を引き、唸るように的を射抜く。
杉宮はそれをじっくりと“見た”、そして確信する。自分はハミルトンと相性がよい事に。
「(キャッチャーだから、だろうな)」
ハミルトンは剛速球で相手を押し込む正統派のクローザーだ。
しかし、フォームメカニクスにおいては、何度もボールを受けてきた国奏淳也のものと同系統。球速帯は違うが、質という意味では非常によく似ている。
他のチームメンバ―と比べても、杉宮がハミルトンの直球に比較的対応できていたのは、国奏のボールを受けてきた経験が大きいと言える。
無論、打者と捕手では見え方は違うが、それでも初見よりは大分目が慣れている。
交流戦、そして日本シリーズ3戦目、4戦目。
オウルズ相手にハミルトンが投球した試合全てにおいて、杉宮はハミルトンと相対した。
その経験も非常に大きい。何故なら今の一球を見ただけで分かってしまった。
――――ハミルトンは、確実にベストコンディションじゃない。
それも当然。彼は連日の登板、3試合連続でマウンドに上がっているのだ。しかも、今日にいたってはロングリリーフの3イニング目。投球に影響があるに決まっている。
こうなってくると、前日のハミルトンが良すぎた事は不幸中の幸いともいえる。
何しろ昨日、杉宮は絶好調に近いハミルトンのボールを見ているのだ。
今日の疲弊し、クオリティを落としたハミルトンのボールなら、捉えられる。
そう杉宮は確信したのだ。
「(問題は――ミスショット)」
投手の調子が悪いなんてシーズン中にもよくある話。むしろ好調の方が少ないレベルだ。
プロの世界は悪い中で抑える技術を持った選手が生きていく世界。
ハミルトンが本調子でない事はキャッチャーの水瀬も当然把握している筈。
あの手この手で杉宮のフォームを崩し、凡退を狙ってくるだろう。
だが、コースさえ絞れれば、ヒットコースに飛ばす事は杉宮の技量ならば可能だ。
だから、この場面で杉宮の相手となるのは、ハミルトンではない。
彼を操縦するキャッチャー、水瀬透火をこそ攻略しなければいけないのだ。
「…………」
横目でちらりと水瀬を見る。
マスク越しに見える顔は、笑っているようにも焦っているようにも見え、相変わらず何を考えているか掴めない。
この男の立ち振る舞いから配球を読む方法は、確率が低いだろう。
しかし――リードは違う。
捕手の配球チャートには、確実に絶対に、その人間の性格が表れる。
どんなに隠そうとしても無意識に好むコース、勝負所になればなるほど頼るポイントは浮き彫りになる。
プロに入り、リードの奥深さを学ぶ。
最初にやった事は、当時の12球団の正捕手のチャートを読み込む事だった。
ベテランの老獪な、打者を小馬鹿にしたようなリードもあれば。
若手のがむしゃらな、濁流のように勢いと感情の混じったリードもあった。
それら全てを糧にして、自分はここまでやってきた。
――――思いだせ、考えろ。そう簡単に人の本質は変わらない。あの時の水瀬のリードが、勝負所でヤツが選択する本質の筈だ。
2球目、ストライク。
3球目、引っかけたワンバウンドのボール。
カウントが進むごとに情報が揃い、氾濫していく。
それに飲み込まれないように頭を回す。
ツーボールワンストライク。アウトカウントは1つ。外野の守備シフトは定位置。内野の守備シフトはカウントごとに変化。
誘うか、逃げるか。
瞬きの間、杉宮は答えを出した。
これを間違えれば思考はすべて崩れる。この打席中にもう一度考察を組み直す集中力は保てない。
しかし、決めた。決めてしまえば、すぐだった。
頭が澄む。耳に入る音も世界からフェードアウトしていく。
今まで思考に費やしていた分の集中力が、打席のみに。一度のスイングに注ぎ込まれる。
正解は――――
――9回表 オウルズの攻撃 ランナーなし ワンアウト 2‐3




