42話 『喉元』
ウルフェンズベンチ前にて。
メンバ―読み上げのアナウンスを背に、チームは円陣を組んでいた。
試合開始まであと僅か。最後の気合入れである。
中心に膝を立てるのは、チームキャプテンの任を負う鹿島。
キャプテンとして、大事な本日の声出しを自ら買った次第だった。
「現在、ウチは2連敗しています」
声の調子は平坦に。それでも重く。
円陣を組む選手たちに真剣に目を向ける。
「本来は声出しでこういう事を言うべきじゃないかもしれませんが……それでもキャプテンとして言わせてもらいます。正直に言って……みなさん、油断していませんでしたか?」
鹿島の言葉に返事はなかった。
本来、試合前円陣でこれほど空気が張りつめる事は珍しい。
この静寂こそ、彼の言葉が肯定されている証だった。
「僕は……油断していました。シリーズの相手がラビッツでなくオウルズだと聞いて、正直、イケると思った。ウチの戦力なら優位に立てると思った」
少しずつ。
「でも、結果として僕たちは今2つ黒を付けられている。これが今の実力です。僕たちはもうチャンピオンじゃない。その意識が抜けていたから、ここまで付け込まれた」
少しずつ、空気が研ぎ澄まされていく。
衰えていた狼の精神がかつてを思い出し始める。
「4年前に日本一になった時、チャレンジャーだったウルフェンズは間違いなく最強だった。だからこれからは、挑戦者として死に物狂いで喰いつきましょう。そうすれば絶対に負ける筈がない。さぁ――――勝ちましょうっ!」
鹿島の号令に続いて円陣の中に、全員の叫びが響いた。
1、2戦目にあった強者としての余裕。それが完全にチームから消えた瞬間だった。
これからのウルフェンズは、文字通り手負いの獣と化すだろう。
フィールドの中。
セカンドのポジションに立ちながら。
自然に、彼は拳を握りしめていた。
目線はオウルズのベンチへ。
そこには表の攻撃準備をする選手や、監督、コーチなどの首脳陣が待機している。
「ふざけるなよ」
不意に。
口から掠れ出たその言葉が、鹿島にその無意識の行動を気付かせた。
ゆっくりと、固められた指をほぐしていく内に、胸中に溜まっている焦りを自覚する。
プロ5年目。チームのキャプテンに就任し、初めての日本シリーズ。
前年に逃したチャンピオンリングを奪還する事を目標に、新生ウルフェンズはスタートした。
立場が変われば、見方も変わる。
これまでのように、ひたすら自分の事のみを考える事はできなくなった。
今のウルフェンズは若い選手が多い。今年28の鹿島でもチーム内では年長に当たる。
キャプテンという役目に、以前とは質が違う難しさを感じながらも何とかやってきた。
リーグ優勝を達成し、日本シリーズへ辿り着いた。
鹿島が入団した時、既に現在のウルフェンズの骨子は完成していた。
近郷、佐原、水瀬、上原――――彼らが作り上げた幹の枝葉として働き、流れに乗ってウルフェンズは強豪へと成った。
そして、そんなチームを鹿島は受け継いだ。
だからこそ、彼が日本一にかける想いは強かった。
軽めの性格柄、人に誤解されやすい質であったが、彼の心には確かに熱い気持ちがあった。
元来リーダー向きではない性格の彼がキャプテンに指名されたのも、それを見据えられての事だった。
鹿島にとって、この日本シリーズは勝ち抜かねばならない舞台。
勝ち抜いてこそ、証明できる。
主軸が抜け、昨年の敗戦があっても。
“まだこのチームは最強だ”と示す事が出来たのだ。
だが、セリーグを勝ち上がったのはラビッツではなくオウルズ。
リベンジとしてはラビッツが望ましい。
しかし、こればかりは自分の力ではどうしようもない。
相手がオウルズであるならば、それに合わせて調整する。
そう思っていた。
「…………」
それなのに、今日までの2試合。
ウルフェンズは一つも勝てていない。
初戦から翻弄され、2戦目も終始ペースを握られ。
そして今日、またもやふざけているとしか思えない事をされている。
3戦連続でのリリーフ先発。
しかも、1戦目に完投させた投手を中2日で登板させる。
ここまで来ると、おちょくられているとしか思えなかった。
お互いの全力を以ってぶつかり合うのが日本シリーズ、この頂上決戦。
だからこそ、新しいウルフェンズの力の証明。昨年のリベンジの場にふさわしい。
それを望んでいた。だが、ことごとく自分の、チームの気概を躱すかのような采配をされている。
それが非常に腹立たしくて――――
「いや……違うか」
腹立たしいのは自分自身。
Cマークを付ける人間として、あまりにお粗末なチームへの意識。
もっとやりようがあったのではないか。自分が何か違う事をしていれば、2つもリードを許す事などなかったのではないか。
そうだ。円陣で言った通り、鹿島には油断があった。オウルズならば、戦力的に負ける事はないだろうとタカをくくっていた。
キャプテンがそんな気持ちでいては、こうなるのも当然だ。
だが、過ぎた事はやり直せない。
自分に出来るのは、これからをこれまで以上に全力でプレイする事しかない。
バッターボックスにトップバッターが入った。
日本シリーズの第3戦が今、始まろうとしていた。
◇
今日はウルフェンズ本拠地のゲーム。
つまり、オウルズの投手が投げるのは裏の回である。
アンパイアによる試合開始のコールは為され、既に試合はスタートしている。
そして、主催チームがパリーグのこの試合からは、ゲームにDH制度、つまり投手の代わりに打席に入る指名打者がオーダーに組み込まれている。
故に先発である国奏は、前回の登板よりほんのわずかではあるが余裕をもってイニングの間を過ごす事が出来た。
ベンチに戻った彼は、自軍の攻撃を眺める。
既に初回の攻防は終わった。
両軍ともに無得点。走者も一人も出なかった。
だが、マウンドで投球した国奏は、ある一つの事を感じた。
――――明らかに、自分の球に合ってきている、と。
初戦は客観的に見ても、完全に抑え込んだ。相当な苦手意識を植え付けられたと思っている。
それ故、今日の登板。ウルフェンズ打線が自分にアジャストするには、もう少し時間がかかると思っていた。
だが、実際のウルフェンズ打線は想像以上に自分の球に合わせてきた。
これが、中2日という短い間隔のせいなのかどうか。国奏には明確な判断はできない。
何しろ、経験がない。連投を何度も行ったウルフェンズ時代ですら、一試合を投げぬいた後にこれほどのスパンでマウンドに上がる事はなかった。
疲労感には慣れていたが、それによってどの程度投球が変化するのかは、完全な予想をする事は投げる本人すら不可能だった。
ただ、これはしょうがない事とも言える。
何しろ、国奏が3戦目にも投げるというプランは当初なかったのだから。
「国奏、体の調子はどうだ?」
江藤が国奏に声を掛けた。
日本シリーズが始まってから、彼が国奏にこの文言を投げかけた回数は既に両の指で数えられない。
「疲労って意味なら、3回までなら全く問題ないです。それ以降は……多分打たれます」
体に残る疲労の抜き方なら熟知している。
むしろ、9回を投げ切った次の登板なら、何日も後の1イニングの方がやりにくいとさえ、国奏は思っている。
減らす時はゆっくりと。9イニング、3イニング、1イニングと徐々に慣らしていく。それが自分に合っていると思っているからこそ、国奏はこの過酷な登板日程を自分から申し出た。
ただそれも。あるトラブルがなければ起こり得なかった事だ。
あらゆる采配には意味がある。
外から見ていると、意味が推測できない事も多い。あまりに無駄で、非効率で、論理的ではない采配に見える事もある。
ただ、どんなにあり得ないと思える事でも、それを指示する人間の中ではしっかりとした理由がある。そうするだけの根拠がある。
今回の、中2日での国奏の登板。
これもまた、チームの外。外部の人間からすれば理解できないものだっただろう。
“何故、そこまで国奏を酷使する?”
“他にも優秀な投手は残っているじゃないか”
“オープナーを使うにしても、他の中継ぎから庭田に繋げばいい。国奏を使う必要などない”
そうして、外の者たちは不可解な采配を議論し、叩く。
だが、それらのすれ違いの原因は大抵単純である。
そもそも、前提条件が違うのだ。
何故ならば――――オウルズに、庭田壮一は残っていない。
クライマックスシーズン、ファイナルステージ。
ドラーズとの試合に登板した庭田は、登板後にわき腹の痛みを訴えた。
市内の病院で彼に下された診断は『左外腹斜筋損傷』
全治1か月の故障で、今年の登板はもう不可能な状態だった。
つまり、オウルズは2大エースを1枚失った状態で日本シリーズに挑まなければならなかった。
本来の計画は、国奏、不破、庭田による一時的な先発3本柱で回していくというもの。
初戦国奏から始まり、不破と庭田の登板結果如何で国奏を中継ぎに戻すか先発として投げさせるか決めるという流動的な策の筈だった。
国奏の登板は最低でも中3日。先発としていく場合なら中4日は空く計算だったのだ。
しかし、確実に計算できる投手の一角である筈の庭田の離脱。
これにより当初の計画は瓦解した。
オウルズはこの情報を徹底的に秘匿した。投手の登録人数枠を1枠犠牲にしても庭田を一軍に残し、いつも通りの球場入りを指示し、どこからも情報が漏れないように封鎖した。
ウルフェンズ相手に試合を作れる投手は不破と庭田、この二人のみ。これが首脳陣の結論だった。
だからこそ、先発に国奏も加えてもう一枚増やし選択肢を増やすというのが、オウルズの策であった。
だが、庭田の離脱。
これにより、オウルズが格上であるウルフェンズ相手に取れる勝ち目が格段に減った。
オウルズに残った選択肢はたった一つ。
全ての戦力を前半にありったけ投入する、4タテ狙いの超短期決戦。
国奏、不破、各種リリーフ陣。それらの高強度のピッチングを繋ぎ、完封する。
リミットは4試合。それ以上長くシリーズが続けば、より多くの打席をウルフェンズに与える事になる。
打席とは、試行回数。
数が増えれば増えるほど、単純な数字、データ通りに収束していく。
疲労した投手陣を打ち崩すのは相手の土壌であり、そこに足を踏み入れてしまえば地力、破壊力で劣るオウルズに勝ち目はない。
1戦目、2戦目はオウルズにとって最高の形で進む事が出来た。
日本一に必要な白星は残り2つ。
重要なのは4つ目ではなく、3つ目。
つまりは、本日3戦目。
今日だけは、必ず勝たなければならないのだ。
中2日のマウンドに登った国奏は、3イニングを投げ降板する。
ランナーを許しながらもホームは踏ませぬ投球により、無失点のマウンドを後続に託す。
そして、4回に名前が呼ばれた投手は庭田ではなく、他のリリーフ投手の名前。
本日2度目のどよめきが球場に流れた。
今まで明らかになっていなかった舞台裏。足りなかった情報が、補われた。
当然、正解に辿り着く者が現れる。
ウルフェンズベンチ内では、鹿島と水瀬。二人が並び、マウンドにて投球練習を行う相手投手を睨む。
「まさか……ブルペンデー? いや、でも……庭田さんは」
「今日出てこんって事は、そういう事やろ」
ブルペンデーとは、中継ぎ投手のみで9イニングを投げ切る戦術の事。
先発のマウンドに立つのがリリーフという点はオープナーと同じだが、意味合いは異なる。
その試合に勝つ手段としては、オープナーと同じく極めて有効な戦術だがリリーフしか投げないというのは、今この場において重要な意味を持つ。
これは自白に等しい。今日投げる事が出来る先発がいないと自供しているようなものだ。
140試合以上を行うシーズン中ならば、1試合ブルペンデーをしたところで他球団に与える情報など知れている。
しかし、日本シリーズは最大7試合。初戦の国奏先発、そして3戦目にブルペンデーを行う。これだけ揃うと相手の事情はほとんど見えてくる。
通常、短期決戦では良い投手から投入していくのが鉄則だ。勝ち星を先に取るほどチームの勢いや心理的な余裕は増していき、後半までもつれ込んだ場合には再び登板させる事も可能になる。
オウルズであれば、不破と庭田。国奏を加えたとしても3人。この3人を3戦目までに投げさせないのは明らかにおかしい。
何故なら、投げさせない理由がないのだから。
だから、このブルペンデーには必ず理由がある。
3戦目に庭田を投げさせない理由。
投げさせないのではなく――投げられない。
庭田には何かトラブルがあり、登板を回避するしかなかった。ウルフェンズがその考えに至るのは当然の事であった。
「これで納得いったわ。最初からめちゃくちゃやってきた梟やけど、論理で言えば納得できる戦術やった。でも、国奏くん投げさせて庭田さん投げさせんのはどう見てもおかしいもんなぁ。この試合を絶対取るためのリリーフの数確保する為に投げさせるしかなかった、と」
「でも、これ……そういう事っすよね?」
「そうやね。あっちは弾が切れかけてる」
4戦目のオウルズは、今日までのような戦力の投入はできない。
例えるならば、セリーグクライマックスシーズンにおいて、ラビッツ相手にドラーズが行った戦術。
次の試合を意識せず、その試合に全力を尽くす。
確かに、最初の勝率は上がるだろう。しかし、ドラーズはファイナルでの対オウルズ戦でガス欠を起こし、あっさりと敗退した。
それと同じことが、オウルズにも起こる。
「この試合だ……今日を取った方が先に4つ勝てる……」
鹿島の口元が歪んだ。
いや、彼だけでない。
ウルフェンズに所属している人間、チームを応援するファン全ての心が小さく嗤った。
梟の喉元は見えた。
後は噛み付くだけである。




