37話 『二番目』 Ⅰ
ウルフェンズベンチには緊迫した空気が張りつめていた。
軽口が許されない戦場の雰囲気。
一瞬たりとも気を緩めず、実直に試合のみに集中する。
常に勝ち続けてきたウルフェンズにとっては、この状態が当たり前――という事は勿論ない。
(いや、空気が重過ぎて辛えわ)
上原啓明は何とも言えない居心地の悪さを感じながら、バットのグリップに滑り止めのスプレーを振りかける。
そのシュゥというスプレーの噴射音すらベンチ内に響くと言えば、その異常さが分かるだろうか。
常勝の球団としても、本日のベンチ内の空気は些か尋常ではない。
理由は分かり切っていた。
「おい……どうするんだよ」
そんな重い空気に耐え兼ねたのか、上原は珍しい事に自分から横の男――水瀬透火に話しかけた。
「いや、それボクに言われてもなぁ」
話しかけられた方といえば、これまたこの雰囲気の中でも飄々としている。
他人に影響されにくい質の人間だと理解しているが……それでも同学年として、チームの中では年長よりの中堅として、もうちょっと気を配れよ! と思ってしまうのは仕方のない事であろう。
現在、6回の表。ウルフェンズの攻撃。
打席に入ったこの試合17人目のウルフェンズの打者が、ちょうど凡退したところだった。
「……今球数は?」
「76球やね」
という事は、一人平均4.4球ほどか。
このままのペースでいけば、8回に一つの区切りである100球を超える。
「お前四球でもいいから出塁しろよ。得意技だろ」
「いやぁ、そんな打てんからって狙ってできる事ちゃうし……そもそもボク2打席で15球投げさせてるんやけど? お前何球やねん」
「…………ま、何とかするしかないわな」
ちなみに上原は1打席目三球三振。2打席目は6球目にサードゴロを打って打ち取られた。
球数としては9球。水瀬に完全に負けており、返す言葉もない次第である。
思わず溜め息をつきそうになる自分を必死に律しながら、上原はバックスクリーンの電光掲示板に目を向けた。
ウルフェンズの得点欄は未だ零。6回まで来てまだ無得点というのはウルフェンズ打線の事を考えると珍しい事ではあるが、それだけではベンチ内はこうはならない。
問題なのは“H”の項目。
そこにも、横と同じく刻まれる零の数字。
「ものの見事にタコ焼きが並んどるね」
「…………」
そう。ウルフェンズはこの6回まで、オウルズ先発である国奏淳也から得点どころかヒットすら打てていないのだ。
というか、出塁できていない。
俗に言うパーフェクトゲーム、完全試合をここまで繰り広げられてしまっている。
オウルズ側も点が入っている訳ではないが、既に3本のヒットを打っている。
どちらに勢いがあるかといえば、断然向こう側だった。
ベンチがピリつき始めるのは当然の事だろう。
といっても、こういう試合は割と珍しくない。
ウルフェンズが如何に強打のチームといっても、長いシーズン。打てない試合というのは何度かある。
ウルフェンズ自体はそれほど雰囲気が重い訳ではなく、創設からして適度な緩さも併せ持ったチームである。こういう時も重く捉えすぎる事なく、誰かが空気を弛緩させていた。
去年までは。
「……で、初めの話に戻るけど。アレ、どうする?」
「どうもこうもないやろ。アイツがああなったら触らんのが一番やわ。どうしても気になるなら鹿島にでも言えや。キャプテンやし何とかするやろ」
ベンチの一角に、誰も立ち寄らないスペースがある。
寄るのを禁止されている訳ではなく、自発的にだ。
このような試合展開の時は、ウルフェンズ1軍のメンバーならば絶対にその区域には立ち入らないし、見る事もしない。
そのエリアから、明らかに漂う重たいオーラ。
発生源は言うまでもない。
禁域の主、ウルフェンズ不動の4番、佐原総次郎である。
彼が、じっと。何をするでもなくグラウンドを睨みつけ。ただ座っている。
ただ、その身に纏う雰囲気は近づく者を噛み殺さんかと見まがうほどに鋭かった。
「あーイラつきオーラばんばん出しよってからに。ちょっと打てんくなるとすぐこれやから」
水瀬も上原も、同期入団の佐原とは10年来の長い付き合い。
彼の事は十分に分かっている。
佐原が打てないチームメイトに対する不満を露骨に態度に表している訳ではないと理解していた。
彼はただ、打てない自分にイラついているだけだ。
それがどうしても、纏うオーラに出てしまうだけ。これはいわば彼の気質の問題なのだ。
ただ佐原自身にその意図はなくても、結果として彼の出す雰囲気によってベンチの空気は必要以上に張り詰めてしまっている。
去年まではこうはならなかった、と上原は思う。
打てない試合。相手投手が好投し、まったくヒットが出ない試合。
去年までのウルフェンズには、そういう時、必ず最初の安打を放つ男がいた。
近郷愁斗。
今年からアメリカの大地へ渡った元ウルフェンズの正遊撃手である。
彼は沈むチームを鼓舞し、盛り上げ、突破口を開いてきた。
それがチームの雰囲気を良い方に維持していた。
しかし、今年から近郷は海の向こうへ移籍した。
彼が消えた分、佐原のオーラがベンチを侵食し、悪い方へ傾いてしまっている。
チームとして打ってる時は問題ないのだが、チームも打てない、佐原も打てないとなると、途端に全体の空気が張り詰めだす。
シーズン中から、これは新ウルフェンズの大きな問題だとは思っていた。
しかし、上手い解決策を見つけられないまま、ずるずると日本シリーズまで来てしまったのだ。
「(おい、鹿島! キャプテン! ちょっとこっち来い)」
トイレにでも行っていたのか。
上原はちょうどベンチ裏から顔を出している鹿島を見つけ、手招きして呼んだ。
呼ばれた方といえば、上原と水瀬の並びを見るなり顔を顰め、とても嫌そうな顔で渋々と近づいてくる。
「鹿島。ちょっと佐原に」
「いや無理っす」
即答である。
予想していたとはいえ、それでいいのかキャプテンと突っ込みそうになった。
「いやだって。あの状態の佐原さんに絡めるの近郷さんだけっすよ。俺絶対無理。てか、マジ逆に俺からお願いします。先輩ら同級でしょ? ちょっと世間話でもして和ませてきてくださいよ」
「いやぁ、無理でしょ」
「無理やね」
その瞬間、シュゥとスプレーの噴出音がベンチに響く。
勿論、上原のものではない。
恐る恐る三人が音のした方を見ると、佐原が自前のバットの手入れをしていた。
「「「…………」」」
なんでバットの手入れしてるだけなのに、そんな殺し屋みたいな雰囲気出せるんですか……
それで会話は終わり。
無事に鹿島も緊迫ベンチの一員である。
チームキャプテン任されている癖にベンチ裏に逃げるからだざまぁみろ、と密かに思う前任キャプテンの上原であった。
「(あー! てかこういうの監督とかコーチの仕事でしょう!? モチベーターとかそんな感じの!)」
「今のウチのベンチは寡黙な人多いからなぁ。どっちかっていうと監督もコーチも佐原タイプやし。ボクとしても肩身が狭いわ。ハハ」
「笑い事じゃないだろ」
とは言いつつも、1年頭を悩ませた問題の解決策がすぐに見つかる筈もなく。
どうしようもないな、と思っていた時、3つ目のアウトランプが灯る。
「交代か……」
この回もヒットは出なかった。
つまり、国奏の完全試合もといノーノーは継続したまま、次の回を迎えるという事である。
(やれやれ……ベンチよりグラウンドの方が下手すりゃ気楽だな)
グローブを手にフィールドに出て行く中で、上原はそう嘆息した。
◇
佐原総次郎という野球選手について、そろそろ語る必要があるだろう。
と言っても、語るべき事がそれほど多い訳ではない。
彼の両親は両者ともにアスリートで、父は社会人野球の名手。母は体操の実業団に所属している選手だった。
幼き頃から父親に野球を教え込まれ、野球エリートとして順風満帆な道を歩んできた。
物心がつく前から野球の球に触れていた人生。
言ってしまえば、父に敷かれたレールを辿る人生だったが、特に不満はなかった。
野球というスポーツは嫌いではなかったし、努力し実力をつけ勝っていくというプロセスにやりがいを感じてもいたからだ。
練習は辛い。増量の為の食事は辛い。負けるのは辛い。
それらに全て打ち勝っていく。
甘えようとする自分自身に勝ち。チーム内の競争に勝ち。試合という勝負でも勝つ。
勝つ事に対する快感。
それが佐原の原動力だった。
ジュニアチームで目立ち、硬式のシニアで活躍し、超名門校で4番を打った。
その結果が、2位でのドラフト指名。
高卒の野手が上位指名されたという事実が、佐原がそれまでの野球人生に勝ち続けてきた事を意味していた。
故に佐原は負けを嫌う。
自分が負けるという結果が許せない。
チームが負ける事も許せない。
チームの負けは、同時に佐原が負けているという事に他ならないからだ。
そう――――だからこそ。
彼はあの男に勝たなければならないのだ。
絶対に。
◇
6回の裏、試合が動いた。
オウルズの1番バッターである島袋が中前打で出塁。2番が送りバントを決め、ランナー2塁。
迎える打者は今シーズン大きくブレイクした3番杉宮。
盛り上がりどころを迎え、にわかに球場全体の勢いが増す中で、彼は飄々と。当然のように初球をフルスイング。
引っ張りこまれた内角低めの球は、レフトポール際にそのまま叩き込まれていった。
夜空に轟く万の歓声。
刻まれるスコア。
2-0。
日本シリーズ初戦、先に点を取ったのは梟であった。
名前変更
佐原紀明→佐原総次郎
理由:上原哲明と名前の響きが似ていたため。




