35話 『四番目』
沸き起こる歓声。
フィールドを照らす照明。
周囲を取り巻く人、人、人――――
普段から人目に身を晒す職業ながら、やはりこの日の“それ”はいつもとは質が違う。
長くトップバッターを張っている中で、気付いた事がある。
これほどの人数が集まる球場において、何故か。不思議と。
試合開始の直前は、一瞬だけ音が消える。
ほんの1秒にも満たない時であるが、それでも確かに無音となる。
ウルフェンズ不動のセンターフィールダーにして、リードオフマン。
上原啓明は、その一瞬を自身への褒美だと考えている。
この瞬きの静寂は、それこそ普通なら知覚など出来ない。気付く事など出来ない。
試合の始まり。最も早く打席に入り、相手投手と向き合い、戦う選手。
すなわち、1番打者。
アンパイアの試合開始コールの前に、集中が極限に達するこの役割のみ、その一瞬を体感できる。
トップバッターという役目を5年近く務めた彼だからこそ、この静寂をはっきりと認識する事が出来た。
「…………」
今この時も。
自身の背に向けられる視線。そこに籠もる想いは重く。
沈黙すら万も集えば圧となる。
だが、この重圧は同時に期待の裏返しでもある。
信用しているからこその期待の眼差し。
警戒しているからこその用心の眼差し。
上原自身が積み上げてきた実績という実力が、この一瞬を極上のモノにする。
故に試合開始のこの瞬間。
この沈黙を以って、上原啓明という野球選手の精神は、完全にプロフェッショナルのものへと切り替わる。
精神は落ち着きを取り戻し。
手足の震えは止まり。
十全に己の肉体を繰れるようになる。
生来の性として、上原は人前に立つのが好きではない。
目立つのが得意ではない。
大舞台になればなるほど、緊張で体が強張り、本来のポテンシャルを発揮できないタイプの人間だった。
しかし、そんな自分を“プロ野球選手”に変えるスイッチが、この静寂を認識する事だった。
18歳でプロに入り、10年。
酸いも甘いも知ったその中で、上原が見つけたセルフコントロールの術が、これだった。
その術が、彼を極上の5ツールプレイヤーへと進化させた。
「………………」
バッターボックスに入る彼に、余計な言葉は存在しない。
意味がない。打席内で示すべきは自身の打撃能力のみであり、塁上で見せるべきは走塁能力のみであり、フィールドで見せるべきは守備能力のみである。
それ以外は、野球選手には必要がない。
故に、日本シリーズ第1戦。始まりの第1打席に入った彼の心には、「この相手をどう打つか」という思いしかなかった。
例え、元同僚だろうと。例え、中継ぎが先発として登板していようと。彼のやるべき事は変わらない。
即ち、的確に球筋を見極め、調子を丸裸にし、存分に球数を投げさせたうえで、出塁する。
やるべき事は普段と変わらず。むしろ、いつもよりも容易いとさえ言えた。
何しろ、国奏は元チームメイト。
プロ入り当時より互いに切磋琢磨した同級生である。
公式の試合で対決した事はないとはいえ、チーム内の紅白戦、実戦練習では何度も球を見ている。
技術を上げる為に、ブルペンで打席に立って互いにアドバイスをした事も一度や二度ではない。
上原は国奏に対して、特別な思いは持っていない。
確かにチーム内では仲は良かった方だろう。
個人的な親交もある。
オウルズに移籍してからも何度か連絡を取り合い、交流戦中は仕事の話抜きに飯を食いにも行った。
しかし、バッターボックスとマウンド。この二つで向かい合っているのならば、お互いに敵なのだ。
そこに一切の感情が差し込む余地はなく、故に過去も経緯もこの場には関係がない。
ただ、打つ。
自分の持っている全ての武器を用いて、相手投手を切り崩す。
マウンドにて相対する左腕。
敵がゆるりと腕を持ち上げ、投球フォームに入った。
中継ぎが先発するという奇手も。かつて先発を諦めた仲間が、日本シリーズというこの瞬間に、トップバッターである自分と向き合っているという奇縁も。
全てを切り離し、自らの機能を“打”に集約する。
目が走る。
空間を認識する。
上下左右。
3次元上のボックスに定義されたストライクゾーンを、立体的に構築する。
完璧だ。
準備は完了した。
後は、来た球を打ち返すだけである。
ゆるりと。力感なく。
動き続けている国奏のフォームが、ぴたりと止まり。
すとんと、腕が振り下ろされた。
(ストレート、外角低め。問題ない)
ストライクゾーンに来た初球は確実に振ると決めていた。
積極的なスイングは、相手バッテリーに恐怖を与える。
振りが鋭ければ鋭いほど、空振りしたとしても強い警戒心を与える。
それが、球数や精神的な疲労、そして出塁に繋がる。
そして、外角低めのストレート。
これもまた、予想通りである。
国奏のストレートの軌道。キレ。
平均球速144km、スピンレート約2436回転。Active Spin98.5%、有効回転数、空振り率……etc。
あらゆるデータを脳に叩き込んであり、現実での対戦経験も豊富。
イメージは完璧にできている。
イメージしている球が、イメージ通りの場所に来る。
これを仕留められない程度の打者が、プロの世界で生きていける訳がない。
迷う事なく、バットを振る。
高さ、ミートポイント、タイミング。
確実に捉えたという確信があった。
だが。
『ストライッ!』
手には空を切る感触しかなく。
耳に届くのはキャッチャーミットの乾いた捕球音。
(………………は?)
そしてそれが、上原が作り上げた試合用の野球人格を、ほんの少し揺るがした。
疑問。何故バットに当たってすらいない?
差し込まれた。もしくはタイミングが早かった。それでファールとなる。打ち損じてアウトになる。それならまだ納得がいく。
しかし、これは違う。
空振っている。
掠ってすらいない。
手前味噌ではないが、自分の打撃技術にはそれなりの自信がある。
多少のイメージとの乖離ならばスイング中に修正し、カットする程度の技術は持っている。
だが、できなかった。
というか、見えていなかった。
つまりは――何もかもが、ズレている。
(落ち着け……想定外の事が起きたら、まずは“見ろ”)
電光掲示板に表示される球速は――146km。
成程。イメージと違った。
それだけの事だ。中継ぎの国奏と先発の国奏は違う。
先発用のペース配分をするという無意識の先入観が、勝手に国奏の球速帯を一段下に設定していた。
ならば修正すればいい。
何という事はない。見極め、把握する。
それだけの事だと、再び打席に入った。
今度は振らず、“見”に徹する。
カウントが悪くなる上、この打席は凡退する可能性が高くなるが、仕方がない。
そのリスクを負ってでも、ここで見極める。
そうしなければ、何か致命的な事態に陥るという予感があった。
投じられた一球は、先ほどと同じストレート。
今度は内角を抉る一球。
ともすれば当たるかもしれない、と身を引いてしまう程の角度。キレ。
それが、ギリギリのゾーンをかすめてミットに収まっていく。
それを始まりから終わりまで目を離さず目視し、アンパイアのストライクコールを聞き、バッターボックスから離れ、上原はふぅと息を吐いた。
(おいおいおい……)
――――違いすぎるだろ。
例えば、交流戦。
オウルズとのカード中、国奏が投げていれば、気付けたかもしれない。
彼はこの一年。オウルズでリリーフとして投げる中で、野球選手として一段上のレベルに至っていた事に。
国奏は今年セリーグで圧倒的な成績を残した。
何度も何度も、各球団のクリーンナップに当てられ、対戦していく勝ちパターンの一角として、結果を残し続けてきた。
それはパリーグからセリーグに移籍したからか?
過酷な登板環境から解放されたからか?
そんな訳がない。
たったその程度の事で結果が残せるなど、プロの世界がそんなに甘い訳がない。
純然たる本人自身の努力。純粋な能力の向上。それがあって初めて成り得たモノが、今マウンドに立つ国奏が投じる球なのだ。
無論、データ。数字上の話ならば、彼の変化はウルフェンズ全体で把握していた。
映像としても、何度も確認した。
日本シリーズの対戦相手。研究しない訳がない。
それでも、実際に勝負の場で打席に立って球を見る事と比べれば。
全く違う結果がここにある。
このギャップはウルフェンズの主力にこそ、長く国奏の後ろを守ってきた上原たちにこそ強く影響する。
以前の国奏を知っていればいるほど、この差異は強烈に脳裏に残り、残像のように目を狂わせるだろう。
(やべぇ、全然イメージと違うわ。これ全部捨てなきゃダメだな)
今まで固めていたイメージは、最早己の打撃を邪魔する異物でしかない。
相手が想定より良かった。だから打てませんでした。
そんな舐めたコメント片手にベンチに帰るつもりはない。
一旦構築していた国奏の投球イメージを全て捨て、先ほどに見た2球を元に作り直す。
恐らく、想像よりも垂れがない。だからポイントを後ろにして球を見ると、上下の差で空振りを奪われる。
ポイントは前。高さは球一つ分上に。スイング軌道と球の軌道を合わせていく。
国奏が投球動作に入った。
最早ここに至っては出塁する事が自分の役目ではない。
一球でも多く国奏に球数を投げさせ、早急にコイツをマウンドから引きずり下ろす。
初球を空振りした時感じた予感が、確信へと変わる。
――――コイツはここで潰さないとダメだ。
思わせてはいけない。
思ってはいけない。
ウルフェンズを抑えられると。国奏には抑えられてしまうと。
そんな雰囲気を蔓延させてしまったら、冗談抜きで一気に持っていかれる――――!
だからこそ、ここが分水嶺だと。
今現在、日本球界で最も1番を打っている打者がそう判断し、全力でボールにバットを当てにいった。
当たれば、当たりさえすればいい。
そうした思いで振ったバットは余りに無様な形で、空を切った。
(あぁ……そこ落とされたら無理だわ……)
ピッチトンネルを通るカットボール。
初球と全く同じコース、軌道で投げられたボールは、直前で滑り落ちるようにボールゾーンに消えていった。
歓声が上がる。
オウルズを勢いづけるには十分すぎるスタートだ。
三球三振。
結果だけ見ると、全く1番打者の仕事を果たせなかった。
「…………」
上原は自軍ベンチに戻る際、ちらりとマウンドにいる敵を見た。
キャッチャーから返球されたボールをパシッと受け取り、バックの野手陣に人指し指を立てハンドサインを送る。
ワンナウト、と。
昔、よく見た光景だ。
二軍であいつは、いつもああやって三振を取るたびに俺達の方を向いていた。
自然に、笑みが漏れていた。
「三振したのに何笑ってんのよ?」
どうやらそれを見られていたようで、すれ違いざまにニヤつきながらベンチから出てきた正捕手様に見咎められる。
「いや、昔みたいだと思ってな」
「…………」
「国奏、昔に戻ってるぞ。俺たちの一番前を走ってた時の頃に」
「……まぁ、見たら分かるわ」
不躾にそう言う水瀬は、マウンドの方を見つめていた。
「お前も昔みたいな雰囲気になってるぞ」とはあえて言わなかった。
全く、不器用な男だと思う。
「ストレートは想像以上に走ってる。カットボールもキレてる。失投待ちをするにしても、球種は絞らなきゃ無理だな。どんな投球スタイルで来るか分からない以上、受け身で待つしかないが、お前ならできるだろ?」
「そうやね。お前みたいにダッサイ三振はせんと約束しとくわ」
「本当か? 楽しみにしとくぞ?」
軽口も程ほどに、ベンチに引っ込む。
これから監督やコーチに「相手が想定より良かった。だから打てませんでした」と報告しなければならない。
後ろから水瀬の舌打ちが聞こえたような気がしたが、上原は無視を決め込んだ。




