30話 『扇の要』 Ⅳ
捕手杉宮のアクシデントによる緊急交代。
ベンチに運ばれる彼の姿に、球場は一時騒々しくなる。
1、2分ほどの間を置いて、ベンチからプロテクターを付けた三谷が出てくると同時に、選手交代のアナウンスが流れた。
杉宮に代わり捕手のポジションに入った三谷は、グラウンドに入るとまず内野メンバーと国奏に杉宮の容態を伝えた。
その後、軽いキャッチボールで肩を冷やさないようにしていた国奏の投球を数球受け、内野にひとまずの指示を飛ばす。
時間にして杉宮交代から5分ほど。
バッターはドミソン、カウントはスリーボールツーストライクのフルカウントから試合は再開する。
「(さて――――)」
三谷の脳内にはいくつかの選択肢が浮かび上がる。
それは、ここからどう1アウトをとるか、というものである。
単純に考えれば、フルカウントで残り1アウトなのだから、普通にストライクゾーンに構え、投げさせるのが最も無難だろう。
しかし、相手は4番で、しかも今日は当たっている。
そして、試合の中断というイレギュラー。
たった5分間とはいえ、間違いなく選手たちの集中力は途切れ、張りつめていた勝負の雰囲気は霧散している。
こういう時の最初の一球というのは、とても難しい。
安易に投げさせると簡単に失投になってしまう可能性も高い。
投手というのは繊細な生き物だ。
たとえ本人が大丈夫だと言っても、試合の中断、勝負の強制仕切り直しは少なからずピッチングに影響を及ぼす。
一度立ち上げた精神を組み立て直すのは簡単ではない。
国奏は優秀なリリーフで、こういうイレギュラーな事態においても若い選手のような浮足立った感じではなかった。
しかし、それでもこの試合再開の初球をストライクゾーンに投げるというのはどうか。
もしも真ん中に入ってしまえば、最悪ホームランもあり得るバッターが打席に立っている。
この状況で一番避けたい展開は間違いなくそれなのだ。
この場面における最も手堅く安全な作戦は、"ドミソンには四球上等でボール球を投げ、次の5番バッターで勝負をする"である。
ドミソンの次を打つラビッツの5番打者は、幸いにして本日は快音を残せていない。
スリーボールツーストライク。
このような窮屈なカウントでわざわざ当たっている打者にリスクをとりにいく必要もない。
真っ白な状態から配球を組み立てられる次の打者でアウトを取ればいいだけだ。
三谷はここまで考え、そしてひとりでに首を振った。
「(そんなわけねぇよな、杉宮。お前なら絶対にそれは選ばない)」
三谷は控え捕手だ。
昨シーズンから杉宮にはポジションを完全に奪われた。
しかし、正捕手の座をあきらめたわけではない。
いままで杉宮がマスクを被る試合の配球チャートは全てチェックしてきた。
毎試合ごとにデータを持ち帰り、分析する。
そうしていくと、次第に気付く。
一見すると何でもないような配球、リードに膨大な量の意図が込められていたことに。
同じ投手同じ打者でも、唐突に配球傾向が変わる。何故と思い調べれば、必ず答えが用意されている。
球数、調子、確率、傾向、性格。
洗い出せば出すほど、無限にも思えるような情報がただの図表から氾濫してくる。
屈辱だった。
三谷は打撃や肩で杉宮に負けている自覚はあっても、リードに関しては自分に一日の長があると思っていた。
しかし、実際にはそれすらも後輩の杉宮の方が上回っていた。
三谷は認めた。
自分は明確に全ての面において杉宮に劣っていると。
だから、どうする? このまま腐って控え捕手として球団に飼われるのか?
一軍経験のある捕手は"壁"として需要がある。
このままレギュラーになれずとも、捕手であれば試合に出れずとも長く契約してもらえるだろうし、引退や戦力外の後も球団スタッフとして雇ってもらえるだろう。
だが、そんな野球人生は御免だった。
今劣っているなら、そこに並べるように積み上げるまで。
自分には杉宮のような肩や打力はない。
三谷が正捕手に返り咲くためには、持っているものをひたすらに上乗せするしか方法はない。
それからは、ひたすらに見続けた。
スコアシートを、映像を、データを、野球を。
杉宮のもの――――だけではない。
NPB12球団のもの、それに加え、MLBで行われている試合についても、時間の許す限り頭に叩き込んできた。
「(杉宮のリードはとても強気だ。自分の判断、技術に絶対の自信をもってミットを構え、投手を引っ張る。迷いがないから、投手も安心して投げられる)」
その本質は信頼だ。
自身の力を信じているから、投手の力も信じられる。
このピッチャーなら自分が適切な舵取りをすれば必ず抑えられると信じている。
配球には捕手の性格が出る。
今まで何千というチャートを見てきた三谷はそれを確信している。
そして、チャートの中での杉宮は、この場面で国奏に"逃げ"をさせる捕手ではない。
先発がドミソンに投じた13球。国奏が投じた5球。
いずれも杉宮が指示した投球だ。
それが三谷の脳内にチャートの形で浮かび上がる。
これだけ揃っていれば、十分に予想できる。
杉宮が最後に何を投げさせようとしていたのか。
「…………」
ドミソンは今シーズン37本のホームランを放ち、今現在ホームランダービーのトップを走っている。
2位との本数差は3本であり、残り試合数からも本塁打王の本命と言われている。
ドミソンの打球がフライ性のものとなる割合は約63%であり、これはNPB全打者の中で最も高い数字である。
長打を打つにはフライの打球を増やすのが最も合理的であるという発想から昨今のプロ野球でフライを放つ打者が増加した事を『フライボール革命』と呼ぶが、ドミソンも典型的なフライボールバッターのサンプルと言える。
特に低めのゾーンに強く、本塁打37本のうち23本が低めのボールから記録している。
低めは投球の基本だが、ドミソンに対して安易に行うと、その豪快なアッパースイングの餌食となる可能性が高い。
もし低めで勝負するのなら、確実にボールゾーンへ逃げる球で勝負するべきだ。微かにでもゾーンをかすめると、持っていかれる可能性もでてくる。
しかし、連続した打席内ならまだしも、一度中断を挟んだ今の状況ではその配球では見逃される可能性が高い。
十中八九フォアボールとなるだろう。
だが、ここで杉宮が行った配球を加味すると、ドミソンを打ち取るための別の可能性が現れてくる。
今日のドミソンには徹底して外角攻めを行っており、それも決め球は全てボールゾーンに逃げる変化球だった。
典型的な強打者への教科書配球。怪我を避けるための投球というやつだ。
しかし、そこに杉宮の最後のリード、つまりファールチップで交代する最後の球を合わせると、彼がドミソンをどのようにして抑えようとしていたのか見えてくる。
三谷は静かにキャッチャーマスクを被り直し、なるべくゆっくりとサインを出し、そしてミットを構えた。
場所は内角の高め。
ボールを捕球する三谷は中腰の姿勢をとる。
そこに速球のサインを出した。
ドミソンは高めの速球もいくつか本塁打にしているが、低めと比べると凡退、三振もそれなりに多い。
アッパー気味のスイングではベルトより上の内角球を捌くのが難しいのだろう。
だというのに、杉宮が今日このコースを決め球に持ってこなかったのは、幾つか理由がある。
まず、先発の庭田がここに投げるのを極端に嫌がる投手であり、無理に指示すると投球全体に影響が出るタイプの投手だという事。実際、こういうピッチャーはたまにいる。
もう一つは、勝負所でドミソンを迎えた時、より確実に抑えるための意識付けだ。
徹底した外角攻めは目付けを外にずらし、内角への対応力を下げさせる。
試合を通して植え付けたイメージは簡単には修正できない。
最も大事な場面で抑えるために、それまでの投球を布石に使う。そうすることで、データ上では比較的に苦手というレベルの指し手が必殺の一手へ進化するのだ。
問題は投手のコントロール。
この高め、近めのコースを正確につくのは難しく、抜ければ死球、引っ掛ければ甘く入る可能性も高い。
つまりは、三谷が国奏をどれだけ信じられるのか、という問題。
三谷と国奏は練習含め数回バッテリーを組んだことはあるが、試合で実際に国奏の球を受けたのは今まで1回しかない。
国奏が優秀な投手である事は疑うべくもない。しかし、だからと言って信頼できるかは話が別だ。
果たして、初球をここに投げ切れるのか。
そういう疑問、不安は当然捕手は抱くものであり、三谷の頭にもそれは浮かんだ。
しかし、それは本当に一瞬の事。
杉宮は国奏の投球を信頼していた。その勝負所でのコントロールを信じていた。
それは、国奏と杉宮が組んだ時の配球を見れば簡単に分かった。
ならば、三谷には迷う必要はない。
杉宮がどれだけの努力をしてきたのかは、9分割の図を通して知っている。
だったら自分は、それを信じるだけだ――――
ロジンバッグの粉が舞った。
国奏が投げたストレートを追いかけるように、白煙が尾を引いていく。
視界の端には、足を踏み込み体を捩りこむ打者の姿が写り込む。
しかして、彼が操る35インチ33オンスの暴力的な質量は快音を残さなかった。
三谷のミットには、確かに手に響く衝撃が到来する。
『ストラックアウト!』
一ミリもミットを動かす必要のない、完璧な投球であった。
◇
あの後、体調が安定してから病院に向かった杉宮は、そこで精密検査を行った。
結果は"大事なし"
特に呼吸器などの内臓への異常は見当たらず、骨も折れていない。しかし、大事をとって数日は様子を見るようにという診断が下された。
杉宮はロッカールームに張り出されたスタメン表を睨みつけていた。
そこに自分の名前はなく、代わりの選手が捕手の位置に載っている。
それ自体は先日に監督から聞いていた。
少なくとも1試合は杉宮をスタメンから外し、ベンチにも入れない、と。
「…………」
真野監督は、いい機会だから休日と思って体力を回復させろ、と言っていた。
しかし、この大事な時期に数試合とはいえ離脱するというのは情けなく、何より自分自身に腹が立った。
一軍登録された選手は全員が球場に入り、試合前の練習をこなし、ベンチに入る。
怪我や何かしらの理由で一軍登録をされていながらベンチ登録から外れた選手は、大体裏で中継を通じて試合を観戦している。
無論、選手の格やベンチ登録を外れた理由にもよっては打撃練習だけをしてさっさと帰宅したりもするが、杉宮はそのような特権を許されるほどの大御所ではないし、そもそもする気もなかった。
「よぉ、杉宮」
「三谷さん」
突っ立ってスタメン表を眺めていた杉宮に話しかけてきたのは、杉宮の代わりとしてスタメン表に名前を連ねた三谷善治だった。
先日のアクシデントで途中交代した杉宮の替わりに捕手に座り、残りのイニングを無失点でリードしたキャッチャーだ。
「すみません。昨日は迷惑かけて」
杉宮からすれば自分のせいで負担を掛けた一番の選手であり、申し訳ないという気持ちが心にあった。
なので、自然と謝罪が口から洩れた。
対する三谷は手をひらひらと振って、気にしていないと返した。
「あーいいよいいよ。それより体調は大丈夫なのか?」
「特に大きな問題は。今日一日はベンチから外れますけど……」
と、ここで杉宮は言葉に詰まった。
真野監督は杉宮の様子を確認し問題がなさそうならば、代打起用を挟んで数試合後には杉宮をスタメンに戻すと言っていた。
それを正直に目の前の三谷に言うかを悩んだのだ。
三谷だって、この機会にスタメンを奪うために全力で試合に臨むだろう。
しかし、自分が数試合でスタメンに復帰する予定だと知ったら、多少なりとも彼のモチベーションに影響するのではないかと慮った結果の沈黙である。
しかし、そのせいで中途半端な言葉尻になってしまい、会話に微妙な間が開いてしまった。
「なぁ、俺のリード、どうだった?」
「え?」
続ける言葉を杉宮が探していると、三谷が唐突に話題を変えた。
「ほら、昨日お前が引っ込んでからだよ。お前から任したって言われたんだぞ? お前のことだから試合の配球チャートは確認してるだろ」
質問の意図、相手の目的を予測する間もなく、杉宮は反射的に質問への返答を口にした。
「あぁ、はい……完璧、だったと思います。俺の理想としていたリードでした」
後輩の立場から先輩に"完璧"という表現を使う事に、若干の上から目線を感じたが、この言葉以外適切な表現が思いつかなかった。
実際、チャートを確認して杉宮も驚いたのだ。
自分がこうしようと思っていた配球、展開をなぞるかのように試合は進み、決着していた。
打ち合わせも段取りもなしに、あそこまで試合を通した配球の意図が引き継げている事に驚愕した。
「――――そうか。完璧か。そりゃよかった! 感謝しろよ? いきなり予定にないマスク被って守備から試合入るのは大変だったぞ?」
「?? え、えぇ、はい。ありがとうございます。ほんとに」
三谷は笑って杉宮の背を叩いた。
それが場違いなほど嬉しそうに見えて、杉宮は困惑した。
自分の実力の方が上だぞ、といった感じには見えず、自分の方が試合をうまく作れた、という自慢にも思えない。
いったい三谷さんは何を言わんとしているのだろうか?
会話の着地点が見えず、杉宮の頭からは疑問符が消えない。
三谷はひとしきり笑った後、杉宮に向き直った。
纏う空気が変わった気がして、杉宮の背も自然に伸びた。
「なぁ、杉宮。お前何試合でスタメンに復帰できる?」
「――――それは」
「あぁ、言わなくていい。異常がなかったんなら多分2、3試合ってとこか。……不安だろうな。こんな大事な時期に、今まで守っていた扇の要を他人に預けるってのは」
「――――」
「確かに俺はお前よりレベルが低いキャッチャーだ。お前がいない分、チームはキツイ思いをするだろう」
「そんなことは……」
「でもな――――俺は絶対にお前が帰ってくるまでオウルズを勝たせる。負かせない。終わらせない。俺は野球人として、オウルズに契約してもらったプロとして絶対にこのチームを優勝させたい」
三谷の目には、様々な色が映っていた。
決意、だけではない。清濁とした感情が渦巻いた色。
決して成功だけではない人生。三谷の歩んできた、捕手としての苦難挫折。
この言葉を発するのに、彼がどれだけの思いを積んできたのか。
「――――オウルズの正捕手はお前だ」
ここにきて、杉宮はようやく理解した。
三谷が何を言わんとしていたのか。
これは自分への――――激励だ。
自分一人で扇の要を守り続けてきたと思い上がっていた自分への。
「は、い」
思い返せば、どれほど傲慢だっただろうか。
自分の1プレーで試合の勝敗が変わるなど。自分の有無で勝敗が変わるなど。
一人で強くなったと思っていた。チームを勝たせてきたと思っていた。
自分が離脱すると、オウルズは負けると思っていた。
そんな訳がない。事実、目の前の三谷は自分以上に完璧に試合を動かしたじゃないか。
「だから、お前は安心してすぐに帰ってこい。あんまりにも遅すぎると、俺がレギュラー奪っちまうからな」
「……なんすか。それ」
思わず苦笑が漏れた。
年上の選手に、ここまでして貰っているのだ。
レギュラーを奪う。上等だ。奪われないように速攻で復帰するし、もし奪われたらまた奪い返すまで。
一人じゃない。競い合う相手がいて、彼らがいるからチームは強くなる。
こんな当たり前の事を忘れていた。
だからこそ、こんな当たり前の事を思い出させてくれた優しい先輩に、お返しをしなければならない。
「俺が復帰した時にもう終戦してないようにお願いしますよ」
他愛もない軽口だ。
だが、それに対し三谷は朗らかにこう返した。
おう、任せとけ。
お前を俺たちのフォローに回してやるよ、と。
結局のところ一人でチーム勝たせられる選手なんていないし、控えの選手が常にギラギラしてるチームの方が強いよね、って話。




