27話 『扇の要』 Ⅰ
この世界にコロナはない!
ないったらない!
余り良い感触ではなかった。
衝突の瞬間、踏み込み足に微かに痛みが走ったからだ。
杉宮灯矢が放った打球は良い角度で放物線を描きながらフェンス手前で失速し、外野手のミットに収まった。
『ラストバッター杉宮ライトフライ。今日の試合は3-4でアトムズの勝利です。オウルズは中々1位とのゲーム差を縮められません。続いて、ゲームのハイライトシーンを見て行きましょう…………』
残り20試合にして、ラビッツとオウルズのゲーム差は平行線を辿っていた。
◇
試合後、シャワールームでは選手が汗を流し落とす。
杉宮はユニフォームを脱ぎ、身体を締め付けていたウェアをカゴに放り捨てた。
上半身に4つの皮下出血。右大腿部に2つ、左大腿部に3つ。右足首に軽い打撲。
彼の身体は相当に痛々しかった。
「っ……」
体に当たる水滴が微かに、それでいて確実に彼に体の不調を訴えてくる。
キャッチャーというポジションは過酷だ。
150キロを超える硬球を捕球する。ただ球を掴むだけでなく、ボールがストライクゾーンを大きく外れるのなら、後ろにそらさないように体で止める。
スタメンで途中交代がないのなら、一試合に数百球の球を捕球する。
打者へのリード。盗塁へのケア。内野守備位置の指示。
試合中に最も球を触る野手がキャッチャーであり、扇の要と言われる所以でもある。
シーズンも120試合余りを消化した。
ここまで試合に出ているレギュラークラスの野手で、身体の痛みを抱えていない選手などいないだろう。程度の違いがあるだけで、誰もが痛みと向き合いながら試合に出ている。
――俺はこんな所で弱音を吐くわけにはいかない。
大腿部、膝、足首。
部分ごとに力を入れ、具合を確認する。
痛みだけなら我慢すればいい。だが力が入らないのは問題だ。試合中のアドレナリンを加味してもパフォーマンスに影響が出る。
シャワーの栓を締め、体から滴る水滴を拭う。
バッティングに強い影響を与える足首へのテーピングはトレーナーに頼み入念に行った。
チームの好調。
リーグ優勝。
日本一。
ここまで試合を消化すると、周りは当然騒がしくなり、嫌でも耳に入ってくる。
――とても、鬱陶しい。
杉宮のキャリアにとって、今年は非常に重要な年である。
ベストナイン、ゴールデングラブ。どちらも彼が大本命だと言われている。
そうなれば、彼の年俸は最低でも倍増。生涯年収にも大きく関わる。
そして、これは杉宮も想定していなかったことであるが……リーグ優勝、ひいては日本一となったチームの正捕手となれば、引退後までの仕事も保障されたようなもの。
当然取れる時に取っておきたい栄光である。
だから杉宮はチームを勝たせるために全力を尽くす。
自宅に帰った後、球団のスコアラーから配布された次の対戦相手のデータを確認する。
前カードの時と比べて、数字に変化はあるか。好調だった7番打者はどうなった? 逆に不調だった主砲は復調したか? しているとしたらどの試合の打席から? どのコースのどの球種に対して?
録画しておいた試合映像を見ながら、確認する。
全てのデータを整理し終わった時、時刻は0時を回っていた。
習慣的にスポーツニュースへチャンネルを変える。
オウルズは2位で優勝争いの真っ最中。当然重点的に試合結果が報道される。
試合のターニングポイント。重要なシーンで打たれた映像が解説とともに流れる。
打者の調子。投手の調子。そして、杉宮のリードへと話題は変わる。
そして、杉宮が投手のボールを後逸したシーンに切り変わった瞬間、反射的にTVの電源を落とした。
あぁ、本当に鬱陶しい。
言われなくても、勝ってやる。だから、頼むから少し黙ってくれよ――
◇
1位と2位の首位攻防戦と言えば、当然のごとく注目されるカードである。
試合数が少なくなればなるほど、直接対決の勝敗は順位に大きく影響する。
残りのゲームは15試合。ゲーム差は1.0。オウルズとラビッツの試合は残り5つ。三連戦はこのカードで最後である。
簡単に言ってしまえば、このカードで相手から勝ち越してしまえば、ラビッツはほぼ優勝が確定し、オウルズは残りのゲームを勝ち越し、ラビッツが五分で優勝となる。
試合前のチームミーティングも、普段とは違う雰囲気が漂っていた。
張りつめた空気。やけに重たい静寂。いつもなら聞こえる軽口や話し声も、今日はほとんどなかった。
だからと言ってやる事は変わらない。
勝つ為にすべき努力を怠らず、全力で戦い抜く。
18時前。球場が活気に溢れだす。
ベンチの前で円陣を組んだオウルズナインは大きく気合を入れてグラウンドに入った。
試合開始、初回にオウルズはランナーを2人背負った。
ツーアウトを取った後、3番藤堂にセンター前に打たれ、次の打者のセカンドゴロを送球エラーで1,3塁。
いきなりのピンチである。
「…………」
オウルズの監督である真野には非常に大きなプレッシャーが掛かっていた。
それも当然。球団として久しぶりのリーグ優勝が目の前まで迫っているのだ。
監督である真野にかかる重圧は相当なものである。
胃薬の消費量もマッハに加速し、もはや近所の薬局の顔なじみとなってしまった。
「おい……監督のあんな表情初めて見たぞ……」
「あぁ、やばいなアレは。阿武の奴、裏で殴られそうだ」
本人にその気はなくとも、ベンチに立っているだけで周りにはそう見られる。
自然に顔も強張り、口数も少なくなるので、選手が勝手に勘違いしてしまうのだ。
しかし、真野本人の心は見た目の雰囲気程重々しくはなく、むしろ真逆であった。
「(あああああああああぁ……。頼む庭田! 抑えてくれぇぇぇぇ! 先制点だけは、先制点だけは止めてえええええええ)」
所詮、野球と言うのは先発が試合を作るのが最も勝ちに貢献するものだ。
いくら采配に優れた名将でも2回や3回などで先発に崩れられては為すすべがない。
大事な三連戦の頭を任せたチームのエース。エラーをされたとはいえ、堪えてほしい。
マジで。お願いします。
監督と言う立場から決してそんなことはできないのだが、真野は両手を合わせて目をつぶりたい気分だった。
もう何でもいいから抑えてほしかった。多分いま「試合に勝てる壺がありますよ! 5万でどうですか!?」と言われたらキャッシュで買う勢いだった。
そんな祈りが通じたのか、相手バッターは甘い球を打ち損じてショートゴロ。
今度はしっかりつかんで丁寧にファーストへ送球。
オウルズはピンチを何とか無失点でしのいだ。
「おい……監督の表情が柔らかくなったぞ……」
「あぁ、阿武のやつ、良かったな。あれなら平手で済みそうだ」
ドッ、ワハハ。
しょうもない冗談を言い合っているベンチメンバー(彼ら自身は必要以上に重くなっているベンチの雰囲気を緩和しようとしてるだけなのだが)。
彼らに真野は反応しない。
普段ならば「何しょうもないこと言ってんねん!」と怒声を飛ばしただろうが、今の真野にそんな余裕はない。
彼の心の中は一つである。
「(頼むううううううう。先制点を取ってくれええええ。先制さえ、先制さえできればすごく計算しやすいんですううう!!)」
おそらく、今日の真野はずっとこんな感じで胃に負担をかけ続けるであろう…………。
◇
真野の思いが通じたのか、オウルズは先制点を奪取し、試合を有利に運んだ。
先発庭田は7回まで1失点の好投。
先発投手にそれほどの投球をさせたのだから、普通は勝ちをほぼ確信する試合である。
しかもオウルズは鉄壁のブルペンを誇る投手力のチーム。
6回リード時点でリードしていた試合の勝率は9割越え。簡単に考えれば、勝ちはオウルズのものであると誰もが思うだろう。
しかし、今日の相手はラビッツであり。そしてこれは優勝争いの首位攻防戦である。
確率、相性、統計。そういった数字は得てして、こういう場面に崩れるのが常。
故に一切の油断はできない。
何しろ、相手は一切諦めていないのだから。
『ピッチャー庭田に代わりまして、国奏』
チームがリードし、自分が投げる。
国奏にとっては何度も経験している当たり前の状況。
いつもと違うのは、打者の纏う空気。
「(やっぱり良いな。この優勝争いしてるときの雰囲気は)」
相手打者の射殺すような目が国奏を強く睨みつける。
相手は常勝を義務付けられた球団の選手である。それはつまり、こういうシチュエーションでの試合に慣れているという事。勝たなければならない試合で、勝つ。これを実行できるチームだからこその昨年の日本一。
文字通り死ぬ気で食らいついてくるだろう。
「まぁ、それは俺も同じだ」
国奏の投げた球は、スパンと心地良い音を三度響かせた。
球場を沸かせるには十分な投球だった。




