2話 『FA宣言』
やっちまった……。
日本シリーズ最終戦。大一番で逆転を許した国奏はロッカールームで一人、頭を抱えて項垂れていた。
チームの目標、三年連続日本一。みんなその為に一年間必死に戦ってきた。
でも、自分が全部だめにしてしまった。
左肩に残る痛みですら、今は気にならない。
チームの仲間、監督やコーチ達は何も言ってくれない。いや、そもそも皆会話などしていなかった。
それもそうだ。あんな負け方をしてしまえば、誰だって意気消沈するだろう。
だが、せめて監督からは何か言ってほしかったな。と心の中で独り言ちる。
元々先発として入団してきた国奏を中継ぎに転向させたのは、当時1軍の投手コーチであった現ウルフェンズ監督、七岡一平である。
今シーズンで、監督としての契約が切れる彼にとっては、今年の日本一は自身の去就を決める大切な目標だったはずだ。
もしかすると、選手よりも落胆しているのかもしれない。
結局、心に浮かぶのは、後悔の念ばかり。
国奏は失意の念を抱えたまま、オフシーズン入りをする事になった。
パリーグ所属のウルフェンズは現在最強のチームとして名を馳せているが、ほんの10年前までは暗黒も暗黒。シーズン勝率が4割を切る事もざらにある弱小球団だった。
そんな折、親会社の変更を契機に、現場やフロントにメスが入る。
大改革。5年単位でのチーム組み換え計画である。
優秀なスカウトをそろえ、育成環境を整え、生え抜きのスターたちで客を呼べる黄金期を作る。
それが第一目標だった。
球団経営と球団育成。二つの視点を持つこの計画は、新しく就任したGMの辣腕によって、完璧に進められた。
まず、絶対的な野手を揃える。
1週間に一度しか投げないエースより、143試合に出場して、客を呼べるバッターを育成し、客入りを増やす。
これに5年。
その後に投手を揃え、10年後にはウルフェンズの黄金期が訪れる。そういう計画の筈だった。
しかし、計画とは上手くいかないのが常である。しかもそれが予想より良い方向に転がった場合などはなおさらであろう。
1年目、2年目、3年目とドラフトで着実に期待の若手を獲得していき、さぁ5年目。ここから1年目の選手が大成してくるぞ、という予定が。
ウルフェンズが獲得した選手たちは、予想以上のスピードで成長し、それが5年目に大爆発。今まで獲得した若手選手たちは次々とタイトルホルダーへ覚醒した。
6年目には穴埋めとして取った大卒や社会人の選手がまさかまさかの大当たり。チームから二人の新人王候補を生み出し、平成最高の新人王争いと呼ばれるまでに活躍した。
つまり、フロントの予想を大幅に上回る形で、ウルフェンズの打線は黄金期を迎えてしまったのである。
こうなると困るのは、投手陣。
野手に比べてまだ力を入れていないピッチャーたちは、未だに最弱の時のまま。
だが打線は間違いなく優勝を狙えるレベルまで高まっている。
すると、功名心が見えてくるのはチームの監督である。
優勝監督、日本一監督。甘美な響きだ。
入れ替わりで一軍投手コーチから監督に就任した七岡一平新監督は、当時ぺんぺん草も生えなかったチームのブルペンを大改造。
中堅、ベテランを中継ぎ転向させ、酷使酷使の大回転。
そんななか、中継ぎエースとして期待されたのが、大改革ドラフト一期生、ドラフト6位で入団した高卒投手の国奏であった。
先発として一年目から一軍に顔を出していたが、いまいちぴりっとしていなかったところを中継ぎ転向。
60試合を投げて防御率2.67。一軍戦力として完全定着した。
国奏のブレイクもあり、結果としてチーム改革が始まってから8年目。ウルフェンズは27年ぶりの日本一を奪還する。
次の9年目。前年と同じように投手陣は火の車。球団が揃えた期待の若手投手は未だ大成せず。
それも当然である。普通、選手を一流に育成するのには、大卒で3年。高卒ならば5年以上はかかる。
ウルフェンズ野手陣の成長速度が異常だっただけなのだ。
そんな壊れかけのベテランと若手だけの投手陣を、野手が引っ張る形でシーズン二連覇。二年連続日本一。
数々の歴代シーズン打撃記録を塗り替えた打線は、メディアにも取り上げられ、世間からは完全に黄金時代突入を認められた。
国奏は70試合を投げた。
そして10年目。
ここで監督の無理な投手運用のツケがきた。
投手陣にけが人続出。今まで主力として投げてきた投手たちの大不調。
前年までのローテ投手が一人も一軍にいないという事態まで作り出したブルペンの崩壊。
白羽の矢が立ったのは、未だマシな球を投げていた国奏である。
シーズン序盤から連投に次ぐ連投。
回跨ぎは当たり前。肩を作らない日は一日もない。
見る方すらも痛ましくなる過酷な日程を投げ切る国奏は、日に日にパフォーマンスを落としながらもシーズンを完走した。
登板数101試合。歴代シーズン登板の一位に煌々と輝く国奏の記録。
それは10年以上1位を保ち続け、現代野球のアンタッチャブルレコードとまで言われた久保井泰虎の90登板を悠々と上回るものだった。
オフシーズン。
自宅で肩のアイシングをしていた時、国奏のスマホが鳴った。
表示されている名前は、七岡監督。ウルフェンズの一軍監督である。
「はい、国奏です」
「おう、淳也か。肩肘の調子はどうだ」
ぶしつけに投げかけられる質問に何ともなく答える。
「少し炎症を起こしていましたけど安静にしてれば大丈夫そうです。それより、どうしたんですか? 急に電話なんかよこして」
「いやなに。お前には礼を言っとかなきゃならんと思ってな」
何を言っているのだろうか。
国奏にはいまいち話の流れが見えてこない。
「淳也。今までありがとう。そしてすまなかった。チームの、ワシの為にお前には無茶な起用を押し付けてしまった」
「ちょ、ちょっと待ってください。どうしたんですか一体」
急な感謝と謝罪に、慌てる国奏。
電話だというのに、思わず正座して問い返した。
「ワシは今季限りでウルフェンズの監督を辞めることになる。じきにメディアでも報道されるだろう」
電話口から発せられたのは、七岡監督自らによる退任の知らせ。
「それを……なんで俺に?」
「さっきも言ったように、ウルフェンズが2度の日本一。3度のペナントレース優勝が出来たのはお前の活躍があってこそだ。ワシがお前の先発としてのキャリアを終わらせてしまった。そして、お前の選手生命を削るような起用をしてしまった。だから、ケジメとしてお前には言っておかなきゃならんと思ったんだ」
「そんな……俺なんて、役に立ってないですよ。最後の試合だって、俺が抑えられてたら……」
監督が辞めさせられる事もなかったでしょうに。とは言えなかった。
本人は辞任と言っているが、間違いなくあの日本シリーズ敗退が原因だろう。
言ってしまえば、国奏があの時打たれなければ、七岡は来季も監督として契約して貰えた可能性が高いのだ。
「淳也。ワシはな。最後はお前で終われてよかったよ。世間は打線におんぶにだっこと言うてるが、ワシからすればウルフェンズを支えてきたのはお前だ」
国奏はこの言葉に、思わず目頭が熱くなるのを感じた。
「監督……」
「まぁ、それだけを言いに来たわけじゃない。一応、お前にも用事があってな。最後の監督らしい仕事だ」
照れ隠しのように続けられた言葉に、国奏の顔が緩んだ。
用事。いったい何の事だろうか。
「なんですか?」
「お前、今シーズンでFA権を持ってることになるんだが、行使はどうする?」
FA権。
選手に与えられたフリーエージェント権利。
NPBが規定した国内FA条件を満たした選手に付与されるもので、一軍に一定の期間登録された選手が得ることが出来る。
国奏は来シーズンで29歳となる。高卒でプロ入りし、10年目のシーズンを終えた今、FA権獲得の条件を満たしていたのだ。
「……正直に言うと、まだ考えてないです。今の今まで権利のこと自体忘れていました」
これは本心である。
実際、日本シリーズでのホームラン被弾からは、国奏の頭にはその事への後悔しかなかった。
「そうか。それじゃ、これは監督じゃなく、元プロ野球選手として言っておく。FA宣言はやった方がいい」
「え……? 何故ですか」
「お前はリリーフとして活躍した。当然各球団もそういう目で見てくる。中継ぎってのはな。基本的にどこの球団でも欲しいんだ。安定した中継ぎは何人いても困らないからな」
「はぁ、まぁそうでしょうけど」
「それで、ここからが本題だ。ワシが言うのもなんだが、中継ぎは消耗品として捉えているフロントが多い。だから需要がある。で、それは同時に中継ぎの寿命の短さを証明していると言ってもいい」
ここで、ようやく国奏にも七岡監督が言わんとしている事が分かった。
つまり、お前にも寿命が来る、と忠告しているのだ。
「プロ野球は稼げるときに稼がなきゃいけねぇ。いつ終わりが来るかも分からねぇからな。FAは宣言すりゃ年棒は跳ね上がる。お前の実績なら声がかからないなんてありえねぇ。あまりでかい声じゃ言えねぇが、お前を欲しいと言っている球団もあると話に聞いている」
成程、そういう事なら確かに。
移籍するしないに関わらず、他球団からの自分の評価を聞きたいという気持ちもある。
「分かりました。俺もFA権を行使する事にします」
そうして数日後。
NPBのFA宣言選手に『国奏淳也』の名前が公示された。
国奏のFA宣言に関する取材には、多くの記者が訪れる――事もなく、数人の地元紙の記者が来ただけであった。
記者にマイクを向けられ、FA宣言に際した心持ちや、決意の理由について尋ねられる。
「どうしてFA権を行使なさろうとなさったのですか?」
「まず第一に、他球団からの自分の選手としての評価を聞いてみたかったからです」
「国奏選手というと、今シーズンは101登板という記録が話題になりましたが、ご自身ではどう思っておられるのですか?」
「1年にこれだけ試合で投げたいというのも中継ぎをやる上で建てていた目標であり、その点に関してはまぁ、頑張れたのかなと。ただ、それで数字を落としてしまうと意味がないので、そこは反省しています」
「シーズンの過登板が祟って、ポストシーズンではパフォーマンスを落としていたとの噂がありますが、国奏選手としてはどう思っているのでしょうか?」
「疲労がたまっていた、という点は否定しませんが、打たれたのは単純に僕の力不足が原因です。調子を落としていたとしても、それは僕の調整が甘かっただけだと思っています」
「では、調子さえ良ければあの場を抑えられたという事ですか?」
記者の質問に顔を若干顰める。
失礼な奴だ、と国奏は思った。
「まぁ……そう言えなくもないでしょうが」
「成程、取材に協力いただき、有難うございました」
そして記者が交代し、また似たような質問がぶつけられる。
起用法が云々。登板数が云々。
どうやらマスコミは酷使されすぎた国奏が起用法に不満を持って、FA宣言したという流れにしたいようだ。
だから、国奏はそれらの質問の度にこう答える。
「ウルフェンズは愛着ある球団で、球団の起用法に関して何か不満があったわけではありません」
そうして、FAに関する取材は終了した。
後日。
国奏が朝刊を読んでいると、でかでかと見出しが。
"国奏、FA宣言。条件は金銭よりも起用法か?"
内容は、取材に対する国奏の受け答えを上手い具合に捕捉し、あたかも球団に不満を持って出て行ったかのように読ませる文章。
成程。
あの記者からの取材は金輪際断る事にしよう。
国奏はそう固く決意した。