18話 『運がない男』 Ⅱ
いつからだろう。
バットを振る事が怖いと思うようになったのは。
只の一振りに、責任が伴うようになったのは。
◇
カード三連戦が終わった次の日。
甲子園球場には硬球を叩く甲高い音が響いていた。
全体的な練習が終わり、選手個々人で練習に取り組む時間。
島袋陽介は、自らの弱点克服の為に、フリーバッティングに取り組んでいた。
「クソッ!」
彼の口からイラついた言葉が漏れる。
まただ。
うまく打球にバックスピンが掛からない。
気持ちよく打ってバッティングの調子を整える事が目的の練習で、これでは意味がない。
何故だ、何故だ。
彼の頭の中に浮かぶのは、先日の三振。
あれがフラッシュバックして、更に彼を追い詰めた。
2軍では、打てるのだ。
逃げる変化球は見逃して、厳しいコースはカットして、甘い球を叩ける。
しかし、1軍に上がった途端、自分でも驚くほど結果が出なくなる。
球は見える。なのに、何故か芯を食えない。甘い球に手が出ない。見逃したコースでストライクを取られ、焦ってしまう。
木製バットと硬球が衝突するひしゃげた音が響き続ける。
このままだと、どうなる?
俺は来年も一軍の打席を貰えるのか?
再来年は一軍に登録されるのか?
その次は?
この世界に居られるのか?
毎年毎年、ドラフトで新しい顔ぶれが球団に加わる。
まるで当てつけのように繰り返される、ドラフト上位の外野手指名。
自分には後がない。
嫌でも実感するしかなかった。
脳裏に、妻と子供の顔が浮かんだ。
――ダメだ。雑念が多すぎる。
「すみません。一旦休憩します」
額に浮かんだ汗を袖で拭い、バッティングピッチャーに告げた。
結局、彼が打った30球の打球のうち、柵を超えたのは最初の一本のみだった。
「おぉ~、上手いやん。淳也」
がきゃんがきゃんと。
ここに気持ちよく打球をぶっ飛ばす男が一人。
トスバッティング練習をしている国奏淳也である。
トス役としてボールを上げ、少し不格好なフルスイングをする国奏を見て笑うのは、投手コーチの江藤。
セリーグには打撃専門ポジションであるDH制度がない。
故に投手が打席に立つ事になり、ピッチャーであってもバントの練習やバッティングの練習をする必要がある。
と言っても、それは先発投手の事。
中継ぎである場合は、打席が回ってきてもまず代打を出されるので、打撃の練習をする必要はあまりない。
「いやぁ~、やっぱバッティングは気持ちいいっすね」
が、投手というのは大抵打撃練習が大好きである。
というか、野球選手で球を打つバッティング練習が嫌いな奴の方が少ない。
プロにまで来る投手というのは、基本アマチュアでは打撃でも突出している。
普段練習できない分、こういう隙間時間にバットを持ちたがる選手は少なくない。
登板の調整の中に打撃を取り入れている投手もいるくらいである。
特に国奏はパリーグ出身。
DH制度があるパリーグ投手は、試合中に打席に立つ可能性がない分、セリーグよりもバットを持つ機会が極端に少ない。
その分、バットを振りたくて振りたくてたまらないのだ。
たまにパリーグ出身の投手がセリーグに移籍し、プロ入り後初めて打席に立つというのに「あれ? なんかバントも上手いしスイングもセリーグの投手より振れてますね(笑)」みたいに実況されてしまうのは、打席に立てるという事実にテンションが上がって気合が入りまくってるからだ。
「それにしても綺麗にバックスピン掛かるやん。センスあるで」
今は練習合間の休憩時間。
つまりこれは遊びのようなもの。
江藤の言葉にも、半分からかったような色が含まれている。
実際には、国奏のバッティングフォームはプロレベルとしてみたら失格もいいとこ。
トップも汚く、カベも作れておらず、力任せにフルスイング。
実戦レベルにはとても到達していないであろう。
しかし、それでも。
とても気持ちよさそうに芯を食う。打球が飛ぶ。
結果に責任が伴わない、野球少年のようなただ楽しむだけのバッティング。
だからだろう。
島袋陽介にはそれがとても魅力的に映った。
「……あれ? どした陽介」
「――あっ、いや。すんません」
いつの間にか傍で打撃を見ていた島袋に気付く国奏。
そんなところでどうしたのかと質問する。
島袋はバツが悪そうに言葉尻を濁した後、意を決したかのように国奏に向き合った。
「あの……どうやったら俺は打てるようになると思いますか?」
「は?」
なんで投手の俺に?
ぽかんと呆けた顔をする国奏を見て、島袋はしばらく気まずそうにした後、口を開いた。
「いや、えっと。すんません。やっぱ迷惑っすよね。忘れてください」
そう言い、彼はダグアウト裏に戻っていった。
「あっ! おい」
「あー、ありゃ重症やなぁ。ピッチャーにまで意見求めんなんて」
確かに。
投手に打撃の事を聞こうとするなど、明らかに異常である。
先ほどの彼には、何かとても切羽詰まったモノを感じた。
「……やっぱ、この間の試合っすかね」
「そうやろうな。ただなぁ、これだけは他人にはどうしようもないからな。自信を無くした選手に自尊心を取り戻させてやるのは一筋縄ではいかん。メンタル管理なんて千差万別や。教えられるもんちゃう」
「江藤さんは、なんであいつ打てないんだと思います?」
「さぁ? ワシ投手コーチやしバッターの事なんて分からんわ。ただ普段の練習見てる限りではあれほど当たらん選手には見えんのやけどなぁ。下でも打ってるし」
「んな適当な……」
「だって知らんし。運が悪いだけちゃう?」
随分と冷たい物言いである。
しかし、これが普通。
学生野球じゃないのだ。
ここはプロ。金を貰って野球を"させて"もらっている立場で、選手はその権利を結果で毎年買い取っている。
別に外野手はあいつ一人じゃない。
技術的な事は教えられるかもしれないが、最終的なところは自分で何とかするしかない。
みんな自分の事に必死で、他人の面倒なんて見切れない。
ましてや江藤は投手コーチ。投手の面倒を見るのに精いっぱいで、打撃陣のケアまでしていられない。
チームの打撃成績が向上したとしても、江藤の契約期間が延びる訳でも、評価が上がる訳でもないのだから。
「…………」
しかし、だからと言ってそのまま放っておくのも、何というか気分が悪い。
「ちょっと、様子見てきますね」
幸い今は休憩時間。
何をするのも個人の自由だ。
「陽介、ちょっと待てよ」
今まさにベンチ奥に消えていこうとする島袋の背中に声を掛けた。
「こっち来て座れよ」
「え? あの、ちょっと」
戸惑っている島袋を無理やりベンチに座らせる。
国奏と島袋。隣り合う形で顔を合わせる。
「あの、さっきのは忘れてください。ちょっと疲れてただけなんで……」
「あのさ。これは俺の持論なんだけど……」
所詮投手である自分には、ちゃんとしたアドバイスなど出来る筈がない。
だからまぁ、自分が強打者を相手取る時に考えている事を教えようと思った。
「野球って、3割成功すれば一流と言われるスポーツだろ? 逆にどんなに凄くても7割失敗する。出塁率で言うなら最強クラスのバッターで6割近くは失敗なんだよ」
「えっと、国奏さん?」
何を当たり前の事を。
そんなのよく言われてる事じゃないか。
そんな思いが籠もった視線を向けられている気がするが、気にしない。
分野外の事なんて適当に言うしかない。
「お前さ。2軍で打って、それで一軍で何打席貰えた? 10か、20か……。通算だと100くらいか? まぁでも、シーズン単位だと良い時20くらいが精いっぱいだよな。でも、それって試行回数が少なすぎないか?」
「そんな言い訳……」
「考えてもみろよ。野球なんて調子が悪けりゃ、あの近郷でも平気な面して10打数連続凡退とかかますスポーツだぞ。お前、焦りすぎなんだよ。結果が出ないのは自分のせいだと思ってるだろ?」
そう。野球はスーパースター、億プレイヤーでもシーズンに一回は全く打てなくなる時期がある。
実績ある選手は、そういう時は我慢して使ってもらえるが、そうではない選手は待ってなど貰えない。
1軍のスタメンを掴むという事は、どういう事だろうか?
まず、ファームで首脳陣にアピールし、昇格のチャンスをつかむ。
この時点で、他の2軍の選手との競争が始まっている。
死ぬ気で練習し、ファーム試合で結果を残して、競争に勝ち切り、一軍行きの切符を手にする。
そうして掴んだ切符の使用期限は、長くはない。
上にいる期間中に貰える打席は限られている。スーパールーキーなど、大きく期待されている若手ならかなり我慢してもらえる事もあるが、島袋はもうそうではない。
せいぜい、10から20打席ほど。スタメンで試合に出られない、守備固め代走専門の選手はそんなものだ。
その少ない打席数で、結果を残さなければならない。
再度述べるが、野球というのは球界最強の打者であっても不調の時は打てなくなる。
そんなスポーツで、少ない試行回数の中で結果をもぎ取れる"持っている"選手が一流として大成していく。
チーム毎に年間回ってくる打席数は、約5300ほど。
そのうちのとても貴重な打席を、チャンスを掴めない"持ってない"奴に、いつまでも与え続けるほど首脳陣は忍耐強くない。
たとえ11打席目にホームランが埋もれていたとしても、それが掘り出される事はないのだ。
「まぁ、あれだ。陽介が当たってないのは、運が悪かった。そう思った方がいいぞ」
これは国奏が強打者を相手取る時に常に心掛けている意識だ。
中継ぎをしていると、どうしても相手のクリーンナップに当てられやすくなる。対戦回数も増える。次第に球を見切られていくようになる。
そういう時に、数字にビビったら終わりなのだ。
どんな打者でも、6割は死ぬ。
だから、お前は運が悪かったんだ、と。
偉そうに語っておいて、結局の結論は江藤と変わりがない国奏であった。