16話 『不破仙太は投げ切れない』 Ⅴ
本日は、12時にも更新しています。
この話は2本目です。
「すみません。読み違えました」
痛恨のツーランホームランを食らった不破であったが、後続打者は危なげなく打ち取る事に成功した。
攻守交替し、ベンチに帰ってきた早々に杉宮が謝罪の言葉を述べた。
「あそこは変化球でいくべきでした。岩田さんは走る気がなかった。ランナーに気を使いすぎた俺のミスです」
「もう終わった事だよ。うじうじしていても仕方ない。この後打ち取ればいい」
杉宮は大きく息を吐き、目を閉じた。
そして再び開くと、そこには先ほどまでの弱気はなく、強い光が宿っていた。
「そうですね。俺のせいじゃありませんでした。あれは、あっちが上手かった」
――優秀だ、やっぱり。
不破は改めて感心する。
彼は、知っているのだ。
捕手は絶対に動揺してはいけないポジションだと。
打撃、守備、内野陣へのサイン出し、投手へのサインパターンの暗記、自軍の投手ごとにある好みの配球の把握、相手打者のデータを頭に叩き込む――同じ野球と言っても、捕手は他のポジションと比べると異常なほどやる事が多い守備位置である。
そんな多忙なキャッチャーで成績を残すには、切り替えが出来なければならない。他人から見れば開き直りとしか見えないようなメンタルコントロールが必要となる。
それを25歳で理解し、実践している。
「これからは、一点もやりません」
それからの不破のピッチングは、圧巻だった。
5回を3人できっちり打ち取り、6回も2人を危なげなく打ち取る。
そして6回裏ツーアウト。バッターは3番。
不破の球数は――ちょうど80球。
ここだ。
不破の身体にどうしても緊張が走る。
自分は、投げられるのか。
そこを超えていけるのか。
不安は緊張へと移り変わり、筋肉の硬直へと変換されていく。
「ふぅぅぅぅぅ……」
大きく息を吐いて、力を抜いた。
相手は強打者。
こんな気持ちでは、例え肩に痛みが出なくても打ち込まれる。
ランナーはいない。
大きく振りかぶって――投げた。
『ストラァァク!!』
球審の甲高いコールが響いた。
不破の投げた直球は、糸を引くように杉宮のミットに収まった。
「痛く……ない」
噛み締めるように、不破は呟いた。
2球目を投げた。
82球目。全力でストレートを放つ。
木製バットにボールが当たる鈍い音が響いた。
差し込まれたバッターの打球は、強い勢いで一塁線を切れていく。
「痛く、ない……!」
マウンドで呟くように噛み締められたその言葉は、不破以外に聞こえる事はない。
6回の裏、スコアボードには、0の数字が刻まれた。
80というラインを超えた不破は、7回もランナーを許さず抑えた。
そうして迎えた8回表。
オウルズの攻撃は、5番から始まる。
未だにスコアは2-0のまま。オウルズナインは、相手投手を打ち崩し切れていなかった。
ちょくちょくヒットは出るが、ホームベースを踏ませてくれない。
決定打に欠ける攻撃。
それが得点できない理由だった。
先頭の5番打者が、四球で出塁した。
続く6番が、右方向の進塁打。
ランナーはワンナウト2塁。
こうなると、チームの雰囲気が変わってくる。ここがラストチャンス。この後の回は相手の勝ちパターンが登板し、得点する事はさらに難しくなるだろう。
誰に言われずとも、皆今までの経験である程度の流れは分かる。
「よし……これで不破まで回ってきたら、そこで代打や。決めに行く」
「――!」
腕を組み、試合を見守っていた真野監督がそう言った。
それを横で聞いていた不破は、身体をこわばらせた。
「監督……! 僕は……」
「――文句があるんか? 不破」
「ッ!」
その鋭い眼光に睨まれると、その後の言葉が続かなかった。
分かっている。自分にだって。
これがセリーグの野球なのだ。
ピッチャーが打席に立たなければならない以上、どんなに調子がいい投手でも、替える判断をしなければならない時がある。
8回表、ワンナウト2塁で7番か8番が打てば、不破に打席が回ってくる。
スコアは2点ビハインド。こんなもの、悩むまでもない。
誰が監督をしたって、それこそ不破が監督だとしても、代打以外の選択肢などあり得ないだろう。
チームの勝ちを求めるのなら、当然の選択。
だが、不破にはそれでも納得できない理由があった。
2年、2年ぶりだ。
不破の身体に、試合を完投できるような状態が訪れたのは。
球場に歓声が上がった。
7番バッターが、華麗なセンター前ヒットを打ち、ランナーは1塁3塁へ。鈍足の5番では、ホームに帰り切れないと判断したランナーコーチが3塁で止めたようだ。
「打ったな。これでお前にほぼ確実に打席が回ってくる。済まんが、代打は出す」
真野は、ふぅと息を吐き、不破に語り掛けた。
「ワシも投手出身や。お前の気持ちは分かる。投げさせてもやりたい。けどな。これだけは監督として譲れない選択や。ここを曲げたらワシは監督として、球場に来てくれはったオウルズファンに顔向けできん」
「…………」
何も言えない。
真野監督は、至極当然なことを言っている。
我が儘は、自分の方だ。
だけど、だけど。
――まだ、投げたい。
「それ、スコアが逆転したら不破さんが降板する必要ないですよね?」
唐突に横から差し込まれた声に、反射的に声の聞こえた方を振り向いた。
「アホ! 杉宮、お前。次のバッターやろが! 何してんねんはよ行けや!」
捲し立てるように怒鳴る真野監督に、身体をすくめる杉宮。
でも、真野監督の言う通りだ。何でベンチにまだ杉宮がいる?
「バットにひびが入ってたんですよ。審判には言ってタイムとってます。そんで、替えのバット取りに来たら何やら聞こえてきたんで」
杉宮はそう言うと、真野監督に向き直った。
「不破さんの降板。ちょっとだけ判断を待ってくれませんか? 俺の打席で、逆転したら問題ないはずですよね?」
「「なっ!?」」
不破と真野監督の声が重なった。
杉宮が言った内容。
――自分の打席で逆転する。
今は2-0。ランナー1塁3塁。この状況から逆転するには、杉宮がホームランを打つしかない。
つまり、こいつは今ホームラン宣言をしたのだ。
「俺の打席結果を見てからでも、最終的な決定は下せるでしょう。俺がヒットか凡退なら、容赦なく替えていいですよ」
まるで自分の事のように語るその様子に、呆気にとられる。
「それじゃ、そういう事で」
バッターボックスに向かうその背中を、二人はポカンと見つめていた。
杉宮灯矢は、負けず嫌いである。
昔から、自分にできない事があると許せない性格だった。
だから、キャッチャーというポジションを選んだ。
きっかけは、少年野球での取り留めのない会話。
"キャッチャーが一番やる事多くて難しいんだぜ!"
当時の6年生捕手が言ったその言葉を聞くや否や、4年生ながら投手とショートを兼任していた杉宮は、監督に直談判して捕手にコンバートする。
コンバートを許さないのならクラブを辞めます、とまで言われては監督も頷かざるを得なかったようだ。
そうして始まった杉宮のキャッチャー人生は、周りから見れば順調そのものに見えただろう。
クラブで活躍し、シニアにスカウトされ、そのまま強豪野球部がある高校に入学し、甲子園に2度出場。ドラフト2位でオウルズに指名された。
しかし、いくら天才と称えられども、その裏には努力があるのは当然の事。
点を取られたらムカついた。
打ち取られたらムカついた。
味方のエラーにムカついた。
自分のエラーにムカついた。
そして、できない事があるという事実に、ムカついた。
だから、死ぬ気で練習し続けた。
そしてそれは杉宮にとって苦ではなかった。
そんな事より、この心から湧き上がるムカつきをそのままにしておく方がムカつくのだ。
不思議な事に、試合に負ける事自体はムカつかなかった。
何故かは分からない。ただムカつかないからそうだとしか言えない。
ただ、杉宮灯矢はそういう人間だった。そういう選手だった。
だから、プロに入ってもやる事は変わらなかった。
周りのレベルが上がっても、自分のできない事をできるように練習していくという行為には変わりがなかったからだ。
少し変わった事と言えば、自分より圧倒的に上だと言える選手を間近で見て、明確な目標が出来た事か。
25歳。今の杉宮の目標は、自分の成績の探求。
あの目標に定めた選手のキャリアハイを、絶対に上回ってやるという気持ちで毎日試合をこなしている。
正直に言うと、チームの順位には大して興味がなかった。
だが、自分に関係のあるところは別だ。
正捕手になってからは、チーム防御率には気を使ったし、後逸なんて以ての外だと身体中青あざだらけになりながら身体でボールを止めた。
その結果が、昨シーズンのゴールデングラブ賞。
しかし、こんなところで満足は出来ない。
今年はベストナイン、ひいては打撃タイトルの獲得も目指している。
杉宮は自身の状態がそこを目指せるレベルに仕上がっていると確信していた。
…………。
まぁ、長々と何を語ったのかというと。
4回裏に打たれたツーランホームラン。
アレがどうしようもなく、ムカついたのだ。
だから、自分でやり返してやろうと思った。
右打者用のバッターボックスに入り、オープンスタンス気味の打撃フォームを構える。
狙うは外角低め、それ以外は全て捨てる。
どうせ来るんだろう? 引っ掛けさせるボールが。
ランナー1塁3塁。ワンナウト。
自分ならこの場面で決め球には、外角低めの動く速球を要求する。
先ほど自分自身がそうリードしたように。
そうして投げられたボールは。
インコース、アウトコース、インハイ高めの顔面前。
分かりやすいくらいにテンプレ配球だ。教科書に乗せたいレベル。
でも、テンプレという事はそれだけ強力だという事。
体を仰け反らせたバッターは、例え来ると分かっていても外角の球に踏み込み切れない。
遠いのだ。感覚的にとても遠く感じる。
だが、ここで踏み込めないのは、自分的にとてもムカつく――。
予想通り、外角低めに来たボールを思いきり踏み込んで、フルスイング。
アッパー気味のフォロースルーで、弾けたかのように逆方向へ飛んだ打球は、弧を描き――ライトスタンドに叩き込まれた。
まるで凱旋式のように鳴り止まない歓声を受けながら、杉宮灯矢はゆっくりとダイヤモンドを一周した。
値千金の逆転スリーランホームランを放った杉宮は、ホームベースを踏んだ後、自軍ベンチに戻ってきた。
チームメイトからのハイタッチを終えた後、ドカッと不破の横に座る。
「杉宮くん……」
「ほら、早く打席行ってきてくださいよ。怒られますよ。監督、良いですよね?」
「……ワシからは何も言わん」
「良いらしいですよ」
杉宮は、タオルで顔の汗をぬぐうと、不破を見て言った。
「あとは、2イニング完璧に抑えるだけですね。それで、2失点の分は気が済みます。不破さんで抑えないと、やり返した事にならないんで」
「――あぁ。必ず抑えよう」
そう言い残し、不破仙太は打席へ向かう。
およそ数年ぶりに、8回の打席へ立ち入る為に。
「あっ、手が痺れるようなへんな打ち方はしないでくださいね。投球に影響するんで」
背後から掛けられた頼もしい後輩捕手の言葉は、やはり少しばかり敬意には欠けていたが。
マウンドの上は、やけに静かに感じた。
9回裏1点差、ツーアウトランナー2塁。どちらのチームの応援団も、声を振り絞っているというのに。
打席に入るラストバッターを見て、不破は思った。
――抑えられるな、と。
昔から、何故か9回のラストバッターと対峙した時に分かるのだ。
その打者が、今日最後の相手かどうかが。
ここ最近は、ついぞ感じていなかった感覚。
自分が最も良かった時の、昂揚感。
最初は硬かったのに、今は掘れて柔らかくなったマウンドは体重を乗せると微かに沈む感覚がある。
これを感じられるのは、自分一人で投げ切った事の証左。
この瞬間を、しっかりと噛み締めて。
不破仙太は、ラストバッターを三振に切って取った――
神宮球場は、ホワイトオウルズからすれば敵地である。
故に、ヒーローインタビューは一人しか呼ばれない。
完投した不破か、逆転弾を放った杉宮か。
メディアは、不破をヒーローに選んだ。
そこには、2年間完投してなかったドラマ性や、杉宮がヒーローインタビューを拒否した事も関係していたのだろう。
『不破選手、まずは勝利おめでとうございます!』
インタビュアーから、お立ち台に上がる勇士に向けて質問が投げ掛けられる。
曰く、現在のお気持ちは? 今日のポイントは? 杉宮選手の一発を見た時のお気持ちは? 何か言いたい事はありますか?
だから、不破はそれらに答える。
「まずは、今まで不甲斐ない自分を応援してくれたオウルズファンの皆さんに感謝を。今年のオウルズは、違います。必ず皆さんに満足いく結果を見せる事ができるよう、頑張ります」
敵地ながらも、不破のヒーローインタビューは大いに盛り上がった。
クールダウンを終え、ロッカールームの荷物をまとめていると、スマートフォンにメッセージが届いている事に気づいた。
表示されている名前は、『大野さん』。
これから不破がお世話になるにあたって、連絡先を交換していたのだ。
画面を操作し、アプリを開きメッセージを表示する。
『アホタレ。だが、ナイスピッチング』
「見ててくれたのか……」
思わず笑みが零れた。
「あっ、いたいた。不破さん! これから飲み行きましょうよ、完投祝いに!」
廊下からロッカールームに顔を出した後輩選手が、不破を夜の街に誘った。
「ありがたいけど、止めておくよ。ほら、僕もうおじさんだからさ――12時間は寝ないといけないんだ」
こうして、不破仙太はこの日。
およそ2年ぶりに9回を投げ切り、完投勝利投手となった。
これで不破さん編は終わり。
過登板で成績を落とした選手が、数年越しに復活するのが好きです。