15話 『不破仙太は投げ切れない』 Ⅳ
本日は、18時にも更新します
野球における球場の規格というのは、実は結構曖昧である。
それほど、厳密に決まっている訳ではないのだ。
形も違えば、広さも違う。
フェンスの高さ。外野の芝の違い。内野が土のグラウンドか、それとも人工芝のグラウンドか。
細かい点を言うと、ファールゾーンの広さやホームベースから後ろのスペースの広さも違う。
屋外球場なら、立地によって風の有無も大きく影響する。
故に、球場にはそれ自体に特徴が生まれる。
打者に有利な球場であったり、投手に有利な球場であったりだ。
そして、その点で言えば――
今現在、不破仙太が立っているこのマウンド、神宮球場。
ここは間違いなく打者有利。セリーグ随一のヒッターズパークである。
『ストライッ、アウッ!』
不破の40球目が投じられ、本日9個目のアウトを三振で記録する。
「ふぅ……」
攻守交代の為にマウンドを降りると、球を捕っていた杉宮が傍に駆け寄ってくる。
「今日、いい感じですね。直球が走ってます。このままフォーシーム中心で押していきましょう」
「そうだね。自分でも、今日は直球が上手く指にかかってる感じがする」
「次の回は、2番から始まります。2番と4番はツーシームに合ってません。この二人は速球中心で打ち取りましょう。3番の岩田さんは不気味ですね。一打席目フォアボールで、ボールを見切られてる感じがする。塁には出したくありませんが、一発喰らうよりはマシです。2打席目も四球覚悟で慎重に攻めましょうか」
ベンチ内に帰っても、次の回に回ってくる打者の対策を練らなければならない。
今までのデータも併せて、今日の調子、球種への反応も加味しながら、バッテリーは戦略を立てていく。
ただ投げるだけの投手はまだしも、捕手は打撃の事も、守備の連係の事も考えながらこれをしなければならない。
"打てる捕手はそれだけで価値がある"
球界においてはよく言われる言葉だが、これにはキャッチャーというポジションがどれだけ過酷なのかが表現されている。
その点で言えば、今年25になるこの若梟は、とても優秀な選手であると言えるだろう。
「とりあえず、コースだけは間違えないように気を付けましょう。神宮だと、パワーのある打者に打ち上げられたら本塁打になる可能性があります。今まで通り、低めの意識で」
不破は杉宮の言葉に頷く。
大野に身体を診てもらい、国奏の調整法を取り入れた影響か、最近は立ち上がりから安定して投げられる。
しかし、問題はそこではない。
不破を苦しめ続けてきた80球のライン、そこを超えた時にどうなるか。
今の投球数なら、大体6回辺りにこのラインを超える。
オウルズの攻撃回は、打者3人で終了した。
0-0。
相手の先発もまた調子が良い。
これはロースコアゲームになりそうだ。
4回裏、不破は先頭打者の二番バッターをセカンドゴロに打ち取ったが、その後の3番岩田に四球を出し、ランナー1塁の状況で、4番打者を迎えていた。
一塁ベース上でマウンドを睨む男――岩田明人はリーグを代表する強打の二塁手であると同時に、高い盗塁技術を併せ持ったオールラウンドプレイヤーである。
一度塁に出してしまえば、盗塁の危険性がある。
不破は杉宮のサインに合わせて、一塁へ牽制を挟む。
一度、二度。
再三に渡り、一塁へ牽制する。
大人しくしていろ、と強く目で塁上の走者を睨む。
盗塁阻止は、キャッチャーの肩による影響が大きいと思われがちだが、その実態は投手のマウンドパフォーマンスと捕手のインサイドワークの融合技術である。
現在のクイックモーション、通常のフォームより素早く投球する技術。
盗塁の阻止を目的として発展したこの技術が生まれて四十年。
その歴史の中で、バッテリーと走者は常にお互いの技術を高め続け、研鑽してきた。
不破のクイックタイムは約1.10秒。投手のクイックタイムは1.25秒を切れば速いと言われるレベルの中での不破のこのタイムは、今まで積み上げてきた彼の投球技術の賜物と言えよう。
対して、キャッチャーには"ポップタイム"という言葉がある。
これは二塁送球タイム、つまり捕手が捕球してから二塁ベースにいる野手に送球が到達するまでの時間の事である。
杉宮のポップタイムは1.90秒。
NPB捕手の平均ポップタイムは約1.95秒であるから、彼の肩は球界でも強肩と言えるだろう。
杉宮は若くして優秀な捕手である。
平均以上の打力に加え、高い盗塁阻止率も併せ持つ天才。
事実、彼は昨シーズンの盗塁阻止率0.378を叩き出し、高い守備力を持つ選手に与えられるゴールデングラブ賞を受賞している。
そんな彼が、高いクイック技術を持つ不破と組むとどうなるか?
クイックタイム1.10秒+ポップタイム1.90秒=3.00秒。
理論上は、このバッテリーから塁を盗むには走者は塁間27.431mをたった3秒で走り抜けなければならない。
無論、そこには球種や走者のリード距離、送球を受ける側のタッチ技術なども絡むので、この限りではないが、不破-杉宮のバッテリーは、間違いなく球界でも屈指の盗塁阻止力を持った組み合わせである。
その事実を示すかのように、昨シーズン不破と組んだ場合の杉宮の盗塁阻止率は、驚異の0.800。
まず、盗塁を企図された数自体がシーズンを通して5回と、ローテ投手にしては異常なほど少ない。
この二人から塁を奪うという行為が、どれほど難しいか各球団は理解しているからこその数字である。
(次のサインは……ウエストか)
打者とのカウントは、1ストライク1ボール。
ここでストライクゾーンから一球外すウエストのサインを出すという事は、杉宮はここで走ってくると予想しているという事だ。
つまりは、読み合い。
盗塁というのは、言うなればバッテリーと塁上の走者による刹那の殺し合い。
刺せば、殺せる。
1試合に許されたアウトカウント27個のうち、1つを無理やり持ってこれる。
しかし、盗塁を許してしまうと一転してこちらが追い込まれるのだ。
得点圏にランナーを進められてしまうと、今度はワンヒット。場合によれば進塁打のみでホームに突っ込まれる。
守備側としては、これほどやりづらい事もない。
指示通りに、一球外して投げる。
一塁ランナーの岩田には……動きがない。
(外れ、か……)
ツーボールワンストライク。
打者有利のカウントになってしまった。
杉宮からの次のサインは、牽制。
相当な用心深さだ。それだけ岩田を警戒しているという事だろう。
いや、今対決している4番打者が外国人助っ人という事も関係しているのかもしれない。
MLB、アメリカの野球では、これほど執拗な牽制というのはあまり見ない。
無い訳ではないが、一種の不文律として投手は打者との対決に集中するべき、というものもある。
それに昨今の観戦スポーツとしての一面。つまりは、試合時間。
牽制の多投は、試合の時間をむやみに伸ばす行為という事もあり、ルールとしての規制まで検討の場に持ち込まれる事がある。
こういう面もあり、外国人助っ人打者は、牽制を多用する投手と対決すると、集中を欠きバッティングが荒々しくなる傾向がある。
兎に角、杉宮は牽制のサインを出した。
不破はそれに従うだけだ。
それなりに長くボールを持った後、一塁方向へターンし、牽制球を投げる。
今回も、ランナーの飛び出しはなかった。
(これはもう走る気がないのかもしれないな。だが……)
油断はできない。
いや、してはいけない。
グラウンドの上では、誰もが"次"を狙っている。
次のチャンス、次の塁、次の活躍機会……。
隙を見せれば、そこから噛み殺される。
それがプロ野球なのだ。
杉宮のハンドサインは、外角のツーシーム。
流石にいつまでも牽制ばかりはしていられない。
そういう判断だろう。
打ち気になっている打者を引っ掛けさせて、ゲッツーを狙う。
杉宮の出したサインを見て、遊撃手、二塁手が気持ち右寄りになる。
併殺を取りやすくする為の軽い守備シフトである。
不破は、構えられたミットへツーシームを投げた。
――ところで、盗塁ができるランナーを一塁に置いた場合の、攻撃側の利点を知っているだろうか?
まず第一に、盗塁による得点圏の創出が挙がるだろう。
もう一つは、牽制、クイックなど、マウンド上で行う動作の増えた投手の制球悪化なども利点だと言える。
そして最後に、打者への配球が読み易くなる。
一塁ランナーの盗塁を警戒する場合は、どうしても速球系のボールを中心に組み立てざるを得ない。曲がりの大きいカーブなどの変化球では、投手が投げてからキャッチャーまで到達する時間が長くなるからだ。
つまり、打者は速球を"待てる"。
ツーシームは正式名称をツーシーム・ファストボール。速球系の変化球である。
不破が投げた外角のツーシームを、相手打者が思い切りフルスイングした。
打球はふらっと高く舞い上がり、風に押され、長い長い滞空時間を経た後に――スタンドに入った。
ツーランホームラン。
神宮球場に、地鳴りのような歓声が溢れ、それがマウンドに立つ不破の身体を揺らした。
ほかの球場なら、ただのライトフライだったかもしれない。
だが、そんな"たられば"は、この世界では通用しない。
スコアは2-0。
4回にして、試合が動いた。