14話 『不破仙太は投げ切れない』 Ⅲ
流れゆく広々とした空は青く透き渡り、そこで一羽の山鳥が鳴いた。
不破にはその鳥の種類は分からなかったが、少なくとも都心部で見かけるようなものではない事はなんとなく理解できた。
窓から吹き抜ける心地よい春風に身を委ねながら、不破は運転席に座る国奏に話しかけた。
「で、何でこんなところに?」
次の登板予定に合わせ、東京に移動した不破であったが、着くや否や国奏から連絡が入り、こうして何処かに連れていかれようとしている。
窓の外の景色も、徐々にコンクリートジャングルから自然が混ざったものへ変わっていき、今や田舎としか表現できない風景に。
こうなると国奏の事を信頼しているとはいえ、流石に少しは不安になってくる。
「言ったじゃないですか。紹介したい人がいるって」
「……ごめん、今まで聞いちゃいけない流れだったから聞かなかったけど、いったい誰なんだい? その紹介したい人って」
不破が疑問をぶつけると、国奏は小さく笑いながら返してきた。
「なんすかそれ。別に変な人じゃないですよ。腕の良い整体師……とでも言ったらいいのかな。特に野球選手の身体に詳しい人がいるんですよ。ご家族の関係で山奥の方に店を構えているから、こっちから出向くしかなくて」
ならばどうして、最初に言ってくれないのか。
変に緊張しちゃったじゃないか。
その様な旨の事を国奏に言うと。
「え? だって不破さんが聞いてこないから……言っちゃいけないみたいな流れなのかと思って」
冗談なのか真剣なのかよくわからない答えを返された。
もしかして、国奏くんは意外と天然なのだろうか?
「着きましたよ」
1時間程車に揺られて辿り着いた場所は、なんというか普通の整体院という感じの建物だった。
決して都会に構えている店舗ほど綺麗なわけではないが、かといって一見すると店だと理解できないほどのぼろではない。
むしろ経年劣化して擦れた看板などはある意味趣があって、これぞ知る人ぞ知る整体院という感じで不破には好ましく映った。
国奏に連れられ、建物に入る。
玄関には、誰もいない。
待機用の椅子や、張り出されている体のツボを記したポスターを見ると、確かに整体院として経営しているようだ。
「大野さーん! 来ましたよー!」
国奏が大きな声で奥に呼びかけると、奥から一人の男が姿を見せた。
顔に刻まれた皺や少し白みがかった頭髪を見るに、おそらく四十代後半から五十前半の年頃と言ったところ。
特徴と言えば、年齢の割にはがっしりとした体格をしている事ぐらいか。
「おぉ、淳也。そいつか? 診てほしい奴ってのは」
「はい。今のチームメイトの不破さんです」
男が横目で不破を見る。
「はじめまして。不破仙太と申します」
不破が挨拶をすると、大野と呼ばれた男は不破の様子を見ながら数度頷くと口を開いた。
「なるほど、なぁ。まぁとりあえず施術台に来いよ。出来る限りのことはしてやる」
そう言うと、さっさと男は奥に戻ってしまった。
「え?」
何か、問診票などを書かなくてもいいのだろうか?
そう戸惑っている不破に、国奏が言葉を掛けた。
「大方の事情は、俺が説明してますよ。大野さんの腕は保証するので、安心してください。終わるまでここで待ってます」
「ふ~む。やっぱりなぁ……」
施術台に上半身を出してうつ伏せに寝転がった不破の身体を、大野が触診する。
「あんた、肘の方は再生療法か?」
「はい。PRPで注射を打ってもらいました。状態としては、トミージョン手術する程でもないとの事でしたので」
PRP療法、トミージョン手術。どちらも損傷した肘を回復させる為の治療法である。
PRPでは、自身の血液から血小板を抽出し、それを患部に注入する。回復力を高める事で損傷した組織を修復する事が狙いの再生保存療法。それが多血小板血漿、PRP療法である。
一方トミージョン手術は、損傷した靭帯を健康な部位と交換し、回復させる手術術式の事だ。
こちらは術後に移植した腱の癒着やリハビリなどに時間がかかり、完全に復活するのに数シーズンを費やす事も多い。
不破はFA年であった事や、自身の肘の状態からPRP療法を選択していた。
大野は、ふむ、とだけ頷いて再び不破の身体を確認していく。
腰、肩、肘。
押したり揉んだりである。
この間に流れる無言の時間が、どうにも居心地が悪かったので、不破は何となく思いついた話題を大野に振った。
「国奏くんは、よくここに来るんですか?」
「1か月に一回は来てるな。まぁ所謂お得意様というやつさ。つってもウチは近所の奴と知り合いの紹介以外は取らないようにしてるが」
「へぇ……」
どうして、とは聞けなかった。
国奏は家族の問題で、と言っていた。
ならば、踏み込んだ質問は避けるべきだろう。
代わりに浮かんだ質問で会話をつなぐ。
「じゃあ国奏くんも誰かに紹介されてここに来たんですか?」
「あぁ、あいつは久保井からのルートだな」
何と。あの鉄腕から。
これには少々驚いた。
思った以上に歴史のある、ちゃんとした整体院なのかもしれない。
「よし。あらかた診終わった。もう起こしていいぞ」
言われて上半身を起こし、台の上に腰かける。
「さて、まずあんたの身体の状態だが……率直に言うと、成績低下の原因は肩じゃないな」
「……は? いえ、でも」
「まぁ聞け。俺は淳也からあんたの事を頼まれた後、まず今の投球と昔の投球を見させてもらった。80球以上で肩に痛みが出る、それで合ってるな?」
不破は頷いた。
そうだ。80球を超えると肩に痛みが出る。
ならば原因は肩にあるのではないのか。
「あんたの身体の中で、致命的にずれている部分。それは腰だ」
「腰?」
「初めは間違いなく肩と肘の過労による炎症だったんだろう。だが、怪我の影響でそこを庇いすぎるあまり、今度は腰にずれが生じた。痛みはなく、あるのは漠然とした違和感だけ。質の悪い毒みたいな症状だが、こいつは間違いなく選手の体を蝕む」
大野はふぅと息を吐くと、言葉を続けた。
「あんた、3600球投げた年のシーズンオフに投げ込んで調整したな?」
図星だった。
思い返してみると、確かにあの頃は腰にも痛みがあった。
ただ、当時は全身に倦怠感があったし、肩と肘の痛みが大半で腰の方には意識が回らなかった。
翌年から痛みらしい痛みは消えた事も、不破から腰への意識を取り払った原因だろう。
「80球で肩に痛みが出るのは、投球中に無意識に腰を庇うように投げているからだ。投手には腕から始動するタイプと足から始動するタイプがいるが、あんたは昔の映像では足からのタイプにも関わらず、今は腕からフォームが始まっている。腰から上を意識しすぎてるからだ。ほんの少しの違い、ズレだが、それが積み重なって80球。元々のフォームにねじ込まれた腰を庇う動きによって生まれたしわ寄せが、肩に出始める。ブルペンで80球連続で投げるなんてそうそうないだろう。コーチ達が気付かなかったのはそのせいだな。80球までなら、今でもそこそこのボールが投げられているんだからな」
そんな。
だとすると。
「それじゃ、僕の肩には何も問題はないってことですか?」
「あんた、社会人からプロ入りしたんだってな。投手始めたの遅かっただろ? 少なくとも大学か、それ以降だ」
不破は驚愕した。
何故それを知っているのだろうか。
「僕の経歴を調べたんですか?」
「いんや? 見りゃその肩がどれくらい消耗してるかなんてすぐわかるよ。今まで何人の球児の肩を見てきたか」
大野は腕を組み、微笑んだ。
「良かったな。あんたはその中でも恵まれた良い肩してるよ。学生時代の酷使による使い減りも少ない。学生野球で投げてたやつは、どうしても肩肘に影響が出るからな」
「じゃあ、僕はもう一度……9回を投げ切れるようになるんですか?」
縋るような問い。
今までは、もう無理だと半ば諦めながら。
過去の栄光だと今の自分を無理やり納得させて飲み込み続けてきた希望。
それが、零れ落ちるかのように口から漏れる。
「投げられる。いや、投げられるようにする。俺が保証しよう」
「――――ありがとう、ございます」
込み上げるように、感謝の言葉が出た。
目の前の彼に言ったのか。それとも他の何かに言ったのかは自分では分からなかった。
もしかすると、その両方なのかもしれない。
大野は、空気を切り替えるかのようにパンッ、と手のひらを叩いた。
「さて、まずは最初の施術だな。次の登板はいつだ?」
「3日後、ですね。国奏くんに言われて、早めにこちらに来たので」
「なら、そこまでにある程度は仕上げてやる。その後は定期的に。出来る限りウチに来い。今まで嘘ついて誤魔化してきた身体だ。一回の施術じゃ完全にバランスを元に戻すのは無理だからな」
不破は頷くと、大野に促されるままに、もう一度施術台に寝そべった。
「それにしても、大野さんって元々野球をされていたんですか? 随分と知識が深そうだったので……」
「ん? あぁ、まぁちょっとな。大野琳……つっても分かんねぇか。只の野球好きのおっさんだと思ってくれたらいい」
施術を終えた不破が待合室に戻ると、待機用の椅子に寝そべって寝息を立てている国奏が目に入った。
器用に体を伸ばして眠っているその様子に、思わず笑ってしまう。
「国奏くん。終わったよ」
「……んぉ? ……あぁ、不破さん。すみ、ません。少し眠っちゃって。それで、どうでした?」
「何とかなるそうだ。これからは何度か通わなきゃいけないみたいだけど」
「本当ですか!」
喜んだ様子の彼を見ていると、ずっと思っていた疑問が口をついた。
「国奏くんは、どうして僕にそんなにしてくれるんだ? 言っては何だけど、その、特に親交があった訳でもない。挨拶をしたのも君がオウルズに来てからだ。なのに何故?」
問いを受けた国奏は、とても不思議そうな表情で不破を見返した。
「そんなの、不破さんが復活したらオウルズの戦力になるからに決まってるじゃないですか」
「え?」
「言ったじゃないですか。このチームを日本一にする為に来ましたって」
それは、彼がキャンプ初めのミーティングで言った言葉だった。
挨拶の中の、一種の冗談だと思っていた。
だけど、今不破を見ている彼の目は至って真面目で、本当にそう思って行動しているのだと分かった。
「は、はは」
成程、すっきりした。
変に人情を語られるより、よっぽど理解しやすい。
単純明快な理由だ。
「――分かったよ。僕も、オウルズの優勝のために全力を尽くすと、ここに改めて誓い直そう」