12話 『不破仙太は投げ切れない』 Ⅰ
開幕戦。東京ラビッツとの初戦を取ったホワイトオウルズは、そのまま勢いに乗り、三連戦を全勝――する事もなく、普通にその後2連敗した。
考えてみれば、当たり前。
前年最下位のチームが日本一を取ったチームより強い道理などない。
エース庭田の力投と、その後完璧に抑えた国奏。
これで完全に試合の流れを引き寄せ、元々レベルが高いオウルズの勝ちパターン継投は8回9回を完全にシャットアウト。
一試合目はオウルズの完勝であった。
しかし、2試合目。
長年ローテを守る外国人助っ人のメルティが7回を投げ失点3の上々の出来。
だけども打線が打てず、オウルズの得点は1のみ。そのままスコアも動かず普通に負けた。
3試合目の先発は、ベテランの不破。
この試合は打線も繋がり、初回から3得点の順調な滑り出し。
しかし、先発不破がラビッツ打線に早々に掴まり、撃沈。
4回6失点で降板し、後続を任された敗戦処理投手も、その後ちょくちょく打ち込まれ。
気付けば5-10の5点差負け。
オウルズはラビッツとの開幕同一カード3連戦を、1勝2敗で終える事になった。
ちなみに国奏はというと、点差がついていると投げなくても良い、敗戦処理の投手がウルフェンズの勝ちパ並みに投げている球が良い、というオウルズのホワイトブルペン環境にちょっと感動していた。
早朝の時間帯。
4月の一週目を少し越えた時期。既に春に入っているとはいえ、朝はまだ肌寒い。
甲子園球場の周辺も、この時間帯は人の気配が少なく、一層寒さを感じさせた。
そんな朝早くの甲子園に、一人の男がやってくる。
高品質なスポーツウェアに運動用の上着を着た男。
彼の名前は不破仙太。
ホワイトオウルズ所属。今季34歳のベテランピッチャーである。
シーズン中、自分の登板日の前日には、必ずこの時間に体を動かす。
誰もいない練習場で、静かに集中して体を温める。
服も、自宅を出る時からスポーツ用のものを着る。
それが不破の調整スタイル、ルーティーンであった。
明日の本拠地戦、先発予定の不破はいつもの通り朝早く起き、家を出て車を走らせた。
選手専用の駐車場に車を停めた不破の視界に、違和感が写り込む。
不破の愛車の他に、もう一台。見覚えのない車が駐車されていた。
「……?」
誰だろうか。
ここ数年オウルズでこのルーティンをしてきたが、不破より早く球場に来ている選手はいなかった。
僅かの疑問を抱えながら、球場横の室内練習場に入る。
と、そこで真っ先に目に入ってきたのは、誰かが練習場でランニングをしている姿。
(僕より早く来てる選手がいるなんて……、誰だ?)
少しばかり注視して顔を見ると、走っていた男は今シーズンからオウルズへFA移籍してきた国奏淳也であった。
練習場には彼一人。
他に選手の姿はない。
「やぁ、国奏くん。随分と早いじゃないか」
荷物が入ったバッグを練習場の脇に置き、国奏に声を掛けた。
走っていた彼が立ち止まり、不破の方を振り向く。
「不破さん! おはようございます」
不破の姿を確認すると、畏まって挨拶をする国奏。
「や、そんなちゃんとしなくてもいいよ。それより、僕も一緒に動いていいかい?」
「もちろんですよ。ぜひご一緒させてください」
そうして、国奏のランニングに加わる。
暫しの間、室内練習場では二人の呼吸の音だけが響いていた。
「国奏くんは、どうしてこんな早い時間に?」
10分ほど軽く走った二人は、今は横に並んでストレッチをしている。
「習慣ですよ。俺はシーズン中は毎日朝にこのメニューをこなすようにしています」
その答えに、不破は驚いた。
室内時計を見ると、今の時間は8時前。不破が球場に到着したのは7時半頃だ。
つまり、それより早く来て練習していた国奏は、少なくともそれ以前にはここに来ていた事になる。
先発である不破は、登板予定に従って各球場へ移動する。
だから、遠征先であっても時間の調整をしやすいし、登板前日だけのこのルーティーンもこなす事ができる。
だが、国奏は中継ぎだ。
中継ぎ投手は先発とは事情が違う。
毎試合に登板する可能性があるリリーフは、野手と同じように遠征先へ移動し、毎日ベンチ入りをしなければならない。
ナイトゲームである場合は、基本18:00にゲームは開始する。
試合というのは、早くても3時間程度は掛かる。
試合後は怪我防止のための体のケア。メディアからのインタビュー。それに選手同士の付き合いで飲みに行くこともある。
自宅もしくはホテルに帰った時には、大抵時計のてっぺんを大きく回っているのだ。
そんな中で、毎日国奏はこのメニューをこなしているという。
正直、信じられなかった。
だが、同時に納得もする。
開幕戦、ラビッツとの試合で衝撃的なデビューを果たした国奏は、今までの登板で一人もランナーを許していない。勿論、防御率は0のまま。
無論、シーズンが始まったばかりの今の時期は、似たような数字を残している選手も多いが、彼の投球内容は傍目から見ても、別格だった。
レベルが高いと言われるオウルズ中継ぎ陣の中でも、ひと際その存在は目立ち、早くも7回の男として定着しつつある。
この投球内容を続ければ、いずれはより重要な8回を任されるようにもなるかもしれない。
昨シーズン101登板を達成した男とは思えない彼の状態の良さ。それはこのストイックさと、才能ともいえる頑強な肉体が関係しているのだろう。
(正直に言うと、羨ましい。それは僕にはなかったものだから……)
「国奏くんは、凄いな。僕にはない才能を持っている」
不破の顔が曇る。
それに対し、国奏は不思議そうな顔をした。
「不破さん? どうかしたんですか?」
「……僕の一人語りを聞いてくれるかい?」
それは普段なら言わなかった言葉だ。
だが、目の前で国奏という異次元の存在を見て、不破の心には影が差した。
後輩に対して、弱音を吐く。そんな恥すら塗りつぶす、影だ。
「僕は、君と同じでFAでこのチームに来たんだ」
「それは、存じていますけど……」
国奏の言葉が尻切れ気味になる。
不破の雰囲気、語りからこれから話す内容を察したのだろう。
「あぁ、期待されて大型契約を結んだ僕は……活躍できなかった。期待に応えられなかった」
不破仙太は、元々他球団でローテを張っていた先発投手である。
持ち味は、投球回。
イニングイーターとして、それなりの防御率を残しながらローテを守る安定した選手だった。
そんな彼は、31の年にFA権を獲得する事になる。
そのシーズンの彼の成績は、登板28 15勝 7敗 投球回200.2回 防御率2.43。
完投9回、完封6回。最多投球回に、最多勝。今までで最高の成績だった。
キャリアハイの成績を残しFA宣言をした彼に、他球団は殺到し、5球団による競合の末、推定5年20億の大型契約でホワイトオウルズに入団した。
「国奏くんは、3000球ラインって知ってるかい?」
「確か……先発投手が1シーズンに投げる球数の、一つの基準でしたか?」
「そうだよ。曰く、ここ10年で3000球を超える球数を投げた先発投手は、翌シーズンのパフォーマンスを落とす事や、選手として致命的な怪我をする事が多い、という統計から言われ始めた考え方だ」
3000球ライン――3000球問題とも言われる。
先発、特にフォークやスプリットなど、負担の大きい球種を駆使する投手は、このシーズン3000球というラインを超えると、数年後に不振に苦しむ事が多い。
NPB特有の登板間隔や、一試合に投げる平均球数により、この3000球というのが投手が壊れるバロメーターとして昨今有力な説を帯びてきたのだ。
不破は、FA獲得年から数えて4年、毎シーズン3000球を投げていた。
「最多勝を取った年は、本当に気合を入れていたんだ。FA権を獲得する年に活躍するかどうかは、生涯年俸に大きく関わる。だから、無理をしてでも登板したし、それで結果も残した。でも……」
不破の目線が、自身の右手に落ちる。
「そのシーズンの僕の球数は、3654球。大きくラインをオーバーしていた。だけど、多少体が痛いからって登板を回避するような投手にはなりたくなかったんだ」
右手を見るその目には、どんな思いが秘められているのか。
「案の定、翌年からパフォーマンスを落とした僕は、オウルズでは成績を残せなかった。崩れた体のバランスを必死に戻そうとしたけど、昔のように球を投げられないんだ。簡単に体がへばって、球速も落ちてしまう。今は昔の貯金でだましだまし投球しているだけさ」
不破はふぅと息を吐き、その場に立ち上がった。
「ごめんよ、こんな話を聞かせて。ただ、国奏くんのその恵まれた肩肘が羨ましくてね。もし買えるなら、借金してでも買いたいぐらいだよ」
ははは、と冗談を交えながらそう言った。
自分の愚痴を聞いてもらった後輩に対する、謝罪のようなものだった。
目の前の彼は、まだ未来があるのだ。こんな老兵の言葉を気にしてほしくない。
「不破さん、本当にそれでいいんですか?」
「え?」
だから、彼が真剣な目で返してきた時、少し驚いた。
「もうあきらめたんですか? もう一度、昔のピッチングを取り戻したくないんですか?」
何を言っているのだろうか。
不破にはてんで理解がつかない。
まるで壊れた不破の身体が、元に戻るかのような物言い。
野球をやっているなら分かる筈だ。そんな都合のいい事は、そうそう起こり得ない事を。
けれど、対する国奏の目は真剣で、彼は冗談を言っているのではないと分かった。
だから。
「――あぁ。欲しい。取り戻したい。壊れない肩を。その為なら、何十億だって借金してもいい。全部、返せる自信がある」
本気で向かい合った。
彼に、嘘をついてはいけないと思った。
すると、彼はにこりと笑ってこう言った。
「不破さん。付いてきてください。すべて野球に捧げる覚悟があるのなら――何とかなるかもしれません」
PAP(Pitcher Abuse Point)、日本語で投手酷使指数と呼ばれる指標があります。
こちらは3000球ラインより詳細に先発投手の消耗度を測ることが出来ます。
興味があれば、ここ数年のPAPを調べてみるのも面白いでしょう。