10話 『そして、幕が上がった』 Ⅰ
開幕試合。
日本プロ野球において、公的に記録の残るペナントレース。その始まりを意味する一回目の試合である。
言ってしまえば、シーズンに何度も行う試合の一つに過ぎない。
しかし、この一試合には大きな意味がある。
まず第一に、この試合での勝敗は、数字以上に重い。
最初に勝つかどうかは、見ている方にしても、やっている方にしても気分の入り方が違う。
一発目で上手く勝利をかませれば、「おっ、今年は何か違うな」と思わせられるだろう。
逆に負けてしまえば、「今年もいつもと同じだな」と言う雰囲気が否応なしに流れてしまう。
シーズンは長い。
別に負けたところで、その1敗程度ならいくらでも取り戻せるだろう。
しかし、滑るのと滑らないのとでは、間違いなく後者の方が良いに決まっている。
そして二つ目の理由。
それは、開幕で投げる先発投手はチームのエースである、という事だ。
その球団において、最も信頼できる投手。
開幕戦、真の意味で汚れていないマウンドに立つ名誉を受けられるのは、チームの柱であり顔と言ってもいいエースだけなのだ。
そんな12球団のエースたちが、一斉に投げ合うのが開幕戦である。
エース同士の投げ合い、というのはペナントが進めば進むほど難しくなる傾向がある。
どうやって勝ち数を稼ぐかが重要なペナントレースでは、相手エースには他のローテを当てて自軍のエース投入を回避する事も多い。
確実にエース同士の投げ合いが見られる開幕戦は、そういう意味でも注目されるのだ。
「あっ、国奏さん。そろそろ入りっすか?」
5回表、ブルペンに下りてきた国奏に、先に肩を作っていた後輩投手が声を掛けてきた。
「あぁ、試合展開的に出番があるだろうからな」
「まぁこの流れなら国奏さんが投げる可能性が一番高いっすよね」
後輩ピッチャーはそう言いながらモニターに映し出された試合中の映像を見る。
それに釣られて、国奏の目線もそこに吸い寄せられた。
スコアは0-0。
両軍のエースが力投を繰り広げている証だ。
モニターに映し出されたシーンは、ちょうどラビッツの打者が5つ目の三振を献上したところだった。
開幕戦。
阪京ホワイトオウルズの相手は、国奏にとってある意味因縁深い東京ラビッツであった。
昨年セ・リーグ一位。日本シリーズ制覇の古豪。
そんなチームが開幕を任せた投手は、最優秀防御率と最多勝を獲得したスーパーエース。
セ・リーグ内でも貧打なオウルズでは、ここまで点が入らなくても当然か。
しかし、エースが投げているのはこちらも同じ事。
「庭田さんもすげぇっすね。今日めっちゃ球走ってますし」
庭田壮一。
昨シーズンオウルズで唯一二桁勝利を記録した先発ピッチャーにして、今シーズンのオウルズ開幕投手である。
昨シーズンの成績は、投球回175回。登板26試合。防御率は3.02。
先発投手の評価指標の一つ、QS。
6イニング以上を投げ、自責点3点以内に抑えた時に記録されるこの記録は、その選手がどれだけ先発として試合を作ってきたかを示すものである。
庭田のQSの比率は、26試合登板のうち18試合。QS率は約69%
先発投手としては、立派な成績であると言えよう。
その庭田は、本日絶好調であった。
相手の強力打線を丁寧に打ち取り、アウトを重ねる。ランナーを出しても、上手く打たせて併殺をとる。
まさに安定感の化身。
危なげなく庭田は3アウトを稼ぎ、5回表を締めた。
「このまま投手戦が続くと、中継ぎは困るんだよな。真野監督はこういう時、躊躇なく変えるタイプか?」
「ん~、どっちかっていうと投手のメンツを保つタイプですねぇ。勝ち投手の権利得るまでは、限界まで粘るんじゃないですか」
「まぁ、そうだよな」
誰だって、先発には勝ちを付けてやりたい。
力投しているエースならば尚更であろう。
しかし、そうなると試合を引き継ぐ中継ぎは結構困る。
スコアが動いているなら監督が呼ぶであろうタイミングもある程度分かるのだが、0-0のままだとどこまで先発を引っ張るのかが予測しにくい。
中継ぎ投手は案外繊細な生き物で、マウンドに踏み入る心を作る為に、様々な儀式を行う選手もいる。肩を作っているからと言って、いきなり行けと言われてベストパフォーマンスを出せる選手はそうはいないのだ。
まぁ監督からの命令に「行けません」なんて答えたら、次の日から干されるのが中継ぎ界隈。行って抑えるしかないのがリリーフの宿命なのだが。
こんな事情もあり、ある程度の成績を残すリリーフというのは総じて試合の展開には目を光らせ、常にゲームがどう動くか予想している。それは国奏も例外ではない。
「1点でも点を取ってくれれば……」
分かりやすいのに。と言おうとした国奏の言葉は、ブルペンの中にまで聞こえる大歓声と、モニターに映ったオウルズの選手による特大のソロホームランで遮られた。
「うっわ、えっぐぅ飛んだなぁ~。入りましたね、点」
「あぁ、これは――俺の出番だな」
5回裏、1-0。
今日の庭田の調子なら、6回もまず抑えると思っていいだろう。
となれば、自分の出番は7回表。順当にいけば、相手のクリーンナップ、2番の左バッターで交代だろう。
そう国奏は予想を立てた。
その推測は外れることなく、6回の守備が終わった時点でブルペンコーチから登板の合図が出る。
そうして、7回表のマウンドに背番号20、国奏淳也の名前が呼ばれる事になった。
「よっ、ナイスホームラン」
リリーフカーに連れられ、マウンドに降り立った国奏は、先ほど試合を動かす一発を放った勇士、オウルズ正捕手の杉宮に対してそう言った。
「ありがとうございます。それで、リードの事なんですが。サインは頭に入ってますよね? 全部俺が主導で出すという事でいいですか? 気に食わなければ首を振ってください」
「それでいいぞ」
「じゃ、よろしくお願いしますね」
それだけ言うと杉宮はさっさと元の守備位置に帰っていった。
「若いのに冷めてんね……まぁ知ってたけど」
杉宮灯矢。25歳。ポジション:キャッチャー。
若くして正捕手の座を掴んだ逸材であり、同時にオウルズ野手陣の中では数少ない他球団にも自慢できる選手である。
そして――オウルズが強くなるための可能性の一つ。
彼の存在がなければ、国奏はこの球団を選ばなかった。
オウルズ躍進の鍵を握る選手である。
マウンドでの投球練習が終わり、左打者用のバッターボックスに相手打線の2番が入る。
約18.44mを挟んで、両者が睨み合う一瞬。
その瞬間、国奏は何とも言えない懐かしさを感じた。
この感覚は何だろうか。
しばしの間そう思案し、あぁと答えに辿り着く。
似ているのだ。初めてプロとして一軍のマウンドに立った瞬間に。
客席からの独特な雰囲気。両軍ベンチからの強烈な視線。
今、自分は試されている。
お前は本当に使える奴なのか? と。
自軍の首脳陣からすれば、いくら練習で良かったとしても、本当に本番の試合で同じように投げられるのか、この球団にどれだけ貢献してくれるのか。
相手チームのベンチからすれば、ペナントレースを競うライバルチームの新戦力は、本番では如何ほどのものなのか、得意な球種は何で、どこに弱点があるのか。
客席を埋める多くのファンからすれば、この選手は高い金を払って獲得する価値があったのか、自分の喉を振り絞って応援するに値する選手なのか。
国奏は阪京ホワイトオウルズの背番号20として、その資格を問われているのだ。
お前はそのユニフォームと背番号を背負うに値するのかという事を。
ならば、やる事は決まっている。
――しっかりと見とけ。そんでたっぷり測れ。俺という選手を。
捕手の杉宮がサインを出す。
アウトローの直球。投球の基本だ。
そこに思い切り投げ込む。
左腕から放たれたボールは、枠ギリギリ。これでもかという位置にズドンと決まった。
ビタビタの一球。
決め球として取っておきたかったレベルの完璧なストレート。
当然、打者は手など出ない。
2球目のサイン。
杉宮が出したハンドサインの意味は、インコースの直球。
――強気だな。
国奏はそう感心した。
杉宮が国奏の球を捕る事は、これが初めてという訳ではない。
キャンプや練習試合、それとオープン戦では何度か捕ってもらった事もある。
だが、それでも国奏は中継ぎ投手。
開幕前は自軍の先発候補と入念に話し合い、実戦への感覚を作っていく捕手からすれば、中継ぎというのは先発と比べてどうしても接する時間が少なくなる。
ましてや今シーズンに移籍してきたばかりの国奏の事など、杉宮は大して知らないだろう。
無論、成績や動画、そういうもので確認はしているだろう。
しかし、投手が実際にどんなリズム、感覚で投げているのか。どんなコースを投げやすく感じているかなどは、実際に球を受けてみないと分からないのだ。
そんなよく知りもしない左投手に、左相手にインコースを投げろと要求する。
これは相当に度胸がないと行えない指示だ。
少し制球が乱れたら、デッドボールになる可能性も高い。
しかも、杉宮からすれば国奏が真剣勝負で左打者のインコースに投げられる投手かどうかも分からない状況で、だ。
つまり、杉宮も国奏を試している。
ここに投げ切れるのか? と。
――上等だ。
ノーボールワンストライク。
投手有利のカウントで内角に投げられないような腑抜けだと思ってくれるな。
国奏が投じた一球は、空気を切り裂く音と共にミット目掛けて走っていく。
そのストレートに向かって、相手バッターは思わず反応してしまったかのようなスイングをした。
当然、そんな不格好なスイングでキレのある国奏のストレートを捉えられる筈もなく、空振り。
ストライクカウントに2つ目のランプが灯る。
杉宮が何やら頷きながら、ボールをマウンドに返球した。
さぁ、次は何を投げる?
何を要求してくるんだ?
ある意味期待とも言える感情と共に、国奏は次のサインを待つ。
決めるのか、それとも一球遊び球を入れてくるのか。
この若い才能が何を求めてくるかは、とても興味があった。
しかし、杉宮が作った手の形は、余りに衝撃的に過ぎた。
(……は? 高めのストレート? こいつマジか?)
まさか、サインの間違いかと思い、首を振ろうとした瞬間。
杉宮の双眸が、キャッチャーマスク越しに国奏を強く睨む。
そして、もう一度強く同じサインを作って強調した。
――は、はは。
思わずマウンド上で笑ってしまいそうになった。
アウトロー、インローと続いて、最後にハイボール。
すべて直球のサイン。
余りに強気が過ぎる。
けれど、それこそ望むところだ。
国奏は高めに構えられたミット目掛けて、全力で投げ込んだ。
全力。今日イチ。先ほどまでコントロールに割いていた意識を、全て回転数と球速に注ぎ込む。
対する打者は、フルスイング。
当然であろう。高めのボールというのは基本チャンスボールなのだ。
ストレート軌道で真ん中気味にきたボールになれば、失投の可能性もある。
打てば高確率で長打に成り得る。
しかし、国奏のフォーシームは最後まで落ちない。
特殊なスリークォーターから放たれたストレートは、打者の想定よりも遥かに高いポイントを通り過ぎた。
結果、バッターは空振り。
豪快なスイングがボールを捉える事なく、スイングアウトのコールがなされた。
国奏淳也。
移籍先初のマウンドは、まずは一人目を三振に切って取るという幸先の良いものになった。
甲子園は開幕の時期はセンバツを行っているので、甲子園本拠地のチームが開幕戦ホームゲームである場合は別の球場を使用します。この開幕戦もドーム球場です。
ちなみに、某虎球団の京セラドーム主催試合での勝率は、ここ6年間で7割を超えています。
明らかに異常じゃねーか。