序章
「はぁ…はぁ…はぁ…!」
息が乱れる中、彼は背後に迫る闇から逃げ続ける。立ち止まれば死が待つのみだ。
「…っ…!くそっ…」
細く長い道は、頼れる灯りがなければ、細々と大地を照らす星さえそれを照らし出してはくれない。
長い間闇の中にいたお陰か、目は多少ならば使えるが、はっきりと見えない以上、視覚は信じてはならない。つまり、生き残る為には己が聴覚、嗅覚、触覚を信じて、前に進むしかないのだ。
ふと、前方からの空気の流れが突如として止まる。行き止まりだと認識した彼は、再び風とカビ臭い匂いを感じる方向へ転換し、走る。
「くっ…、ここも行き止まりか…!」
しかし、またしても風が徐々に弱まり始め、目の前に壁の存在を認識する。
(どうする…。ここでアレを使えば、自分の居場所がバレてしまう。考えろ、思考を止めるな…!)
神が御座すこの世界で、最早彼らにすら見放されたのだろうか。無情にもバタバタと騒がしい足音と強い光が複数、段々と近づいてくるのがわかった。
「おいっ、いたぞ!!あそこだ!!」
後方にある道は引き返せない。前方は行き止まりだ。
彼は覚悟を決め、道の右脇に存在する深い闇に身を隠す。
闇にできた、他とは異質な“闇”。その中に身をゆだねるのは抵抗があったが、背に腹は代えられない。
彼には、早く行かなければならない場所があるのだ。
息を殺し、自分の気配を出来る限り消す。少しでも物陰に移動しようとしたその時。
パァンッ!
「……っ」
何かに生み出された破裂音が、闇夜を震わせた。
それと同時に、雲間から覗いた月が、“毒々しい微笑みを浮かべた誰か”を照らし出したような気がした。
しかし、そんな気配も一瞬のことで。
頭では、この音は自分が最も嫌う武器の音で、大切な人を奪った憎き音であることをぼんやりと思い起こしていた。次第に自分の脇腹が熱を帯び始め、しまいには赤い液体が地面に滴り落ちる。
(あぁ、やられたのか…)
悠長なことを考えながらも、今更身体の痛覚が働いてきたことに彼は顔を歪めた。
ズルズルと、闇にまみえる壁に背中を預けたまま、地面へとしゃがみこみ、背中に感じる冷たい感触に少しホッとしてしまう。
穿たれた脇腹を手で押えると、傷が塞がりつつあるのがわかった。
これが彼にとっての“普通”で、他の人間にとっての“異常”なのだ。
(疲れた…。何かから逃げ続けるのも、生きるのも)
自嘲気味に口の端を上げた彼は、ふと脳裏に浮かんだ言葉を口にする。
「っは…。いっそ死んでしまおうか…」
尚も聞こえてくる、バタバタと騒がしい足音。
「うるさい…」
耳障りな音から逃れるように、彼は漆黒の双眸を伏せた。
(早く、眠ってしまいたいのに)
尚も自分の意思とは反対に動く脚。ここから逃げなければならない、と頭に響く警鐘。
脳裏に浮かぶ、少女の笑顔。
「こんな…とこで、死んでたまるか…!アイツが、待ってるんだ…」
行かなければ。
何処ニ?
アイツがいる場所に。
生キテイルカモワカラナイノニ?
聴こえてくる、己を嘲笑うかのような声。
「うるさい!うるさいうるさいうるさい!!消えろ!」
彼は暴れる心を落ち着かせるため、荒い息を一気に吐き出す。
いつもそうしているように、淡い青色の石のペンダントをギュッと握りしめた。
暗闇の中で唯一、ペンダントだけが彼に寄り添うように光っていた。