第八話 タエルクの日
新暦三一二三年、タエルクの日。
地球、それも日本で言うところの元日、この世界の創造主であるタエルクの名を冠した今日、まだ日も昇りきらぬ朝の四時前。祐介は恵美とその子供たちと共にウィルドへと繰り出していた。本日は新年の始まりを盛大に祝う祭りが世界中で行われているのだ。
ウィルドは祭りらしく、あちらこちらに不思議な形の紋様が描かれた大小様々なタペストリーやリボン、花などが飾られており、街を賑やかに彩っていた。
「おー、すっごい賑やかだな!」
祐介は行き交う人々を眺めて言う。まだまだ辺りは暗いというのに、今日は新年を祝う祭りだからか通りはすでに人でごった返していた。
魔法の道具らしい街灯に照らされている道行く人々の装いも、一度目のウィルド散策の時に見たものよりも明るい色が多い。かく言う祐介も、今日のために新調した――恵美が突然持ってきた――衣装で街を歩いていた。
祐介が本日着用している肌触りの良いシャツは、ウィンディアの主な生産物の一つである絹織物でできている。絹……シルクといえば高級品という印象を祐介は持っているのだが、この世界でも高価な品であるのは変わらない。しかし今現在彼が着ているシャツは平民向けの品で、生糸を紡いだ際に出た繊維の短いくずや質の劣る繭にドニゥの羽毛を混ぜて紡績したものが使われているのだ。この糸には最高級の絹のような光沢は無いが、地味なものから鮮やかなものまで一本の糸の中に実に様々な色がある。そのためこの糸で織った生地は染色の必要がなく、羽毛が混ざることで絹の割合も減ることからその分値段も安くなる。だから平民でも少し奮発すれば買える値段に収まっているのだ。
一見カラフルだが素朴な色合いで派手ではないそのシャツを、祐介はそれなりに気に入っていた。まず、軽くて丈夫で暖かい。そして夏場はこのシャツ一枚で涼しく過ごせるのだという。そんなオールシーズン着ていられる服は、ファッションにあまり興味の無い祐介には大変ありがたいものだった。
そんな絹のシャツの上に着ているのは、鮮やかな赤色のダウンジャケット。まさか異世界でダウンジャケットを着ることになるとは思っていなかった祐介は、生地こそナイロンではないものの、元の世界で慣れ親しんでいた服の登場に内心で喜んでいた。しかしながら、こんな派手な赤色は普段の彼ならば絶対に手に取ることのない色だ。平凡な見た目の己に似合うのだろうかと不安に思う祐介だったが、意外なことにその赤は地味な顔によく映えた。
祐介は大変気に入っているダウンジャケットだが、貴族には不評で『着る布団』などと揶揄されている。そのため現在では、このダウンジャケットならびにダウンコートは自国や他国の平民向けの防寒着として売り出しているのだ。これが羊毛のコートよりも軽くて暖かいとなかなかの人気らしく、各国で飛ぶように売れているのだと祐介の元に服を持ってきた恵美が言っていた。
このダウンジャケットをはじめとした羽毛製品は、絹織物と並ぶウィンディアのもう一つの主な生産物だ。ダウンジャケットの他にも布団やクッションなどの日用品、羽ペンや羽ぼうきなどの文具用品、アクセサリー、服や帽子のアクセントとなる飾りなど、様々なものが生産されている。この羽毛製品の原材料となるのが、ウィンディア国民であるドニゥの羽毛なのだ。
ドニゥの羽毛は夏と冬に訪れる彼らの換羽期に集められる。この時期は各地に羽毛の取引所が設けられ、多くのドニゥが己の羽毛を指定の袋に入れて持ち込むのだ。この羽毛は量や重さ、質、羽の大きさや形、色彩の美しさなどで多少金額は上下するものの、一袋あたりおよそ五キットから一ウォースの間で取引されている。貴族にとっては端金もいいところだが、平民にとってはちょっとした小遣い稼ぎになるのだ。
ちなみにキットやウォースというのはこの世界の通貨で、最小単位がイブという木貨だ。そして十イブが一キット銅貨になり、十キットが一ウォース銀貨になる。
恵美にそのことを教えてもらった祐介は、おや、と首を傾げた。木でできたお金というものに馴染みが無いのもあるが、それよりも元の世界でもよく聞く金貨というものが存在しないことに疑問を持ったのだ。そのことを恵美に質問したのだが、返ってきたのはこんな答えだった。
「金はこの世界にもあるんだけど、地球の金と違ってすっごい硬いんだよね」
つまりはこういうことだ。
この世界の金は地球とは違い純粋な金塊の状態で存在するのだが、硬すぎるために普通の方法では採掘できないのだという。そして苦労して採掘したとしても、熱や魔法にも非常に強いため加工できる者がそもそも少ないのだそうだ。現代ではソイリズという鉱業を主産業とする国に金の加工ができる者が数名存在するらしい。
その話を聞いた祐介は、それはもはや金とは言えないのでは? と思わず口にしていた。それに対して恵美もそうだよね、と同意する。
「でも、この世界の金はそういうものなんだよ。たぶんだけど、この世界の言葉を翻訳する時、私たちの知識の中にある言葉で一番近いものを当てはめてるんだと思う」
恵美の考えは十分納得できるものなのだが、それにしては性質が違いすぎやしないだろうか、と祐介が思ってしまったのは仕方のないことだろう。
そのように思考の中で時間を遡っていた彼の耳に、子供たちの元気な声が届いた。
「オカアサン! ブドウジュースノミタイ!」
「イチゴノクレープタベタイ!」
その声は祐介を現実の時間へと引き戻した。
子供たちは屋台から香る美味しそうな匂いに目を輝かせ、あれも食べたいこれも飲みたいと恵美にせがんでいる。恵美はそんな子供たちに「まだだーめ」と優しく言いながら手を繋ぎなおすと、彼女たちの三歩ほど後方を歩いていた祐介に声を掛けた。
「祐くん、少し早いけど先に教会に行ってお祈りしようか」
「ああ、分かった」
祐介たちははぐれないように注意しつつ、ウィルドの南門へ流れる人波に身を任せながら街の外へ出た。そうして門をくぐった祐介たちの目に飛び込んできたのは、この波を作り出している途切れることのない人の列だった。その列は祐介たちから見て左手に伸びる教会の参道へと続いている。その人の数に、テレビ越しに見ていた都会の初詣の様子を祐介が思い出したのも無理からぬことだろう。
祐介は口元を引きつらせてぽつりと呟いた。
「う……おお、すげえ人だな……」
「あちゃー、今年は読みが外れたかー」
いつもはこの時間はこんなに人はいないんだよ、そう恵美は苦笑しつつ言うと、この世界にまだ不慣れな祐介も連れて最後尾に並んだ。祐介たちが並んでからも次々に人がやって来るせいか、誘導係らしい兵士たちも忙しそうに動いている。その兵士たちだが、ピーターやアントニオと同じような見た目の者もいれば、足と首が長く頭が小さいダチョウのような顔立ちをしている者もいた。
ダチョウのような見た目の彼らはこのウィンディアの陸上歩兵だ。彼らは魔法無しには空を飛べないが、その代わり非常に足が速い。ドニゥという種族でひとまとめにされてはいても、その能力は人によって様々なのである。
そんな忙しそうな兵士たちを横目に、祐介たちは人の熱気に体を温められながら歩みを進めていく。はじめは山に囲まれていた参道も少しずつ開けていき、やがて美しく整えられた樹木や花壇、そして白く美しい教会の外壁が見えた。それは教会に設置されている鐘が五つ鳴らされた時のことだった。
「うわ、もう一時間経ったのか」
鐘の音と薄っすらと白んでいる空を見て日が昇り始めたのだと祐介は気付く。そして全身に薄靄を通して差し込む柔らかな光を浴びて、この場所が雲が掛かるほど高い山なのだと祐介は改めて認識していた。
そういえばこれは初日の出なのか。祐介がぼうっとそんなことを考えていた時だった。
『イアヘコナタコーナーウェロク……』
頭上から不思議な響きを持った美しい声が降ってきたのは。
祐介はその声に驚いて反射的に上を見ると、そこには半透明で全身緑色をした美女が宙に浮いていた。彼女は何も身に付けておらず、女性らしい柔らかな曲線を描く肢体を惜しげもなく晒している。それゆえに祐介は目のやり場に困り思わず視線を逸らそうとした。しかしそれは女性の手によって阻まれることになる。
『エロク、イスノ、オィモワリトク』
いつの間にか祐介の目と鼻の先に女性の顔があった。
女性は頭を下にした状態で宙に浮いており、両手で祐介の頭をがっちりと固定している。彼女は体よりも長い髪のような靄をそよ風に揺らしながら、祐介の顔をじっと見つめていた。
女性の美しい瞳に射抜かれた祐介が息を呑む。その時、この異世界では比較的聞き慣れている声が彼の耳に飛び込んできた。
「アマシエリエシアド!?」
声の主はこの世界に来てから何かと交流のあるピーターで、彼は兵士の服ではなく祭事用のものと思われる前合わせの長衣をまとっていた。彼は何やら慌てた様子で人の波をかき分け祐介たちの下へとやって来ると、乱れた呼吸を整えてから女性に声を掛けた。
「アマシエリエシアド、ウサミロエティスナルノカガニム。エドヌサミリアメテルトドヒトナギサタワウェラク、オウィロドモエンネドニサワミ」
『ム……イナキサト、オニーサワルザゥウオィスオィサグンネシソノコノティフ。ウムフ、ウオィソツナガティシノアヌシナボトコニスノアウォコク』
女性は言うと祐介から手を離しふわりと舞い上がる。そして身を翻すと、教会の向こう側へと飛んで行きその姿を消した。
祐介を含めこの場にいた人々は女性の姿が見えなくなるまで体を硬直させており、その様はまるで時間が止まっているかのようであった。そんな止まった時間を動かしたのは、ピーターの一言だった。
「……エクスーィ、イアキーエッタロメティキノィッシオデキアナムス?」
「え?」
「祐くん、ピーターが一緒に来て欲しいって」
恵美がピーターの言葉を訳す。その内容に祐介はああ、と頷いた。どうしてピーターが一緒に来て欲しいなどと言ったのか、理由は分からないが察することくらいは祐介にもできる。
「さっきの女の人が何かあったのかなぁ……」
思い当たる節をぽつりと呟いた祐介。その呟きが耳に入った恵美は、少しだけ目を泳がせながら祐介の肩を叩いた。
「……ええと、祐くん」
「ん?」
「さっきの方はね、風の大精霊様なの」
「……え?」
風の大精霊様? 祐介は口の中でそう言葉を復唱する。そしてじわじわと戸惑いの感情が表に現れ始めた。その感情はやがて、これはもしや何かとんでもないことが起こるのではないか? という確信めいた予感に変化していく。
「とにかく、ピーターに付いて行って。私は一緒には行けないから」
恵美のその言葉を聞いて祐介ははっと顔を上げるとなんで、と疑問の声を口にする。それに対し恵美は少しだけ寂しそうな声音でこう答えた。
「私が大精霊様に呼ばれたわけじゃないからね。それに、大精霊様の言葉はタエルク様の愛し子にしか分からないから、たとえ私も行けたとしてもなんの役にも立たないよ」
さあ、行っておいで。
恵美は祐介の背中を押すと、彼の後ろ姿に軽く手を振った。彼女の声音や表情から、もしかしたら恵美も何かを感じ取っているのかもしれないと祐介は思う。
はたして彼らの感じているものはいったいなんなのか。
それは、今の彼らには分からないことだった。
***
ピーターに連れられて祐介がやって来たのは、教会の奥にある白壁の半球状のそれほど大きくはない建物だった。外装は細かい彫刻が施されている以外はぽっかりと出入り口が空いているだけというシンプルな造りだったが、いざ中へ入ってみるとその美しさに驚かされた。
天井からは白色の光を放つ石を光源とした照明器具が吊るされている。その照明器具の造りは、エメラルドのような宝石を削って作られた器に光る石を入れているという簡素なものだ。その透明性の高い器を光が通ることによって、部屋の中は淡く美しい薄緑色に染められていた。
壁には光を反射しない緑色の石が丁寧に敷き詰められている。その石の濃淡だけで表現されているのは、ウィルドの街のそこかしこで見掛けたタペストリーに描かれていた紋様だ。
部屋の中央には水晶のようなもので作られた台座が三つ並んでいる。それぞれ木の実と果物、酒らしきもので満たされている銀の杯、美しい光沢を放つ絹織物が供えられていた。
台座の奥には緑の石で作られた背もたれの長い椅子が一脚。その椅子には、先ほど祐介の元にやって来た女性……風の大精霊が足を組んで座っていた。
ピーターは祐介を己の一歩後ろに待たせると、台座を挟んで風の大精霊の正面に立ち深々と頭を下げた。
「アティサミセルト、アマシエリエシアド」
『ム、アカティク』
風の大精霊はそう言って立ち上がると、ふわりと宙に浮いて台座を飛び越えた。そして祐介の目の前に降り立つと、まじまじと彼の顔を見つめる。
『ウムフ、イスノイラハィ、オナドゥオユロエティソダィイニモノソワラキトナタコーナ。アウェロキサキス……アィイソム、イネウユリグソユトマラキトニウカーテラモケム、アコヌロエッタヌキサコアガラキトナタコーナ?』
風の大精霊はぶつぶつ言いながら何やら考えている様子であった。
祐介は彼女に顔をじっと見つめられて居心地悪く感じていた。しかしそれよりも、彼女の一糸まとわぬ姿の方が何かと気になり反応に困っていた。
『イスノアィイソム、アコヌナロエッタカワガボトコナワラゥ? アウォツナラカワラガニコエティソダィイニモノソワラキトナタコーナ……イアムラータキス』
風の大精霊はそう言って背後の台座に置かれていた銀の杯を手に取ると、中に満たされている琥珀色の液体に口を付けた。彼女の半透明の体は、琥珀色の液体の通り道を祐介の目にまざまざと見せつける。彼女のほっそりとした首の中央を通り、人間であれば心臓があるであろう位置に留まり渦を巻く液体は、彼女の体の中で金色の輝きを放ち出した。
その様子が神秘的で、祐介は彼女が衣服をまとっていないのだということも忘れその輝きに見入っていた。
『オジアネドゥコグアマモノス』
風の大精霊のそんな声が祐介の耳に届いた次の瞬間、彼の目に映るのは彼女の美しい顔だけになっていた。
え、と祐介が声を上げる間もなく、彼の唇に熱を持たない柔らかな何かが押し付けられる。そして彼の唇が冷たい液体で濡らされた。
これはいったいなんなのだろうか、疑問に思った祐介が薄っすらと口を開くと、その途端に彼を強いアルコールの刺激と香りが襲った。祐介はそのアルコール臭に驚き、思わず口の中に入ってきた液体を飲み込んでしまう。その液体が胃に到達したと思ったその時、彼の体の中で正体の掴めない何かが暴れ始めた。やがてそれは腹の奥に形を成すと、出口を求めるように祐介の喉元へとせり上がっていく。
「!? ん、ぐっ、ぅえ」
吐きそうだ、そう訴えるようにえずくも、風の大精霊は祐介から離れようとはしなかった。
吐き気を我慢するも限界を迎えた祐介の口から、とうとう丸い形をした何かが飛び出した。そうしてようやく、祐介は風の大精霊から解放される。
「げほっ……はぁっ、いったい何……?」
小さく咳き込みながら顔を上げた祐介が見たのは、風の大精霊の口の中に転がる黒い小さな卵だった。
その黒い卵が風の大精霊の胸で渦巻く液体の中に落ちた次の瞬間、目を開けていられないほどの金色の光が彼女の体から放たれる。祐介もピーターも、そのあまりの眩しさに耐えきれず光を遮るように思わず顔を覆った。
光の奔流が収まるまで、およそ一分。祐介はまぶたの裏を刺す光の刺激が収まったのを感じて、ゆっくりと目を開けた。今だにちらつく視界の先、風の大精霊が立っていたはずの場所には、先ほどまでは存在していなかった一人の金髪の女性が佇んでいた。その女性は何も身にまとっておらず、透けるような白さの肌を男二人の前に堂々と晒していた。祐介とピーターは同じタイミングで、まるで鏡合わせのように女性から顔を背けた。
女性はというと、二人のことなどまるで眼中に無いと言わんばかりに己の手を見つめていた。そして握ったり開いたりを繰り返し、ふうむ、と小さく頷いた。
「これは妾にも予想できなんだわ」
そう言った女性の声に祐介とピーターには聞き覚えがあった。それもそうだろう、何せ先ほどまで聞いていた声だからだ。
「この声……」
「まさか、大精霊様!?」
「うむ」
女性が大きく頷くと、ピーターの絶叫が部屋の中に響き渡った。
この時、祐介は驚きのあまり気付いていなかった。
ピーターと風の大精霊の言葉を理解できるようになっていたということに。