第五話 祐介=エクスーィ
異世界よりの転移者……異世界人は、この世界でも珍しいとはいえまったく存在しないというわけではない。それは祐介よりも先に恵美が転移していることからも窺えるだろう。そのため、この世界では異世界人の処遇について国家間で協定が結ばれており、異世界人は基本的に保護された国に籍を置くことになるのだ。そのため、祐介は今後は保護された国……ウィンディアに籍を置いている状態となり、この世界での身元が保証されるようになったのだった。
いつの間にかウィンディアの国民になっていた祐介は、まずはその体調を回復させることに専念することになった。具体的に言えば、祐介が気絶している間にその身柄を設備の整っている王宮の医務室に移し――それまではアントニオ所属の兵師団用の医務室にいた――王宮魔法医師であるアリア・テンが彼の主治医となったのだ。そして祐介の通訳兼世話人として、彼の従姉である恵美がつくことになった。
そして祐介は体調が回復し次第、この世界の一般常識を学んだ後に自由の身となるのだが、それらは恵美の子供たちとの対面の後、祐介が気絶している間にすべて決まっていた。
異世界人が厚遇されるのにはもちろん訳がある。この世界には独自の文化があるが、異世界人によってもたらされた概念や技術も数多く存在するのだ。特に革命的だったのが、暦と時間の概念だった。今では暦は世界中で当たり前のように扱われ、この世界独自の技術である魔法と異世界の機械技術を融合した時計塔が各国に存在する。最近は携帯用の時計を所持するのが貴族のステイタスになっているらしい。
祐介はそんな話を、この世界に転移してきて一週間後――この世界の暦では一週間は十日だ――に、恵美の口から聞かされたのだった。
この世界に転移してしまった祐介は、体調を回復し一般常識を学ぶ段階になって、医務室からアントニオが所属している兵師団宿舎の空き部屋に居を移していた。王宮内では祐介が自由に動けないというのもあるが、一兵士の妻でしかない恵美が特例とはいえ、王宮に通うのは憚られるというものもあった。
こうして一般常識を学び始めた祐介は、この世界の日付で新暦三一二二年闇の月水の週六日――地球の歴でいえば、およそ十二月の初め頃――に、恵美の口より元の世界に帰ることが不可能であると告げられた。
「十年かけて世界中を旅したんだけどね。結局帰る方法は見付からなかったよ」
異世界に転移してしまった恵美は十七歳から二十七歳までの間、当時この国の一兵士で恵美の第一発見者であったアントニオと共に、地球に帰還する方法を探して世界中を旅していた。
恵美は祐介とは違い、異世界に転移した直後からこの世界の言葉は問題なく理解できていた。曰く、異世界人はこの世界に転移してくる際に、精霊の祝福を受けるのだという。
精霊の祝福を受けた者は、言語の壁を超えて意思疎通ができるようになる他、この世界に存在する精霊の力を借り受け行使する技――魔法を使えるようになるのだ。
恵美はウィンディア国内にある風の精霊の溜まり場で発見され、そのまま風の精霊の祝福を授かった。だからこそ、明らかに見た目の違うアントニオと対峙した時も言語の違いで苦しめられることはなかったという。そして風の魔法の力も授かり、更には普通の人間よりも老化が遅くなったのだそうだ。
「ああ、だからエミねーちゃん、歳のわりに若く見えたのか」
うっかり口を滑らせた祐介が恵美にグーで殴られたのはここだけの話だ。
「まあ、言葉に不自由はしなかったんだよ。ただ、文字の方はそうもいかなかったんだけどね。必死に勉強したよ」
恵美はそう言いながら、祐介の目の前でA7サイズほどの厚手の紙に何やら文字を書き連ねていた。言語能力に難のある祐介のために、簡単な日常会話くらいはできるようにとメッセージカードを作っているのだ。右上には美しい筆跡の日本語が、紙の中央には……何やら、ミミズがのたくったような字? が踊っていた。
「え、この世界の文字ってミミズみたいな形をしてるのか……?」
「ん? それは遠回しに私の字が汚いって言ってるのかな?」
「いやいや! そうじゃないって! ただ、本当にミミズみたいな……?」
握り拳を作った恵美に慌てて弁明している時、祐介は違和感に気が付いた。
「あれ、なんかエミねーちゃんの筆跡と文字の形が違うような気がする」
「え?」
「なあ、別の文字書いて見てくれないか?」
「それは構わないけど……どうせ他にもカードを作らないといけないから」
恵美はそう言って新たな紙を取り出すと、まずは右上に「こんにちは」と日本語で書き付ける。そして次に、紙の中央にこの世界の言語で「こんにちは」と書き始めたのだが、ここで祐介の目にありえない現象が飛び込んできた。
恵美は縦に線を引いたはずなのに、祐介の眼に映るのは横に伸びる黒い線。そう、明らかに文字の形が違っていた。
祐介が今見た内容を恵美に伝えると、彼女は目を丸くして驚いた。なぜなら、彼女はある可能性に気付いたからだ。
「祐くん、今の話を聞いて気付いたことなんだけど……祐くんの言語翻訳機能、たぶん私のよりもずっとすごいものかもしれない」
「ええ?」
恵美の言葉に祐介はまさか、と胡乱な目を彼女に向ける。恵美はそんな祐介の視線も意に介さず、己が気付いたことを話し出した。
「さっきも言ったけど、私は言葉は通じても文字は書けなかったから必死に勉強したの。それなのに、祐くんの目には私が書いた文字とは全然別のものが見えているんだよね? それってつまり、文字も翻訳しようとしているってことでしょう?」
「言われてみれば……」
「今はなんらかの不具合が起こってて、翻訳されているけど変に聞こえたり、見えたりしているんじゃないかな?」
「うーん」
恵美の言葉に祐介は唸った。祐介は今まで聞こえていた言語がこの世界特有のものだと思っていたので、それが違うかもしれないと言われて若干戸惑っているのだ。しかしながら、現在はそれを確認する手段が無い。
しばらくうんうん唸っていた祐介は、あ、と声を漏らした。今までの生活を思い出していた彼は、己が理解できない会話を聞いている時に一つ違和感を覚えていたのだ。
「人の名前ってさ、普通は翻訳されないよな」
「そうだね」
「だけど俺、今までエミねーちゃんの名前も、アントニオさんの名前も、ミユキちゃんとナツキくんの名前も、アリアさんの名前も、他人の会話の中で聞いたことないんだよな」
そう、祐介は他人の会話の中に出てくる人物名を正しく認識できていなかった。恵美は日本語を話しているため分かるのだが、周りの住人――ミユキとナツキの言葉だけはカタコトの日本語に聞こえるのだが――の言葉はさっぱり理解できない。それでも普通は人物名くらいは分かりそうなものなのだが、彼の耳には人の名前らしきものが一切聞こえてこないのだ。
「ちょっと誰かに試してもらいたいところだけど……」
祐介がそう呟いたその時、彼の部屋のドアをノックする音が聞こえてきた。祐介は思わず反射的に「はい」と返事をしてしまう。その声を入室の許可だと思ったのか、ガチャリと勢いよくドアが開いた。
「ウセダマセラクト。アティサミケットメリイサス」
そう言って部屋に入ってきたのは、祐介が転移してきた初日にミユキとナツキの子守を押し付けられていた、アントニオの部下であるピーター・ドラグであった。
ピーターは祐介たちに近付くと、手に持っていた袋を差し出してきた。その袋からは甘い香りが漂ってきており、中身は菓子類なのだろうと容易に想像できた。
「差し入れ? ありがとう!」
恵美はピーターに礼を言いながら袋を受け取ると、早速中身を確認する。
「クッキーだ! しかもこれ、王都で人気の店のやつじゃない? すぐ売り切れるって話だったけど、よく買えたね」
「エドゥナティエティイクオス、オユセドナッタケテリオゥウカヨユオニク」
「え? あそこ予約できないはず……ああ、確かあの店のオーナーって女性……ああ、うん、そうか。ピーターってばハンサムだもんね……」
「ハン、サム……?」
祐介はそう呟くとピーターを見た。
ピーターは青い羽毛が美しい鷲のような見た目をしているのだが、同じような見た目のアントニオに比べると体躯は一回りほど小さかった。羽毛と同じ色の髪を一つの三つ編みにして後ろに垂らし、兵士の装備を身に付けている彼の姿は実に凛々しい。目の色も美しい金色で、彼の目元は鋭さと涼やかさを併せ持っていた。
祐介はここにいないアントニオの姿を頭に思い浮かべながらピーターを見る。そして頭の中のアントニオと目の前のピーターを何度も比較し、一つの結論に至った。
「うん、俺には分からん」
異種族の美醜を見分ける目を持つには、祐介の異世界生活はまだまだ短すぎた。
「それよりも、ちょうどよかった!」
「ああ、そういえばそうだね」
祐介と恵美の言葉に首を傾げるピーター。そんな彼に、祐介は先ほどの疑問を解決するために協力をお願いした。
「えっと、ピーターさん、ですよね? 少し協力してほしいことがあるのですが……」
「アクセドゥコィルオィク?」
「うん。そんな難しいことはお願いしないよ。そうだね……じゃあ、まずは自分の名前をフルネームで言ってみて」
「アクセデアマン? ウセドゥガロダーティープ」
「どう? ちゃんと聞こえた?」
「……いや、全然」
自分の耳に届いた音の中にピーター・ドラグというものが無かったため、祐介は頭を抱えた。人名が分からなかったということはつまり、翻訳機能は働いているものの、翻訳結果がおかしなことになっているということの証明になるからだ。
「……一応、他にも何人か頼む」
「分かった。それじゃ、次は私の名前」
「ナシーメ」
「あ、さんとかは付けなくていいよ。で、祐くん、今度はどうだった?」
「エミねーちゃんの名前にかすりもしてないけど。つーか、ナシーメってなんだよ!」
「いやほんとナシーメって何!?」
短いためはっきりと聞き取れた言葉だったが、それが恵美の名前だとは到底信じられない祐介。そして、祐介が聞いたらしい己の名前に驚きの声を上げる恵美。
「うわぁ、祐くん、本当にわけの分からない言葉を聞いてたんだね……っと、ごめんねピーター。次はアントニオね」
「オイノトナ」
「五文字ってところしか合ってねえ!」
「え、なんて聞こえたの?」
「オイノトナ!」
「誰!?」
「ほんと誰だよ!」
祐介と恵美は今度は同時に頭を抱えた。そして二人は顔を見合わせると、小さく頷きあった。
「じゃあ次は……とりあえず祐くんの名前いっとく?」
「……頼む」
「分かった。それじゃピーター、復唱してね。祐介」
「エクスーィ」
「俺の名前の影も形もない!」
「ちなみに?」
「エクスーィ!」
「うわあ」
恵美はもう何も言えなくなった。ここまでひどいといっそ笑えてくるというものである。
「オナ、アクセドゥブオジアド……?」
沈み込んだ二人を心配してか、ピーターが声を掛けてくる。恵美はその声に力なく頷くと、実験に協力してくれた彼にお礼を述べた。
「変なこと頼んでごめんね、ありがとう……」
「俺からもありがとう。実験に付き合ってくれて……」
恵美と祐介の声には張りがない上に二人とも俯いているため、疲れ切っていることが窺い知れた。
祐介の口から大きな溜息が出る。そしてのろのろと顔を上げ、まぁ、と小声で呟いた。
「俺のおかしな翻訳機能のヒントは手に入れられてたかな……」
「そうだね……ああ、一応メモ取っておいたよ」
「ありがとう、エミねーちゃん」
恵美が祐介に実験結果のメモを手渡す。祐介はそれを受け取ると、気分を変えるように声を張り上げた。
「さて! せっかくピーターさんがクッキーを買ってきてくれたんだし、みんなで食べようぜ!」
「そうだね。それじゃあ私はお茶を淹れてくるよ」
恵美は祐介の言葉に同意して立ち上がると、そういえば、と声を上げ祐介に向き直った。
「祐くん、ピーターは君より歳下だよ」
「え」
「十六歳。もうすぐ十七になるけど」
「マジか」
「うん」
その簡潔なやり取りを終えると、恵美は部屋を出て行った。
部屋に沈黙が訪れる。男二人が取り残された部屋には、なんとも言えない空気が漂っていた。
「……あー、その、なんだ……」
祐介はぽりぽりと頬を掻きながら、ピーターの正面に立った。そして改めて彼の顔を見る。均整の取れた顔のパーツの配置と大きさを見て、祐介は恵美が言っていた通りハンサムかもしれないな、とぼんやりと思った。
祐介はしばらくうー、あー、と何やら言い淀んでいたのだが、ようやく決心がついたらしい。ピーターの顔をまっすぐ見据えると、はっきりとした口調でこう言った。
「まさか俺より十四も歳下だとは思ってなかった。それでさ……俺もピーターって呼んでいいか?」
祐介のこの言葉に一瞬だけ目を丸くしたピーターだったが、次の瞬間には爽やかな笑みを浮かべていた。
「ノリトム」
あ、確かにこいつイケメンだわ。
ピーターの反応からきっと肯定してくれたのだろうと判断した祐介だったが、彼の一挙手一投足から滲み出るイケメンのみが持つとされるオーラに、若干気後れするのだった。
2018.11.15
ピーターの年齢を十八歳から十六歳へ変更しました。