第一話 バグの始まり
ピピピピ、ピピピピ。
「三十八度二分……」
体温計に表示されている数字を読み上げて、男は大きく息を吐いた。
男の名は谷口祐介。どこにでもでもいるごく普通の日本人だ。そんな彼の体が異常を訴え始めたのは昨日の夜のこと。祐介が仕事帰りに寄ったコンビニで、ここ最近特に夢中になって読んでいる漫画の新刊と、夕飯の弁当を手にレジに並んでいる時だった。突然彼の背筋に悪寒が走り思わず身震いしたのだ。その悪寒に対して、祐介は「最近冷えてきたからか?」と、その程度にしか考えていなかった。結局彼は深く考えることもなくそのまま商品の会計を済ませ、コンビニの近くに停めていた愛車に乗り込んだ。あとは帰宅するだけだと車のエンジンを掛けようとした時、祐介はまた寒気を覚えた。彼はそこに至ってようやくこいつは怪しいと思ったのだ。
狭いが一人暮らしには十分な広さの自宅に帰り着いた祐介は、無駄なあがきだろうなとは思いつつ、買ってきた弁当を胃に流し込むように食べ、いつ買ったのかも思い出せない風邪薬を服用し、楽な服に着替えて早々に就寝した。しかしそんな彼の努力もむなしく、翌朝アラームで目覚めた時には三十八度を超える熱が出ていたのだった。
祐介は役目を終えた体温計をケースにしまい枕元に放り投げると、充電しっ放しのスマートフォンを手に取る。そして連絡先から職場の上司の番号を呼び出し電話を掛けると、三回目のコールが鳴り終わる前に相手に繋がった。
「もしもし」
『谷口か。どうした、こんな朝早くに』
「すみません、実は昨日から体調が悪くて、咳とか鼻水は無いんですけど、今朝体温を計ったら三十八度ありまして……」
祐介が現状を伝えると、上司は驚いたように声を上げた。
『おいおい、なかなかの高熱じゃないか。今日はもう仕事は休め。どうせ有給も溜まっていただろう?』
「はぁ、まぁ……」
『あと、高熱だからインフルエンザの疑いもある。病院で検査して、結果が出たらまた連絡をしてくれ』
「分かりました」
それから一言二言会話をして、祐介は通話を切った。スマートフォンの画面に表示されている時計は七時三十三分。それを見た祐介は、近所のかかりつけ医院について思い出していた。祐介の記憶によると、その医院の受付は八時四十五分開始だったはずだ。場所に関しても、車でなら十分も掛からない距離にある。それならばゆっくりと準備しても大丈夫だろうと、祐介はのんびりと朝食の用意を始めた。こういう時、熱に強い体質で良かったと祐介は心底思った。熱のせいで少しの頭痛とふらつきはあるが、別に動けないというほどでもないからだ。
そんなふうに油断していたのが悪かったのかもしれない。
「やべぇ……なんだこれ……」
祐介は外出準備をしている間にどんどんと具合が悪くなっていき、とうとう動くことが困難になっていた。慌てて枕元に放り投げた体温計を探し出し熱を計ってみれば、まさかの四十度超え。脳が沸騰するような熱さに意識が朦朧となり、祐介はその場に倒れ込んでしまった。
「マジ……やべぇ……救急、車……」
スマートフォンを置いているテーブルまで這って行き、気力を振り絞り手を伸ばしたのだが簡単に力尽きてしまう。床にぴたりとくっ付いた頬から伝わる冷たさが、高熱に浮かされている祐介の体にはとても気持ちが良いものだった。彼はそのままの体勢で部屋の隅をぼうっと見つめ続けた。
よく見たら埃が溜まっているフローリングに気付き掃除をしなければと考えてみたり、買ってきた漫画は最初の数ページしか読んでいないから早く続きを読みたいと思ったり、先週同僚からお土産で貰った馬刺しを食べる時用に少しばかり贅沢していい酒を買ってこなければと夢想してみたり。
高熱の影響か、祐介の頭にはどうでもいいことばかりが浮かび思考が全然まとまらない。めまいもひどくなってきたようで、彼には見慣れたはずの部屋がぐるぐると回っていた。
「気持ち悪……」
祐介はそう呟いて強く目を閉じた。このひどいめまいから少しでも逃れたかったからだ。しかし目を閉じていても彼の頭の中は回り続ける。そんな脳をかき混ぜられているような感覚の具合の悪さがピークを超えようとしたその時だった。
――タス、ケテ……。
そんな、大人とも子供とも、男とも女とも判断できない声が祐介の頭の中に響いた。
「助けて、欲し、いのは、こっちだよ……」
祐介がそう呟き目を開けた瞬間、目の前に広がっていたのは彼の部屋ではなく、薄い雲が掛かる爽やかな青空だった。
ああ、とうとう熱で幻覚まで見ているらしい。
祐介がそう思った時には、彼は意識を手放していた。
***
「……! ……、…………?」
祐介の耳に声が届いた。彼には聞き慣れない声だった。その声が聞こえた事で、祐介の意識が浮上する。
「……オ! ……モ、ア……ド?」
己に掛けられる声の感じからして男のものだろうかと祐介は考えた。低いが聞き取り易い響きの声質だった。声を掛けられているのと同時に体を揺すられている感覚も祐介にはあった。
もしかして、異変に気付いた職場の上司か同僚が来てくれて、倒れているところを発見してくれたのだろうか? それとも、奇跡的に救急車を呼ぶことに成功していて、救急隊の人に声を掛けられているのだろうか?
祐介はそんなことを考えながら、必死にまぶたを持ち上げようとした。しかし接着剤でくっ付いていると言われても不思議でもないくらいに、ピクリとも動かない。祐介はならばと目を開ける代わりに声を出そうとしてみたのだが、こちらも口が全く動かず、体ももちろん動かなかった。しかしどうやらうつ伏せから仰向けにはなっていたようで、背中の方に地面の感触があると祐介は認識していた。
さて、意識だけがある状態だが、ここからどうすればいいのだろうか? 祐介がそう悩み始めた時だった。
「イオ! エアモ、アクブオジアド?」
はっきりとした声が祐介の耳に届いた。
「アヘドニサカサム……アニアニ。イサドゥオユリエティサヒキ」
再び何かを言う声が祐介の鼓膜を震わせる。その声を脳内でじっくりと反芻し、内容を深く理解しようとして……。
――何かを言っているのは分かるが、何を言っているのかはさっぱり分からんぞ!?
……という結果に落ち着くこととなった。しかしそれも仕方のないことだろう。開かない目、出ない声、動かない体。この三つだけでも十分焦る要素だというのに、そこにまるで聞いたことのない言語で話す知らない男の声まで加われば、混乱するのは必然だった。内心で大慌てしている祐介だったが、しばらくすると冷静な部分も出てきた。そこでようやく、今現在の自身が置かれている状況を確認しようという余裕ができたのだ。
声の近さからして、この何を言っているのかは分からない男が自分の体を揺すっているのだということを祐介は理解した。あまり強く揺すってこないことから、少なくともこの男は乱暴者ではなさそうだ。
実に運が良かったと祐介が心の中で安堵していると、少し離れた所からまた別の声が聞こえてきた。
「ウオィティアト!」
――また何言ってるのか分からない人が増えたぞ!?
誰にも聞こえることのないその叫び声は、祐介の心の中で虚しく響き渡った。
そんな祐介の内心など知る由もない新たに増えた人物も、どうやら男のようだった。祐介の体を揺すっている男よりも若さを感じさせる高い声だった。
「アティスオド?」
「アグセドゥオスクフネラニム、エティサキソム、アフヒレオノク……?」
「アア、イアニアギタム、アドニジアケシ」
「アクセドゥオシラハィ。アグセド、ウオォセドヌリィノィサバンノケザン? イトタッタサギエリエサホコク。アグセドナヌザヒアナロコォミマグヨンナクゥキサウゥオハガラキト……」
「アホヌレアグナコウェロス、アソトギソヌゥィトネラィスカゲトゥカナジタテロ」
深刻そうな声色で何やら会話する男二人。もちろん祐介には内容はさっぱり理解できなかった。
二人の会話に聞き耳を立てるくらいしかできない祐介の体から、低い声の方の男のものだろう手が離れた。その時、祐介は違和感を覚えた。男の手が普通の人間よりも大きいような気がしたのだ。そしてもう一つ、男の手にしては妙に柔らかかったのだ。その感触はふわふわとさらさらが融合したような、なんとも言えない絶妙に気持ちの良いものだった。
「アーティープ、アギアナムス、エルケティスコクオヒヌーウィクオータティソゴホゥニジアケシエットドミニカス。ウキエテルタラケティスニヌカコウィアドゥオヨネラカヘロ」
「アティサミシアクオィル!」
高い声の方の男が何かを言うと、バサリバサリという、まるで大型の鳥が羽ばたくような音が祐介の耳に届いた。それと同時に彼の体に強い風が吹き付ける。その時に感じた風の温度は、暖かく柔らかいものだった。
その時、あれ? と、祐介は疑問を抱いた。なぜならば、最近はもうずいぶんと冷たい風が吹いていたはずだからだ。
祐介がそんな疑問を抱いていると、彼の体を揺すっていた男が立ち上がる気配を感じた。まさか、動けない自分をこの場に放置してどこかに行ったりしないよな? と、祐介が戦々恐々としていると、その男の気配が遠ざかっていった。
まさか本当に置き去りにされたりしないよな!?
そんなふうに焦る祐介の内心に気付いているのか気付いていないのか、男はある程度の距離まで離れるとその動きを止めた。目を開ける事ができない祐介がどうして男の動きの詳細に気が付いたのかというと、草なのか砂なのか、とにかくそういうものを踏みしめる音が止まったからだ。
祐介はそこまで冷静に分析して、あれ、と内心で首を傾げた。彼はここにきてようやく、いつの間にやら外に出ていたのだということに気が付いたのだ。先ほどの鳥の羽ばたきのようなものが聞こえた時点で気付いてもよさそうなものだが、少しは祐介の心にも余裕が出てきたとはいえ、彼はまだまだ混乱している最中なのだ。祐介自身も自分で自分に呆れており、できるものなら溜息の一つでも吐きたい気分だった。
祐介がそんなことを考えていると、男がゴソゴソと何かを漁っているような音が聞こえてきた。いったい何をしているのだろうかと疑問を抱いた祐介はしばらくその音に耳を集中させた。ほどなくして音が止むと、また男がこちらに近付いてくる気配を感じた。
「ウカッタム……エナコヌリイノィサバンノケドナニヌオトノォ。イノネッティアネアクトムオハマジョコク……」
男が何やら言っているが、もちろん祐介には意味が分からない。
「オザドニアカトムコィギエリエソノク。アアァ、アヌレラサヨディヌオィトナダタム……」
男のその言葉に祐介は恨み言を言われたような気がしたが、当然意味は分からないので真実は闇の中である。
祐介は声の主に対して微妙な怒りを覚えたが、次の瞬間には彼の感情が驚き一色に染まった。
パリン、と何かが割れるような音が聞こえたと思った次の瞬間、突然祐介の周りに風が吹いたのだ。そして祐介の体をすくい上げるようにまとわり付いていると理解したときには、彼の背中が地面と別れを告げていた。
つまり、祐介の体が宙に浮いたのだ。
「……!?」
そのあまりの衝撃に、今までの苦労はなんだったのだろうかと思えるほどに、祐介は勢い良く目を見開く。ようやく目を開けることができたのだが、光に目が慣れておらず当然ながら何も見えない。祐介は何度かまばたきを繰り返しながら体を動かせないかと試してみたが、やはり無理のようだった。
「オ、アナディアティマテマサゲム」
男のそんな声が聞こえてきたのと同時に、光に目が慣れる。ようやく目が見えるようになった祐介の目に一番に飛び込んできたのは……。
「……!?」
眼光鋭い鳥男だった。