第九話 翻訳機能回復
「ううむ、衣服とはこんなにも窮屈なものなのか」
「大精霊様、それは布を羽織っているだけなので衣服とは言えません」
「むう、今年の愛し子は可愛くないのう。妾にそのような物言いをするとは」
「……とにかく、その布は羽織ったままでいてください。まさか大精霊様がエリフのようなお姿になるなどと誰も想像できませんから」
「そうだの、妾もこのような姿になるとは想像しておらなんだ」
「ああ……これ、陛下にも教会にもなんて報告したらいいんだよ……」
一人椅子に腰掛けている風の大精霊を前に頭を抱えたピーターを、祐介ははじめに立っていた場所から一歩も動くことなくぼんやりと眺めていた。
そういえばなんか違和感があるな? そう思った祐介はそれがいったいなんなのかを考える。思考すること十数秒、ここでようやく彼は大変なことに気が付いた。
「あれ、言葉が分かる!?」
その声を聞いた風の大精霊とピーターが同時に祐介の方へ顔を向ける。そして何を当たり前のことを、と言わんばかりの態度で風の大精霊が口を開いた。
「お主はそもそもあのお方の祝福を受けておるのだから、言葉が理解できることこそが当然なのだ。しかしその祝福の力が少々おかしくなっておった。だから妾が改めてお主に祝福を与えてやったのだ。光栄に思うがよいぞ」
そう言って口の端を吊り上げた風の大精霊の表情は、祐介の目には少々憎らしく映った。しかし同時に、非常に美しいとも思えるものだった。
実体を得た風の大精霊だが、容姿は間違いなく精霊であった頃のものを引き継いでいる。全体的な色味こそ大幅に変化したものの、美しい顔に女性らしい丸みを帯びた肢体は先ほどまでとなんら変わらない。変わったのは、緑色の靄のようであった髪だ。上質な絹糸を思わせる艶やかさを持つ長い髪は、光を集めて作り上げたかのような美しい金の輝きを放っている。エメラルドグリーンの澄んだ瞳を縁取る睫毛や眉も、髪と同じ金色だ。肌はきめが細かく透き通るような白さだが、頬や指先などは薄っすらと赤みを帯びており、皮膚の下に祐介たちと同じように赤い血が流れているのだろうということが容易に想像できた。
己の言葉に黙り込んでしまった祐介を見て、風の大精霊はおや、と首を傾げる。その拍子に、羽織っていただけの絹がするりと彼女の肩から滑り落ちた。
「わっ、大精霊様! もっとちゃんと前をしっかり閉じていてください!」
ピーターは慌てて絹を拾い上げると、驚異的な速さで風の大精霊に改めて羽織らせる。その様子を見ていた祐介は、彼女が半透明の時にはそんな素振りを微塵も見せていなかったのになぁ、などということを明後日の方向を向いて考えていた。ただの現実逃避だった。
「お主はいちいちうるさいのう。前を閉じろと言うが、この布が滑りやすいのが悪いのではないか。そうだ、愛し子よ、お主のその腹に巻いている布を妾に寄越すがよい。お主のようにその布で押さえれば、この布も滑らぬであろうよ」
「それだと今度は僕が困ります!」
ああ、ピーターって一人称僕なのか。
二人のやり取りが続く中、祐介がそんなどうでもいいことに気を取られていると、風の大精霊が不意に話し掛けてきた。祐介は彼女の声にあからさまに肩を跳ねさせると、少しだけ裏返った声で反射的に返事をした。
「へぁい!?」
「うむうむ、良い返事であるぞ。愛し子よ、此奴もこう言っておることだ、妾は此奴を連れて各地を旅しようと思う。他の大精霊にも会いたいことだしな。異存はあるまい?」
「いやむしろ異存しかないのですが!?」
風の大精霊の言葉とピーターの叫び声を聞いて、祐介はようやく現実に戻って来た。どうにも聞き捨てならない言葉が聞こえてきたからだ。
祐介は恐る恐る右手を小さく上げ、発言の許可をもらうべく口を開いた。
「あの……大精霊様、少しよろしいでしょうか?」
「なんだ?」
「あの……今、旅をしようとかなんとか、おっしゃいましたか……?」
「うむ、言ったぞ」
即答であった。
風の大精霊はそれはそれは眩しい笑顔で大きく頷くと勢いよく立ち上がる。ひらひらと揺れる絹の隙間から覗く彼女の白い太腿は、祐介の目には少々眩しすぎた。
魅惑の生足を男二人に見せ付けながら、風の大精霊は祐介の前に颯爽と歩いてくる。そういえば先ほどまではふわふわと宙を飛んでいた気がするのに、いったいどうしたことだろうか? 祐介は疑問に思い、風の大精霊に尋ねた。
「あの、なんで飛ばないんですか?」
「む? ああ、それはこの体になってしまったからだな。今の妾には大精霊としての力はほとんど残っておらぬ。まあ、近くの精霊に命じれば風の力の行使は可能ぞ」
風の大精霊の答えを聞いたピーターが「なんですって!?」と悲鳴にも似た声を上げた。
風の大精霊が力を失った。
それが大変な事態であることくらい、異世界の人間である祐介にもさすがに分かる。そしてこの大変な事態を引き起こした原因が己にあるのだと、祐介は気が付いてしまった。
風の大精霊が普通の人間のような姿になったのは、祐介の中からあの黒い卵を吸い出した時だ。おそらくはそれと同時に祐介に祝福を与えたのだろう。彼女が祝福を与えてくれたことで言葉を理解できるようになったので、それに関しては祐介も感謝している。しかし、まさかそのせいで彼女が大精霊としての力を失うなど、いったい誰が想像できようか。
そこまで考えて、祐介ははっとなる。風の大精霊が力を失う原因を作ってしまった自分は、何かしらの処分を受けるのではないか? と。
「嘘だろう……まさかの異世界で前科持ちになるとは……!」
まだ処分されると決まったわけではないのに、祐介の頭は獄中生活の想像でいっぱいになる。そうして頭を抱えて膝をついてしまった祐介を見たピーターは、事態の収拾がつかなくなってしまったことで右往左往する。風の大精霊はどうして祐介が頭を抱えたのか理解できないようで「何をしておる? 早う行くぞ!」と彼の首根っこを掴んでいた。
そんな混沌としたこの場に一条の光が射す。その光は、中性的な凛とした声をこの建物の中に響かせた。
「大精霊の神殿で何を騒いでいるのです?」
その言葉はこの建物……神殿の入り口から聞こえてきた。祐介たちは反射的に入り口に顔を向けると、そこには白を基調としたシンプルな――しかし金糸と銀糸で美しい刺繍が施されている――衣服に身を包んだ一人のドニゥが立っていた。そのドニゥは、祐介が今まで見てきたドニゥの中でもひときわ美しい外見をしていた。その人物は美しい切れ長の黒い瞳以外すべてが白く、神々しさを感じさせるほどであった。
中性的な声だったせいで、祐介はこの場に現れた新たな登場人物の性別を咄嗟に判断できないでいた。しかしその人物の背後に伸びる美しい尾羽と顔立ちを見て、祐介はそのドニゥが男性だろうと判断する。何せ彼は、地球でもその美しさで有名な孔雀の羽を持っていたからだ。
「クリストファー殿下!」
ピーターは声を上げると慌てて跪いた。その行動を見て少々混乱した祐介だったが、ピーターの態度と「殿下」という言葉を聞いて、この新たな登場人物であるクリストファーがこの国の王族なのだと思い至る。そのため祐介も、ピーターの姿を真似て不恰好に跪いてみせた。そんな中、風の大精霊だけは良く言えば上位者の風格を漂わせたまま、悪く言えば不遜な態度でクリストファーに向かってこう言った。
「なんだ、この地の守り人の子ではないか」
その言葉を受けたクリストファーは少々気に障ったようで、無礼な、と口を開きかけて止まった。女性の姿に既視感を覚えたのと、声も聞いたことのあるような気がするものだったからだ。
クリストファーは三度小さく呼吸をして苛立ちを抑え込むと、この場で唯一己が心を許している人物に声を掛けた。
「……ピーター・ドラグ、面を上げよ。そしてこの状況の説明を」
同じ年の同じ日にこの世に生を受けた友人に久方ぶりに会ったというのに、気楽な話ではなく命令をしなければならないことを心苦しく思うクリストファー。そんな彼に声を掛けられたピーターはというと、少々緊張をはらんだ短い返事をし、控えめに顔を上げる。そして短く息を吐き、この騒ぎの経緯をクリストファーに語り始めた。
風の大精霊が何かに気が付いたように突然神殿から飛び出したこと。彼女の向かう先に異世界人である祐介がいたこと。風の大精霊が祐介に興味を抱いていたので、彼を神殿へ連れて来たこと。風の大精霊が祐介に祝福を与えたこと。その際、風の大精霊の体が光り輝き、エリフのような姿になったこと。風の大精霊が力の大半を失ったこと。そして……風の大精霊が、祐介を連れて旅に出ようとしているのだということ。
ピーターは事実だけを簡潔に述べると、再び頭を下げた。
報告を受けたクリストファーは頭を抱えると、まさか、と言葉を漏らす。
「そちらの女性が風の大精霊様だとは……確かに、どこかで見た覚えのある姿だとは思っていたが……」
己に報告したピーターの声は真剣そのものだったと、クリストファーは理解している。そしてピーターの左後方で跪いている祐介の体がわずかに震えていることにも彼は気付いていた。
この異変を引き起こした原因が己だと考え、どのような処分を下されるのかと恐れているのだろう……クリストファーは祐介の内心を正しく理解し、しばし思考する。
今回のこの異変はウィンディアの歴史が始まって以来、いや、この世界始まって以来の大事件だ。クリストファーは王族だが、彼は去年成人を迎えたばかりの第二王子、これほどの大事件を一人でどうこうできるはずもない。
クリストファーはふう、と息を吐く。どうやら予想以上の事態に彼も緊張しているようだった。
「……面を上げよ。事情は分かった。しかしこれは私一人の判断では如何ともしがたい。よって、ピーター・ドラグ、ユースケ・タニグチ、そして……大精霊様。私と共に城へ来てもらおう。その……大精霊様の召し物も用意せねばならんだろうしな」
クリストファーは風の大精霊を視界に入れないようにわずかに顔を傾けている。それに気付いた祐介は、彼もまた健全な男子なのだなとしみじみと思うのだった。
***
ウィンディアの第二王子、クリストファー・ディ・シルエルに連れられてやって来たのは、祐介もしばらく滞在していた王城だった。
本日は新年の始まりであり、クリストファーの誕生日でもあるためか、場内ではメイドや執事、騎士たちが慌ただしく働いている。祐介たちの目に入らない場所でも使用人たちが働いていることだろう。特に厨房などは戦場かと見紛うほどに忙しいに違いない。
クリストファーはまず、近くのメイドに風の大精霊を衣装室へと連れて行くように指示を出した。風の大精霊を裸同然のまま城内を歩かせるわけにもいかないからだ。風の大精霊はというと、衣服が窮屈だと言っていたわりには大人しく――城が珍しいのかキョロキョロと辺りを見回すという、完全なおのぼりさん状態で――メイドの後ろを付いて行った。
風の大精霊が無事に衣装室へと向かったのを確認したクリストファーは次に、己付きの騎士の一人に祐介たちを控えの間まで案内するように告げると、国王との謁見の準備を整えるためにこの場を後にしてしまった。祐介とピーターは何かを言えるはずもなく、騎士の後ろを黙って付いて行くしかないのであった。
のちにピーターは語る。
控えの間へ向かう際の祐介の面持ちは、まるで死刑宣告を待つ罪人のようであったと。




