1話 薄紫の魔導師と王国魔導師協会
ここは、日本。
何の変哲もない、程よく都会で程よく田舎なとある街。
小鳥のさえずり、木々のざわめき、キャッキャと楽しげに街を走り抜けていく小学生達──。
「うわっ、最悪…ウンコ踏んづけた」
そんな平和なワンシーンを、彩やかに汚したのがこの少年、結城一である。
一は学校やバイトのせいで数少ない休日を、散歩をして楽しんで(?)居たのだ。
まぁ、そんな時に犬の糞などふもうものだから、今日はつくづくついてないなとため息をついた。
「これ結構新しい靴なんだが…川で洗ってくるか」
─────………。
「うっわ、川も汚ねーな」
一は頭をぽりぽりと掻いた。
─まぁいっか。
仕方が無い、と思ったハジメはその小川につかつかと歩み寄り、靴を漬けた。
耐水性のある靴で良かった、と思いながら近くにあった石で靴底をじゃぶじゃぶと洗い始める。
「あ?猫じゃん」
目の前を横切った白い影。
それは猫だった。
綺麗だったであろう白い毛並みは砂なら泥やらで黒く汚れ、こびりついて固まってしまっている。
「どれ、お前も洗ってやるよ…っと」
そうやって一は白猫を抱き抱えた。
『ミギャッ』
「ってぇ…」
どうやら白猫は急に抱き抱えられたことが気に食わなかったらしく、一の腕に噛みつき、道路へと走っていく。
一は気付く。
キキーーッ!!
急ブレーキの音。
白猫の前には、トラックが迫っていた。
あんな大きくて重たいものにぶつかられたら、こんな小さな猫はひとたまりもないだろう。
「──ッ!!」
一は考えるより先に走り出した。
滑るように白猫とトラックの間に潜り込み、白猫を庇うように両手を広げる。
──あぁ、馬鹿だなオレ。こんな白猫なんかほっときゃ良いのにな。
──すんませんトラックの運転手さん。オレのせいで罪が重くなっちゃいますね。
そう思って目を瞑った後───
──オレの体は突然現れた青白い魔法陣に飲み込まれた。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
「っつーわけだ」
「ふむ…なるほど」
ここはとあるカフェのテラス席。
街ゆく人々の雑踏、楽しげに談笑する街人、頬を撫でるそよ風──。
そして、ハジメの前に座る薄紫の少女。
ハジメは、自分の迷い込んだ空間に戸惑っていた。
「し…信じてくれたのか?」
「いえ、全く」
「えぇ!?」
ハジメは、迷い込んだ『異世界』で目の前に座ってジュースを飲んでいるこの薄紫の少女に出会った。
どうしたのかと聞かれ、この世界とは別の理由で混乱し始めたハジメを連れてこのカフェにやって来た。
ハジメは自分の身に起こったこと全てを少女に話したのだが──。
「いやいや、到底信じられませんよ、異世界から来ただなんて」
「まぁ、だよな…」
「とりあえず事情は分かりました。迷子ですね?」
「全然分かってないよな!?」
ハジメはここがカフェだということも忘れて大声を上げ、周りの視線が刺さるのを感じ咳払いをする。
「ご、ごほん…じゃあ、もっかい言うぞ?」
「えぇ、どうぞ」
相変わらずにこにこと楽しそうにハジメの話を待つ少女にうんざりした様子のハジメだが、ツッコまずに話を続けた。
「オレはついさっきまで『日本』という国にいた。『地球』という世界に居た。んでちょっと家の周りを散歩してたんだが…急に目の前が真っ白になったと思ったら、さっきの路地に立ってた。…つーわけだ」
「あっ、まさか…」
今の話を聞いて、何かに気づいたかのように眉をひそめた少女に、ハジメは淡い期待を抱く。
ごくり、と自分の唾をのむ音がやけに大きく響く。
そして少女の紫紺の瞳がこちらに向けられ、その綺麗な唇が紡ぐ言葉は──。
「やっぱり、迷子なんですね」
「話聞いてた!?」
ハジメは「違うんですか?」と首を傾げる少女のアホさにため息をつく。
「どう考えても違うだろ…」
肩を落としたハジメは続ける。
「だって、魔法なんてオレの居た世界にはねーんだよ…the・科学なんだよ…」
「魔法じゃなくて魔術ですー!それに…」
可愛らしく頬を膨らませ、抗議してくる少女。
─可愛い。写真でも撮っておきたい。
だが、それ以上に続きが聞きたい。
「それに…?」
「『科学』の世の中なんて聞いたことがありません。あるとしたら…」
続きを聞こうと耳をすませていたハジメ。
だが、少女は悲しそうに顔を歪ませ、続きを言うのをやめてしまった。
「どうかしたのか?」
「いーえ、なんでもないです。…あっ、そーだ!」
怪訝そうなハジメをよそに、何かを思いついたのか手をぽんと叩いて人指し指を立てた少女。
「王国魔導師協会に行きましょう!迷子の取り扱いをしているがどうかは分かりませんが」
「だからちげーよ!?…つか、王国魔導師協会って何だ?」
「行けば分かりますよ~。ほら、早く」
少女は笑顔でハジメに手を差し伸べた。
繋げ、ということだろうか。
こんな美少女と手を繋いだ試しなど、ただの童貞のハジメには無い。
少し躊躇いながらも、少女の手を取った。
「あ、貴方、名前は?」
少女が思い出したように声を上げた。
…そういや、名前も聞いてねーや。
「オレはハジメ。…お前は?」
自分の胸に親指を突き立てながら名乗るハジメに、少女は…
「私はリーゼ。しがない魔術師です。宜しくお願いしますね、ハジメさん」
柔らかく微笑み、腰まで届く薄紫色の紙をそよ風にたなびかせながら、大きな魔女帽子を被って走り出した。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
目の前を流れてゆく中世ヨーロッパのような街並み。
談笑の声。
そして自分の腕を引きながら走る、異世界を通り越して異次元じみた美貌の少女。
ハジメは生まれて初めての満たされた時間に思いを馳せ─
「わぶへっ!す、すんません…あーいてて」
─ようとするが、少女…リーゼがかなりのスピードで人で溢れかえる路地を走っているので、他の人にぶつかってしまいそれどころではなかった。
「リ、リーゼ…ちょっとスピード速すぎやしねぇか?」
「そうですか?魔導師たるもの、常日頃努力を惜しまないんですよ♪」
「他人に迷惑かけながら立派になってくのやめようよ!?」
ハジメの話なんて耳にも入っていないかのように鼻歌を歌いながら疾走するリーゼは、後ろからなので顔は見えないがどこか楽しげだった。
──まぁ、ちょっとくらいはいいかもな…
そんな風に思いながら頬を綻ばせたハジメは、突然来た衝撃に思わずつんのめった。
「つきましたよーっ!」
リーゼが急ブレーキをかけたのだ。
その余波でハジメはリーゼの胸に顔を突っ込むことになった。
─うぉ!こ、これは…服の上からでも分かっては居たけどかなりでけぇ!だが実際の感触や大きさは桁違い…!!なんたる至福ッ!!
そんなだらしない表情でリーゼの胸に顔を挟んでいたハジメだが、次の瞬間これまた凄い勢いで後ろに仰け反った。
きっとリーゼが完全に止まったのだろう。
ぽよおおおん。と、ハジメは凄まじい弾力におしもどされ、その勢いは止まらずにハジメは尻餅をついた。
「ここが、王国魔導師協会のローティオ支部です!」
リーゼがふん、と鼻息を吐きながら指さした先には──
──何も無かった。