第八話 九年前の記憶
「おっしゃあ!」
少女の承諾を得た戒斗が、大きくガッツポーズを作った。
戒斗自身、その高いテンションは恐怖を無理やりに上塗りした結果出来ているものであると気づいていない。
「よし、それなら早速……」
勢い込む戒斗を、少女は手を前につき出して制した。
「今行っても、きっとあの世界には行けないわ。まずは私の話しを聞いてくれない?」
「だけど! こうしている間にも、もしかしたらあの子供は……!」
「私の話しを聞く気がないのであれば、これ以上何も話さない。あなたにあの世界の事を話すつもりもない。それでいいの?」
「くっ……、わかったよ!」
戒斗は屋上のフェンスに背を預け、深呼吸した。
まずは少しでもあの世界の事を知らなければならない。
この少女は、少なくとも自分よりはあの異常な世界に詳しいはずだ。
「聞かせてくれ、あんたの知ってることを」
「ええ。……私は九年前に一度、あの世界に迷い込んだ事があるの」
「九年前……ていうと、八歳か九歳くらいの時か」
戒斗は指折り数える。
「まだ八歳だったわ。今日みたいな良く晴れた夏の日に、私、両親と飼い犬と一緒に泉ノ公園に遊びに行っていたの。飼っていた子はレオっていう雑種の大きな犬、とっても可愛かった。賢くって、人を噛んだりは決してしない子だった」
空を見上げ無表情に話していた少女が、天気とは裏腹に少しずつ曇っていく。
「私とレオが両親から少し離れて遊んでいると、陽が傾きはじめた。もう帰らなきゃって思った時、突然物凄いめまいに襲われたの」
「物凄い、めまい……」
戒斗は昨夜のうちに二回も経験した、あの感覚を思い出した。
「恐らく、雨宮君も実際に体験したのだと思うのだけど……。めまいから覚めた先は昨夜と同じ、あの異世界だったわ」
「ずっと昔からあの公園は、その、変な世界と繋がってんのか!?」
「それは、私にもわからない。けど、私はそう思っているわ」
九年前から繋がる異世界――。
途方もない話に、戒斗は笑ってしまいたくなった。
しかし、包帯が巻かれた右腕の疼きが、これは現実である事を痛みと共に止む事無く訴えかけてくる。
「そして、私とレオは見知らぬ世界で出会った……。あの、化け物に」
たった一人のか弱い少女が、見知らぬ世界であの化け物と出会う事が、どれほどの恐怖であっただろうか。
戒斗には、もはやそれは想像する事さえ出来ない範疇に達していた。
「怖かったわ。怖くて怖くて、立ち尽くして何も出来なかった。泣くことさえ出来なかった。ただ立って震えていたわ。ゴブリンが襲いかかってきても、足が固まってしまったように動かなかった。逃げる事さえ出来なかった」
少女の腕がかすかに震えている。
胸苦しさに耐えかねるかのように、左手を胸にあて、一度深く息を吐いた。
「動けなかった私に、ゴブリンはいきなり殴り掛かってきた。持っていた武器で私を思い切り斬りつけて、訳も分からないうちに私は倒れていた。目をあけたらあの化け物の顔がすぐそばにあって、頭の隅っこで、ああ、私死ぬんだって思った。でも……レオが助けてくれた」
感情を抑え込むかのようにして喋り続ける少女に、戒斗は言葉を挟めなかった。
その犬がどうなったのかなんて、聞くまでも無いだろう。
「今でも忘れないわ。目の前で切り裂かれたレオの事を……! あいつは、あの化け物は! 私をかばってくれたレオを、私とずっと一緒に生きてきた大事な大事なレオを! あいつは!!」
はじめて、少女が感情らしい感情を表に出した。
それは、異世界で出会った化け物に対する恐怖では無かった。
弱い自分をかばい、理不尽に家族を奪われた、燃えるような怒りである。
拳をきつく握り締めた少女が、唇を噛みしめた。
その目には、今まで試合で向かい合ってきたどんな相手よりも熱い闘志が宿っていた。
戒斗は激しい感情に当てられながらも、疑問に残る思うことがあった。
いかに大型とはいえ、犬一匹があの化け物相手に、一体どれほど闘えるのであろうか。どうやって、少女はその時の危機を乗り越えたのだろう。
「レオが動かなくなって、私だけになって……。怖くて怖くて、目を閉じたわ。それでも足音はどんどん近づいてきた。でも、風が吹いた後、いやな音はなんにも聞こえなくなったわ。私、最初は自分が死んだのだと思ったわ。でも違った。あの時……」
・・・
男は焦っていた。
犬の吠え声など、この世界に来てから一度たりとて聞いたことが無かった。
ましてや、聞こえてきた場所はあの泉の方角だ。
自分と同じように、誰かがこちらに迷い込んでしまった可能性が大きい。
警戒するような激しい吠え声が、男の危機感を加速させる。
(間に合ってくれよ)
心の中でそう繰り返して呟きながら、月明かりの中を疾駆した。
視線の先、見えた。
ゴブリンが一匹、そのそばには狼のように大きな犬が横たわっている。
ゴブリンは足を噛まれたらしく、足から血を流しながらゆっくりと歩いている。その先には、胸元から腹部まで衣服が切り刻まれ、血まみれになっている少女が居た。
全身が熱くなった。
考えるよりも先に身体が動く。
駆けながら、右腕に握っていた日本刀の柄に左手を添えた。
ゴブリンが足音に振り返る。
勢いそのまま、男は右足を大きくゴブリンに踏み出した。
瞬間。
男の切先がゴブリンの肩口から腹部までを一閃した。
ゴブリンは呻き声すらあげる間も無く斜めに両断され、地面に崩れ落ちた。
切り捨てたゴブリンが完全に両断されている事を確認し、男は少女の傍に駆け寄った。
まだ息がある。
だが、ゴブリンが持っていた錆びた刃物で力任せに切られた傷口は損傷が酷い。
血は今も流れ続けている。このままではすぐにでも息絶えてしまうであろう。
男の経験上、この世界の医術では、これだけの出血量を救う手立てはないと思われた。
「あ、うう……」
「きっと助かる。君、もう大丈夫だからな!」
薄っすらと目を開いた少女を安心させるように、男は優しく声をかけた。
「少しの間、我慢していてくれ」
少女に短く告げると、男は腰に括り付けた袋から粉のような物を取り出し、少女の傷口を覆うようにそれをふりかけていった。流れていた血が、少しずつその勢いを弱め、やがて完全に粉に埋もれて止まった。
「よし、なんとか血は止まった。あとは向こうの世界に任せるしかないな」
「レオ……は……? あたしと居た子は……?」
「すまない。私が来たときにはあの子はもう……」
少女が懸命に伸ばした指先は、無残に倒れた犬の亡骸を指していた。
男は首を左右に振った。後ろから、ドタドタと大きな足音が聞こえて来た、
「おおい! サムライ! そっちはどうだ!?」
赤ら顔の大柄な男が声をあげ走って来た。
男は、血まみれの少女を見て、低く唸った。
「なんだこりゃあ、ゴブリンの仕業か! サムライ、こいつぁもう……」
「血止めはした。私の世界なら、きっとこの子を救える」
「この見慣れない服……。この子は、お前の世界の子か?」
「恐らくな。アズール、石は持っているか?」
少女の表情がうつろなものになってゆく。
今にも意識を失いそうであった。
このままでは、二度と意識が戻る事は無いかもしれない。
「送り返す、まだ間に合う」
「お前が行くのか?」
「それしかないだろうな」
サムライと呼ばれた男は少女を抱き上げ、泉のほとりへと導いた。
アズールと呼ばれた大柄な男もそれに続く。
ぼちゃん、と何かが水の中に沈む音がした。強烈な眩暈とともに、少女の意識は、そこで完全に途切れた。