第五十六話 英霊の轍
「こいつで最後だ!」
アズールは渾身の力で棍棒を振り下ろした。辺りには数匹のゴブリンが、頭部や脚部を潰された状態で倒れている。周りを見渡したアズールが荒い息を吐いた。
レイムーンが火矢とにおい袋で巣のゴブリンたちを誘い出し合図を送った後、アズールはすぐに火油の詰まった樽を担いでゴブリンの巣に向かった。
だがその時、違う所に出払っていたと思われるゴブリン数匹が巣穴に戻っていくところと鉢合わせたのである。
出払っていたとアズールが思ったのは、その数匹がどこからか動物の死骸を持ってきていたからである。この森の生き物の多くはゴブリンにすでに喰い尽くされている。生き残りがいたか、森を出て取って来たかは知らないが、どちらにせよこの付近にはあれほど大きな生き物はここ数年見かけていない。
そっと火油の樽を置くと、アズールは迷うこと無く茂みを飛び出しゴブリンたちに襲いかかった。
ここで火を放たずに戻るという選択肢などありはしなかった。ならば、死骸を運び、一瞬でも向こうの手が塞がっている間に攻めようと考えたのだ。万が一巣穴に逃げ込まれては、夜目の利くゴブリンに有利になってしまう。
虚をつかれたゴブリンたちを相手に、苦戦の末勝利を収める事は出来た。
しかし、多くの時間を費やしてしまっている。
レイムーンがゴブリンの大群を引き連れていってから、かなりの間戦っていたのだ。一刻も速く巣に火を放ち、村に加勢に戻らなくてはいけない。
一度茂みに戻ると左肩に樽を背負い、右手には棍棒を握り周囲を再度警戒しつつ巣穴の前に立つ。ふと、動物の死骸が視界に入った。
何か、おかしい。一体何が……。
そこまで思って、その違和感の正体に気がついた。
なぜゴブリンたちは、この動物を捕らえたその場で食べてしまわずにここまで運んでいたのか。アズールの知る限り、奴らに食料を巣に持ち帰るという習性は無い。村でも喰い荒していくばかりであったはずだ。
大型といっても、貪食であるゴブリンたちからすれば大したことのない大きさの獲物である。
それを何故、ここまで運んだのか。
巣穴の奥から、低い唸り声が聞こえてきた。
「何かいやがる!」
担いでいた樽を思い切り巣穴に放り込んだ。
奥の方で樽が割れる音を確認し、棍棒を構えようとした瞬間、巣穴の奥から強い風がアズールの全身に吹きかかった。右腕に鈍い衝撃が走る。
「くそぉ、まだゴブリンが居やがるのか!?」
吹き抜けた風を追うように振り返り、身構えようとした。
しかし、アズールの右腕は肘から下が消えてなくなっていた。
痛みは、ずっと遅れてやってきた。
「な、に……!?」
数歩よろけ、それでも左手で徒手のまま身構える。
視線の先には今まで見たことも無いようなゴブリンが立っていた。赤黒い皮膚、身の丈は二メートルを超すであろう巨体だ。他のゴブリンと違い、目はどす黒く濁っていた。
筋肉によろわれた身体には、いくつもの傷痕がある。
その右腕には、長大な剣が握られている。
剣に掘られた紋章に目を留めた時、アズールはうめき声を漏らした。
大型の盾の前で、剣が二本斜めに交差されている紋章。
それは、アルカディア王国聖騎士団の紋章であった。
「どうして化け物が、聖騎士団の剣を……」
ゴブリンが、ゆっくりとこちらに向かってきた。その身体には、よく見ると様々な傷がつけられていた。
抉られたような跡。火傷の跡。骨は数カ所歪に曲がっている。明らかに、何者かと戦ったか、痛めつけられている。グロウゴブリンの特性である怪我からの成長が、この化け物を作り出した事は間違いないであろう。
一体、誰がそんな事を。
今まで闘った事が無い程の巨体。
切られた者が気付かぬうちに腕を切り落とす程の速さと力。
そして、それと対する武器と右腕を失った、自分。
アズールは冷たい汗が伝う顔で、口の端を曲げて笑って見せた。
「こりゃあ、ちょっと勝てそうにねぇな」
十年以上、戦ってきた。
だからこそ、この状況が如何に絶望的か、嫌という程にわかった。勝機は、もう無いかもしれない。だが、諦めるという選択肢は、それ以上にありはしない。ここで自分が諦めてしまっては、この危険な化け物はにおいをたどり村に現れるだろう。
それより先に、自分を心配し洞窟に来た鏡花たちと遭遇するかもしれない。
「嬢ちゃんやガキを、この化け物と会わせるわけにはいかねぇよなぁ、サムライ。村の皆のとこには行かせられないよなぁ、そうだよな、ピピン、ハインリヒ」
やるしか、ない。
一つだけ、まだアズールには、武器があった。火油を着火するために持ってきたライターである。この小さな、指先だけで火を起こせる不思議な道具は、それ一つでは武器にならない。
だが、アズールは今ゴブリンの巣穴に火油の詰まった樽を放り込んだばかりである。
奥の方で、確かに樽が壊れる音がした。その場所までいけばこのライター一つで、大きな爆発を起こせるはずだ。
樽に満載された、この世界で最も燃えやすい油。
あれだけの量であれば、一度着火すれば、瞬く間に燃え上がるだろう。
向かい合ったまま、少しずつ下がっていく。
アズールはゴブリンを見据えたまま後ろ足に、巣穴の中にゆっくりと入っていった。武器を構えたゴブリンが、アズールを追って巣穴の中まで入ってくる。
その距離が徐々に縮まっていく。暗い巣穴の入り口から光がさしている。
巨大なゴブリンが、黒い影のように見えた。その影が、不意に消えた。
「来やがれ!」
両腕を広げたアズールの全身に、衝撃が走る。腹部に熱が走った。
真っ直ぐに突っ込んできたゴブリンの剣が、アズールの腹を刺し貫いていた。巣穴は狭い。ゴブリンが手にした長大な剣を振る事は出来ない、突きで来るはずだ。
その読みが、当たった。
「ぐっほ……。こ、これで……!」
大量の血が、口から零れた。
だが、アズールの闘志は消えていない。
いや、むしろ今までにないほどに燃え上がっていた。
左腕をがっしりとゴブリンの首に回す。肘から先の無い右腕も、腕全体を使いゴブリンの左腕を挟みこむように抑えた。
纏わり着くアズールを振り払おうと、ゴブリンが暴れだした。
左右に、そして前後に。
ゴブリンが暴れる度に、文字通り刺された腹部が掻き回される疼きに似た不快感を感じる。それでいて、痛みはまるで他人事のように遠くに感じた。アズールは、組合ったゴブリンの動きとともに徐々に後ろに下がっていく。
踏ん張る力が無いと踏んだゴブリンが、思い切り巣穴の奥に突進した。
岩壁に叩きつけられたアズールが、再び大量の血を吐き出した。
剣が乱暴に引き抜かれ、身体が崩れ落ちた。
それでも、右手で挟み込んだゴブリンの腕は離さなかった。血の臭いが、そこかしこに満ちている。その中に、生臭い油のにおいを感じた。地面についた膝が、ぬめりのある液体に触れた。
火油である。
真っ暗で見えない巣穴には、割れた樽から火油がそこらじゅうに溢れているはずである。その場所まで、なんとかたどり着いたのだ。
「ごほ、ぐう……! ここに、くりゃあ、よ……」
左手で、腰元に巻いた袋の中にあるライターを取り出す。
使い方は、鏡花たちの話しているのを聞いているし、花火を見せられた時に教わってもいる。こんな事になるのならば、一度くらい実際に花火への火付けに使ってみるべきであった。
一瞬の後悔のあと、真っ暗な闇の中で手探りでスイッチを探し、指を置いた。失血のせいか、眩暈がひどい。痛みはあまり無かった。
ただ、切られた腕と刺された腹が熱く、燃えるようであった。
ゴブリンの剣が左の肩に突き刺さった。
腕を掴んで離さないアズールを、なんとか引きはがそうと暴れている。指の感覚はある。出来るはずだ。
しかし、徐々に剣が肩口から身体の中心に食い込んで来た。
恐ろしい力である。
神経が斬られたのか、腕に、指先に力が入らなくなっていく。ここまで来て――唇を噛みしめたアズールの視界が、白く染まっていく。
血を、失い過ぎたのか。
かすんでゆく視界の奥に、何かがいる。
黒い、三つの人影。
影の輪郭が少しずつはっきりとしていく。
アズールは、懐かしさに包まれた。
「なんだ、よ……。俺を、笑いに……きた、のか?」
三人が、近づいて来る。このまま、死ぬのか。
ダメだ、あと少し、あと少しだけ、死ぬことは出来ない。
それだけは決して出来ない。
「まだだ! 俺はまだ……。まだやることがあるんだ! そうだろ!? なあ!?」
影に問いかける。
三人が、すぐ傍に立っている。
手が触れてきた。顔をあげる。
仲間たちが、頷いている。
もう少し、もう少しだけ――
金属の鳴る音に、アズールの意識が戻る。
剣が食い込んでいく身体に、痛みは感じない。目の前のゴブリンの動きが止まっていた。その身体に、鎖が巻き付いているように見えた。ハインリヒが使っていた、鎖鎌だ。
吠え声をあげかみつこうとしたゴブリンの喉元に、槍が突き刺さった。赤い布の巻かれた見覚えのある槍、ピピンの槍だ。
ここは真っ暗な巣穴の中だ、見えるわけがない。
そんな事よりも、死んだはずの彼らがここにいるわけがない。
それでも、アズールの全身に力が溢れた。指先に、感覚が戻る。皆が、傍にいる。真っ暗な中に、彼らが立っていた。血と油に塗れた左手に、誰かの手が添えられた。
『使い方、よくわかってないんだろ。教えてやるよ』
懐かしい声がした。
「うるせぇ、相変わらずお節介な野郎だ。おめえはよ、ここじゃなくって、他に行くべき場所があんだろ……」
小さく、微笑みを交わす。指先を、引いた。
小さな金属音がして、巣穴が小さな火に照らされた。次の瞬間、アズールとアズールが掴んでいるゴブリンの全身は、猛烈な炎に包まれた。火油は瞬く間に燃え広がり、炎が巣穴全体に満ちていく。
炎の中で、一人の男が笑った。
「さっさと行けよ」
炎に包まれたアズールの声は、業火にかき消された。
うねりをあげた炎が、何もかもをその身に包んでゆく。
「嬢ちゃん、ガキ。皆……、無事で……サムライ、後は、お前が……」
アズールが炎の中で膝をおり、そして、倒れた。