第五十五話 死線の先へ
「あれ? これやばいね」
バルコニーから戦場を見ていたレイムーンは、思わず声を漏らした。
ゴブリンの群の後方に、二匹のホブゴブリンが現れたのだ。一匹は右の肩と足に矢を突き立てている。腕にはどこから見つけたのか、長大な金属の塊を携えていた。
そしてもう一匹。
身体はそこまで成長していない。普通のゴブリンよりもせいぜい一回り大きい程度である。しかし、長く伸びた腕は太く逞しく発達していた。
そして、手に持った袋から次々と岩を取りだし、勢いをつけて放り投げている。
その攻撃方法はあまりにも原始的な投石であったが、飛距離はとんでもないものである。民家の屋根から教会前で戦うロディの所まで、ほとんど威力を失うことなく岩を投げつけていた。
鏡花の矢でさえ、投石を繰り返すゴブリンに真っ直ぐ届きはしなかった。アルコやルシーが扱うロケット花火も、投石するゴブリンに届く前に炸裂してしまう。
ここからでは、あいつを止める術はない。
ならば、接近戦を仕掛けるより他ない。レイムーンの決断は速かった。
弓を小脇に抱えると、ロープを垂らした場所まで駆け出した。
「レイムーン!?」
「鏡花、悪いけどここお願いね。あたしはあいつをやる」
短く告げるとロープを掴み、バルコニーから跳躍した。
教会の壁を数度蹴り、ロディの横に降り立つ。甲冑は至る所がへこみ、盾は片方がひしゃげている。これでは腕も深刻なダメージを負っているだろう。
それでも、目の光は少しも衰えていない。
「ちょっと行ってくる。もう少し粘ってて」
「頼む」
ロディの返事は短かった。それが、レイムーンには嬉しかった。
手を振り駆け出す。
背後でゴブリンの気配を感じたが振り返らなかった。後ろにはロディがいるのだ。追ってこれるはずはない。
坂道から民家の屋根に飛び移る。目指す投石ゴブリンはまだ先だ。
屋根から屋根へ、身軽に飛び跳ねながら、岩を構えたゴブリンに矢を射かけていく。相手にたじろいだ様子はない。レイムーンの短い弓と矢では、ホブゴブリンには大きなダメージを与える事は期待出来ないかもしれない。
それでも、矢で注意を逸らせばロディへの投石を妨げる事は出来るだろう。
(目……。視界を奪えば……)
ダメージを与えきれないのであれば、狙いは目に絞る。
ホブゴブリンの投石は恐ろしく発達した腕の筋力と、遠く離れたロディの位置をしっかりと捉える目の良さからきているはずだ。
分厚い筋肉によろわれた腕を今の武器で止めるのが難しい。
ならば、敵の視界を封じるしかない。
屋根に、レイムーンを追って数匹のゴブリンが這い上がって来た。
飛びついて来たゴブリンを跳躍して躱す。身を翻し、空中で弓を引く。地面に降り立つ時には跳びかかって来たゴブリンの両目には矢が刺さっていた。
視界を失ったゴブリンが、悲鳴のような鳴き声をあげながら屋根から消えた。
それでも、なお数匹のゴブリンがレイムーンに向かってくる。奥には投石ゴブリン、そして目の前にはそれぞれの武器を携えたゴブリンが迫っている。
風を切る音。
咄嗟に横に飛んだレイムーンの鼻先を巨大な岩がかすめた。
投石ゴブリンは狙いをロディからレイムーンに変えたようだ。周囲を取り巻くゴブリンの包囲網も、じりじりと小さくなっていった。
危機的な状況に、レイムーンは全身の火照りを感じた。
脳が、死と隣合わせの危険を告げるサインを出している。
それが、身をよじりたくなるほどの快感であった。
死、すれすれの中で生きている。
絶対的な正義であるロディという存在意義に寄りかかり、死線を歩く。自分の身が危なければ危ない程に、レイムーンの身体は昂っていく。
「イイ! いいよぉ、さあ、どんどん掛かって来なよ。うふふ、あははははは! 全員ぶっ殺してあげるよ!」
包囲網がいよいよ狭まってくる。この距離では弓は何度も引けないだろう。
腰に刺したナイフを二本、抜いて構えた。
右の一匹、走り込んで来る。
距離をつめ、振り下ろされるゴブリンの腕に右手を添えて、軌道をずらす。
すれ違い様に左手のナイフを一閃した。そのまま真っ直ぐに駆ける。
首を切られもんどりうったゴブリンの後ろにいた一匹は、まだ武器を構えてもいない。右のナイフで首筋を切り、腕を振った勢いそのままに身体を半回転させ、左のナイフを顔面に突き立てた。
三匹目は攻撃を躱し、無防備になった腕を切りつけ、二撃目で腕を切り落とした。
「もっと来い! もっと! もっと、もっと、もっと、もっと!」
どうしようもなく身体が熱い。
それを抑える必要も無かった。
ゴブリンの横をレイムーンが駆け、飛び跳ねるたびに、魔物たちの血が舞う。飛来する岩を避け、攻撃を躱し、噴きだす血を浴びながら屋根の上を舞う。五匹目を切り倒した時、レイムーンは投石ゴブリンのすぐ傍の民家に降り立っていた。
熱っぽい吐息を漏らす。だが、頭は冷静であった。
ナイフを逆手に持ったまま、弓と矢を構える。
至近距離、放つ。
それでもホブゴブリンは矢に反応してみせる。野太い腕を盾にして、矢が何本刺さってもものともしていない。
ホブゴブリンが二本の太い腕を思い切り振り回し、レイムーンを威嚇する。距離が離れればすぐさま岩を放り投げてきた。
接近戦も遠距離戦も、どちらもこなせるというのは厄介であった。だが、レイムーンは投石をするホブゴブリンに一つの弱点を見つけていた。
それは目の前のホブゴブリンの強みでもある、発達した腕であった。
太く逞しく、そして異様に長く発達した腕。
それは近距離でも遠距離でも自在に襲いかかってくる、脅威的な存在である。だが、あの腕も、決して腕という範疇を超えている訳ではない。
レイムーンがその動きと正対し見つけたもの、それは関節の隙間である。
長く太く発達した腕は、それでも関節が増えたわけではない。
肩、肘、手首――関節と関節の間は、腕が長く太い程隙間が出来る。
それは構造上当たり前の事であった。
その腕の隙間を縫うことが出来れば、つまりホブゴブリンの懐まで潜り込むほどの密着した距離であれば、レイムーンの細い腕はいかようにも動けるはずだ。
狙うは目、そして首である。
目は手で塞がれれば攻撃もしにくくなるが、首をがっちりと護り切るのは難しいだろう。長い腕が邪魔をして、腕で首を覆ってもどうしても隙間が出来るのである。
両手の掌で抑える事は出来るかもしれないが、そうなればその時こそ、がら空きになった目を攻撃するチャンスが来るだろう。
投石と腕の振り回しを掻い潜り、密着状態に持ち込めるのかが勝負である。
やるしかない。
あとは、負ければ死という、殺し合いの中では当たり前の覚悟を決めるだけだ。そんなものは、遊撃隊に所属した時にとっくに決めている。レイムーンの口許に、無意識に笑みが浮かんでいた。
「いくよ」
低く小さな声。駆けた。
岩が二つ三つと投げられる。出来る限り速度を落とさないように、ギリギリでそれを躱す。三つめの岩が頬を掠める。その熱を感じた時には、レイムーンはホブゴブリンが暴れ回る民家の屋根まで到達していた。長大な腕が襲いかかって来る。
左右から大振りに迫りくる攻撃を、身を低くして掻い潜る。
空隙をつき懐に飛び込むと、ナイフを構えてホブゴブリンの顔面に向けて飛び込んでいく。ホブゴブリンは後ろに下がり飛び込んできたレイムーンのナイフを避けた。
レイムーンが飛び込んだ勢いそのまま、足を伸ばしてホブゴブリンの膝に右足をのせる。その右を軸足に、身体を一気に持ち上げた。
迫りくるナイフに、咄嗟に腕を引き目を守るホブゴブリン。
宙返りの要領で空中で回転し、ホブゴブリンの頭を掴み跨った。肩車をされるような姿勢でホブゴブリンの肩に跨ると、思い切りナイフを握った右腕を目の前の相手の首に回す。
ぐるりと右側から左の後ろまで回した腕の中でナイフを刃を逆手向きにして握り、深々と突き刺した。
ホブゴブリンの悲鳴が、レイムーンの鼓膜を揺らす。
しっかりと突き刺さったナイフが首の骨にめり込む感触を確かめると、一気に腕を引き、首をぐるりと切断するために切り裂いていく。
ホブゴブリンの首の左半分を大きく切り裂いた所で、ナイフの刃が止まる。
恐ろしく頑強な骨を、ナイフの刃が断ち切れないのだ。
「はあああああぁぁぁぁぁ!」
片足をホブゴブリンの後頭部にかけ、渾身の力でナイフを引いていく。
メリメリと、少しずつ刃が進んでいった。ホブゴブリンの腕が、後ろに跨ったレイムーンを振りほどこうと何度も襲いかかってくる。それを空いている左手のナイフで払いのけ、上半身を動かして身をかわしてゆく。
身体の至る所に、ホブゴブリンの爪で切り裂かれた赤い裂傷が刻まれていく。
そんな事は構いもせずに、全力で右手のナイフを進めていく。
「さっさと、死ねぇぇぇ!!」
両足を後頭部にかける。
ナイフを掴んだ右手に左手も添えた。
これで相手の攻撃を振り払う事は出来ない。知った事では無かった。思い切り上半身を後ろに倒し、全体重全脚力、全腕力、全身全霊を込めてナイフを引いた。
それでも、ナイフはあるところから進まない。全身の動きも止まってしまう。
ダメか――だが、まだあと一つ、方法があった。
滅茶苦茶に振り回されたホブゴブリンの腕が、鈍い音をたててレイムーンの腹部を強烈に捉えた。
これを、待っていた。
口から血が噴き出る。
骨が砕かれる嫌な音を、体全体で感じた気がした。
腹部に走る意識が遠のくほどの痛みの中で、レイムーンはそれでも笑っていた。自分自身が持つ全ての力を乗せてもダメならば、どうするか。その答えはこれであった。
腹部に受けた衝撃をそのまま両脚に乗せる。ホブゴブリンの恐ろしい腕力がそのまま、突き刺しているナイフの先端にまで伝わった。
左側の側面奥深くから、右側の側面まで。
ホブゴブリンの攻撃の力さえも上乗せしたナイフが、深々とホブゴブリンの首を切り裂いた。両脚で乗っていた肩を思い切り蹴りあげ、ホブゴブリンから身を離す。
くるりと回転し、地面に降り立つ。
レイムーンの視線の先で、首の大部分を切り裂かれたホブゴブリンがフラフラと首を揺らして辛うじて立っている。
「楽しかったよ。じゃあね」
ナイフを一閃した。
ホブゴブリンの首が、宙を舞い地面に落ちた。
身体が崩れ落ちたのは、ずっと後であった。
勝った。
そう思った途端、全身の力が抜けレイムーンは膝から崩れ落ちた。民家の屋根に倒れ込む。
「結構、無理したね。我ながら……」
教会に視線を向ける。複数のゴブリンに囲まれたロディが戦っている様子が見て取れた。倒れ込んだ場所からでは、バルコニーの上は良く見えない。下の戒斗も見ることが出来なかった。
「皆のとこに、行かなきゃ……」
全身に力を込め、立ち上がろうとした。
しかし、かすかに起き上がった身体が後ろに傾く。そのまま、重力に抗えず今度は仰向けに倒れ込てしまった。
空と地面が反転したレイムーンの視界に、ゴブリンたちを引き連れてきた森が映った。
「あのオッサン……、ちゃんとやってんの?」
未だ火の手が上がらない森を見つめて、呟いた。
どこもかしこも、苦戦している。
行かなければ。
それでも、レイムーンは身体を起こすことが出来なかった。
「ちぇ……、少し、休まなきゃ、ダメっぽい……」
腹部から溢れる血を吐き出し、レイムーンは力の入らない手で血止めの粉を手探りで掴み取った。