第五十話 前夜
ロディが決戦の日取りを明日と決め、最も大変だったのがレイムーンとアズールである。
二人は準備もそこそこに、油をつめた樽を担いで森の中に進んでいった。
なんとか陽が沈み切る前にアズールの潜伏場所に樽を設置する事が出来たが、帰りの道は駆けに駆ける事となった。
「明日の良い準備運動になったろ、オッサン」
それでもレイムーンは殆ど呼吸も乱さずに笑って見せた。
若いレイムーンの元気に、アズールは苦笑するしか無かったが、確かにこの程度で弱音を吐くわけにもいかなかった。
それにあの聖騎士の思いは、村の人間であるアズールは他の誰よりもわかる。平和を愛し静かに暮らしていた者達が、戦に備えて連日駆り出されるのだ。
それは、アズールにとってはただただ悲しい事であった。
ロディの元に報告に行くというレイムーンと別れ、アズールはロンメルとアルコの家を目指した。
夕餉に誘われていたし、鏡花と戒斗の事が気になったのだ。
サムライと自分が助けた異世界の少女。そして、あのサムライの息子。
二人が今、村の存亡に関わる決戦に自分の意思で参加しようとしている。
その事実に、アズールはどこか宿命的なものを感じた。皮肉な宿命である。
そして何よりも、自分の無力さを恥じた。
自分がもっと強ければ、戦いはずっと前に終結させられていた。
誰一人、死ぬことだって無かったはずだ。
ピピンも、ハインリヒも、そして、サムライも。皆、村を護るために戦って死んでいった。
自分だけが生き残ったのは、自分が誰よりも臆病で弱かったからではないのか。
その弱さが、鏡花を戦いに呼び、戒斗に父の死と因縁を与えてしまったのではないか。
そう考えると、叫び声をあげたくなる。わが身の至らなさに、今すぐゴブリンたちの中に飛び込んでいきたくなる。その苦しみも、明日で終わるのであろうか。
アズールは大きく首を振った。
今は、そんな事をうじうじと考えている場合ではない。
勝てる、今度は勝てる。
ゴブリンをおびき寄せ、戦いやすい環境で戦い、その上奴らの巣さえも同時に焼き払うというロディの作戦は、賭けの要素もある。
だが、成功すればその効果は絶大であろう。うまくすれば、この近辺からゴブリンを完全に排除出来るのだ。万が一失敗しても、狼煙をあげれば騎士団の有志が増援に来るのだという。
あれこれと思案を巡らせる必要は無い。自分は用意された戦場で全力で作戦を遂行し、目の前の敵と戦えばいいのだ。
アズールは、ロンメルの家に向けていた足を止めた。
明日が決戦という今、あの二人にかける言葉が、どうしても見つからなかったのだ。
無理はするなよ、絶対に死ぬなよ。
感情だけが先走ってしまい、そんな言葉しか彼の頭の中には思い浮かばない。
それでも現実問題として、村は戦場になるのだ。
ゴブリンたちが通過する森も危険だろう。
あの二人には、いざという時に逃げる場所なんて存在しないのだ。危機に陥っても、無理をするしかない。それでも負けてしまえば、死ぬしかないだろう。
戦いの場ならば当たり前の結末が待ち受けているのだ。
そんな戦いを目の前にした二人に、気の利いた言葉が見つからなかった。
このままではただただ、己の無力さを謝罪し始めない。感情のまま思いを口にしかねない。
それは、余りに無責任ではないか。
『不器用な奴だな』
そんな声が聞こえた気がした。
懐かしい、仲間の声である。
「ああ、不器用だよ。俺も、お前も……」
見えない友に返事をして、夜空を見上げる。
雲一つない空には、いくつもの星が輝いている。
夜空に、手を伸ばす。
あいつの星はどこだろう。
広げた手の中でさえ、星はなお輝き続けるのだろうか。
答えの出ない問いかけを、心の中で繰り返し尋ねた。ともに戦った仲間たちは、ただ微笑み返すばかりであった。
・・・
「ロディ、戻ったよ!」
レイムーンが報告に戻った時、ロディは教会のバルコニーから村を見下ろしていた。教会を要塞化し始めたころから、彼はよくこうして村を眺めている。
「戻ったか、レイムーン。どうだった?」
「問題無し。火を付ければ着火するのも、燃え上がるのも速い動物の油をつめた樽だ。ライターってのや松明で触れればあっという間に燃え広がるよ。これならアズールもきっとうまくやるさ」
「そうか、ご苦労だった」
ロディはレイムーンに向けていた視線を、再び村に戻した。
レイムーンもその隣まで歩み寄り、村を見る。
「静かだね」
「ああ。本来の姿は、こうした穏やかなものなのだろう。といっても、今は明日に備えて休んでいるに過ぎない。速くこの村に真の平穏を取り戻さねば」
「そんな事を考えながら、暇があればずっと村を見ているの?」
「我々はこの村に来たばかりだからな。少しでも地形をしっかりと頭に入れておきたい。それに、しっかりとこの風景を見ておかないといけない。そうして胸に刻み込むのさ」
「刻み込む? 何を?」
「この村を護るという、責任を。私が建てた策は、村を巻き込むものだ。失敗は許されない。その責任を自分の中に刻み込まなくてはならない」
胸の前で拳を握りしめるロディを見つめ、レイムーンはため息を漏らした。
「息苦しくならない? そういうの」
「騎士として、当然の心構えだ。何でもない、とは言えない。重圧は感じる。だがな、人の命を預かる戦いなのだ。重圧の一つや二つ、いいや、いくつだって望むところだ」
「堅いねぇ。まあ、そんなところが好きで、あたしは付いていってるんだけど」
バルコニーの手すりに足を掛け、そのままよじ登った。
石造りの手すりは十分に厚みがあり、立って歩く事も容易であった。少し高くなった足場から、じっと空を見上げる。
「ロディの真面目なとこ、好きだよ。あんたに付いていけば、道を誤る事はないって、あたしはそう信じてる。でもさ」
振り返る。
ロディは相変わらず村に視線をむけたままだ。
その視線の先にたち、無理やりに視界を奪う。しゃがみ込み、手を伸ばした。大剣を自在に振り回す割には細い首筋に、そっと両腕を添えた。
「死んじゃだめだよ、ロディ。ロディがいなくなったら、あたしは道しるべを失う。絶対に、死んではダメ」
「私は死なない。死ぬ事など、許されないのだ。私には、命を預かっている責任がある。その責任を背負ったまま死ぬ事など、決してあり得ぬ。レイムーン、お前こそ無茶はするなよ」
「あたしから無茶を取ったら、なんにも残らない」
立ち上がる。
ロディの視線がレイムーンを追っている。その視線を感じながら、狭い手すりの上でレイムーンは踊るようにターンをした。
青白い月明かりを受けて、長い銀髪が宝石のように輝き、舞う。
一頻り手すりの上を動いたレイムーンの影が、突然消えた。
「レイッ!?」
慌ててバルコニーから顔を出したロディに、ロープを伝って下に降りたレイムーンは笑って手を振った。
「たまにはそんな風に慌ててくれてもいいんだよ。あんたには、あたしがいるでしょ。ウィンも、スカサハもね! ロディ、あんたは一人じゃないよ!」
「レイムーン! お前というやつは!」
大きく手を振る向こうに、呆れ顔の遊撃隊長の顔があった。
少しは、彼の緊張をほぐすことが出来たであろうか。
自分があの男のために出来る事は、一体どれ程あるのだろう。自分の言葉を思い返し、少しだけ照れくさくなりながら、レイムーンはもう一度大きく手を振った。
手を振り返したロディの影は、夜の闇に遠く見えた。