第五話 弓を引く少女
子供は暗い森を険しい木々や草むらを器用にぬって走ってゆく。
ゴブリンはさらに奥まで逃げたのか、戒斗の位置からはその姿さえ見えない。
戒斗は慣れない道に苦労しながら子供を追った。
大きな弓を持った女性は走りずらそうにそのあとに続いている。
森を抜けると、大きな湖畔が目の前に広がっていた。湖畔といったが、さっき見た泉の、別の場所の水辺かも知れない。
子供が立ち尽くしている。どうやらこの子もゴブリンを見失ったようだ。
「おい、子供が一人であんな化け物を追いかけちゃ、危ねえぞ!」
追いついた戒斗は、子供が再び走り出さないようにしっかりと手を取った。
「ゴブリンは!?」
「見失った」
続いて森を抜けてきた女性の問いに、戒斗が首を振った。
「どうしよう……」
子供が泣きそうな声をあげる。
「大丈夫だ、あいつはもう頭にでっかい怪我をしている。あまり長く生きられないって。いや、もうどこかで倒れているかもしれない」
戒斗が安心させるように、かがんで子供に目線を合わせる。
子供は怯えた顔を左右に動かした。
「ダメだよ、ゴブリンはどんなに怪我をしたって、やっつけないとその怪我を治しちゃうんだ。怪我を治して大きくなっちゃうんだよ」
泣きそうな声で震えている子供の髪を、少しでも安心させようとそっと撫でる。
女性も歩み寄り、子供の頭にそっと手を置いて落ち着かせようとしている。
「詳しい話しはあなたのおうちで聞くわ。とにかく、今は安全な場所まで行きましょう」
優しく促した女性の言葉を無視し、子供がゆっくりと泉に向かって歩き出す。
手をつないだ戒斗も一緒に泉まで歩く。
水で顔やどこかを洗いたいのかも知れない。女性も子供を護るように、子供のすぐ後ろに立って月明かりの元辺りを見回している。
その女性の履いている袴のオレンジ色の刺繍が見えた。
先程は森の暗闇で見えなかった刺繍には、はっきりと如月高校と縫い付けてあった。
「えっ……」
その文字を呼んだ戒斗が、思わず声を漏らす。
目の前に立っているこの女性は、自分と同じ高校に通っているのであろうか。
確かに、明かりの元で見た彼女の顔は自分に近い年齢に見えた。
「君は……」
戒斗が女性に声をかけようとした時、泉のほうで水の弾ける音がした。
戒斗と女性が、同時に身構えて水面のほうに振り向く。
戒斗の手を払った子供が、泉に向けて何か石のようなものを投げ込んだらしい。そのままお祈りをするように手を組んだ。
「泉の神様、どうか私たちの村を助けて下さい。サムライさんを、もう一度村に連れてきて下さい。お願いします、どうか村を護って下さい。神様……」
泉の水辺で座り込み、少女が祈りはじめた。
ポケットから取り出した石を泉に投げ込む。再び泉が水音を立てた。
戒斗にも聞こえないくらいにか細い声で、少女は更に祈りの言葉を繰り返している。
一生懸命に祈っている少女には悪いが、この子を速く安全な場所まで連れていかねばならない。
それに戒斗も、ゴブリンと呼ばれた異形の生き物と戦って、心身とも疲れ切っていた。安全な所に、家に帰ってゆっくり休みたかった。
見たことのないこの風景の中で、唯一見慣れている泉を見つめ、速く住み慣れた場所に帰りたいと強く思った。
その瞬間、戒斗は強い眩暈に襲われた。
「うっ、またか……」
公園の空き地で素振りを繰り返していたあの時に感じた、立っている事さえ出来ないほどの眩暈に襲われる。
視界の片隅で、女性もうずくまっているのが見えた。
子供が二人の様子に気付いて声をあげる。
「お兄ちゃん!? お姉ちゃんも、どうしたの? 大丈夫!?」
少女の叫び声がどんどん遠のいて行く。
意識が途切れてしまいそうなほどに頭が重い。戒斗の視界が、徐々に暗くなっていった。
「速く、おうちに、帰るのよ……」
苦しそうな女性の声が、かすかに耳に響く。
そうだ、この子を家まで送らなければ……。
「……くっ、前が、見えない。この俺が、くそ……この子、を、家に……」
戒斗はあまりの眩暈と身体の重さにがっくりと膝を折る。
頭がどうしようもなく重く、痛む。
頭を抱えるようにして俯く戒斗。
あの子を安全な場所まで送らなくては――
その思いは虚しく、戒斗の意識は急速に遠のいて行った。
・・・
「う……ここ、は……?」
強い眩暈が少しずつ引いてゆく。
戒斗が痛む頭をあげ辺りを見回すと、そこには今まで何度も稽古のために通ったあの空地と公園の風景があった。
木刀も握っているし、竹刀入れも横に置いてある。
取り出したスマートフォンにも、電波がしっかりと入っていた。
「さっきのアレは一体? 夢……?」
そのスマートフォンには母からのメールと着信を示すランプが点灯していた。
時刻を確認すると、すでに八時半を回っている。
「いけね! 家に帰らないと!」
慌てて右手で竹刀入れを持ち上げ、立ち上がる。
その瞬間、右腕に痛みが走った。
「っつ! え、この傷は……!」
右腕には、あの不思議な世界で行ったゴブリンとの組合いの際に握られてついた爪跡が、赤い液体とともにしっかりと残っていた。
「夢じゃ無かったのかよ……! じゃあ、あの子はどうなったんだ……」
戒斗は傷の痛みよりも、あの世界とゴブリンという生き物の存在が、夢や幻ではなかったという事に愕然として立ち尽くした。
あの世界は一体なんなのか。
その時、戒斗は一つの事を思い出した。
突如現れ、弓を放ち、戒斗を援護してくれた女性。
彼女の着ていた袴には、確かに自分が通う高校の名前が刺繍されていた。
――あの女性ならば、何か知っているかもしれない。
山のように積み重なった疑問と子供への心配の気持ちを抱えながら戒斗は歩き出す。
公園の入り口の駐輪場に向かった。
母をこれ以上心配させたくはない。
それは、自分は親父とは違うという抵抗の気持ちでもあった。
スマートフォンの電話帳から、母の名前をクリックした。
・・・
(やはり、あの時の出来事は私の思い込みでは無かったんだ……)
眩暈によって痛む眉間に右手を添えて立ち上がり、弓を持った少女――葉山鏡花は辺りを見回した。
「あの時と、おんなじね」
目の前には、日々自分自身の訓練に使っている見慣れた泉の光景が広がっていた。
恐らく、あの世界と自分自身の現実世界を繋いでいる場所は、ここで間違いないだろう。
鏡花は弓をひいた事で赤くはれ上がった右手を見つめた。
「生き物に矢を向ける事が、こんなに怖い事だったなんて思いもしなかった」
本来、弓を射る時には右手を保護するための『かけ』と呼ばれる特殊な手袋をつける。
だが、今日の訓練では鏡花はかけを付ける事を怠っていた。
弓道場に居られなくなった後にこの泉のほとりで行う自主練習では、勿論矢をつがえて弓を引き、矢を放てる場所など無い。
せいぜい、こっそりと矢を弓に当てて型の練習をするくらいである。
鏡花はこのほとりで毎日、主に弓に矢をつがえずに練習用のゴム弓を併用していた。
「いつあっちに行ってしまうかわからない。その上、世界を移動する直前は眩暈で動けくなる。となると……。かけも矢も肌身離さないようにしないとダメね」
鏡花が眩暈を感じ、違う世界に移動した際、足元に置いてあった矢筒や装備一式は一緒に移動することは無かった。
練習につがえていた二本の矢で戦うという選択肢しかなく、もしもあの時もう一匹ゴブリンが現れていようものなら、鏡花はなす術もなく敗北していたであろう。
いや、あの木刀を携えた少年がいなければ、一匹さえ倒すことはかなわなかったはずだ。
(あの人に、どこか似ていた……)
少年の姿を思い浮かべる。
遠い日の記憶が蘇る。
かつて、無力だった自分を未知の世界から救ってくれた、大きな背中。
少年が剣を持って戦う姿が、どこかあの人を思い起こさせた。
それは、遠い遠い記憶であるとともに、鏡花を支える、一縷の望みであった。
今のままでは、あの小さく震えていただけの幼い頃の自分と、何も変わってはいない。
鏡花は拳を握りしめ、歯ぎしりをした。
「もっとよ。もっと強くならなきゃ。……私を救ってくれた、あの人のように」
左手に持っていた弓を大きく振りかぶり、泉に向けて矢をつがえた弦を引き絞る。
「もう、あんな過ちは繰り返さない」
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