第四十四話 二つの背中
公園の入り口のポールを超えて進んでいく。
弓と矢筒を抱えた腕に疲れを感じたが、鏡花は構わず進み続けた。物置での窮屈な眠りのせいか、少し身体がだるい。
持久力という観点ではあまりトレーニングを積んでこなかった事が悔やまれる。少し後ろを歩く戒斗は物思いにふけったり花火を見つけたりと、まだまだ元気なように思えた。
(こんなんじゃ、決戦の途中でばててしまう。しっかりしないと)
自分を叱咤して、公園の中心、泉を目指して進んでいく。
数日前も、こうして荷物を抱え、戒斗とともにこの道を歩いた。
あの時も、戦いに行くという決意を胸に進んでいた。あの時と違う事は、目指していた背中が無くなってしまった事か。
そして、目指していた背中が背負っていた使命を、今度は自分たちが担うという事だ。
無言で進み続ける鏡花を察したのか、戒斗も黙って付いて来た。
泉のほとり、戒斗がいつも稽古をしていたという、村に続く道まで出やすい場所まではすぐについた。
「ついたー! こう暑いとかなわないな」
額に浮かんだ汗を拭いながら、戒斗が声をあげる。
鏡花もその影で大きく息をついた。
一度荷物を置き、疲れた腕や背中を大きく伸ばす。水辺の空気を思い切り吸い込み、ゆっくりと呼吸する。夏の陽射しは今も容赦なく照り付けているが、コンクリートの地面に比べると、泉のほとりはずっと涼しかった。
戒斗が泉のすぐ傍に立ち、空を仰ぐかのように大きく伸びをしている。
ここから見える背中は、最初に森の奥で出会った時よりもずっと落ち着いて見えるのは、共に戦った仲間という信頼関係から来る錯覚であろうか。
だが、戒斗は実際にこの数日でずっと逞しくなったのではなかろうか。
学校の集会で全国大会への意気込みを語っていた時よりも、今の方がずっと落ち着きもあり、武器を手にしたときの凄味も増している。
学校の道場でちらりと見た時は軽そうに見えた構えも、今では頼もしい。
九年前に見た、あの背中と、今の戒斗の背中。
それはとてもよく似ていて、決定的に違うもの。
その二つを重ね合わせるような事はしない。
戒斗の背中を見つめながら、鏡花は小さな決心をした。
パーカーのポケットの中に入れた向こうの世界の石に触れる。これが、世界を移動するための切符である。鏡花は逸る気持ちを抑えながら、戒斗に歩み寄る。
「いつ、行こうか?」
傍に立ち、泉のほとりに並んで立った鏡花に、戒斗が短く声を掛けて来た。
「私は、いつでもいいわ」
「俺も、いつでもいい」
戒斗は鏡花に向けられた目を真っ直ぐ受け止めて、頷いて見せる。
「お母さんには、もういいの?」
「いいんだ。絶対に、帰ってくるから。帰って来てから叱られるさ」
「その時は、一緒に怒られてあげるわ」
「ありがとう」
もう一度、戒斗がほほ笑んで頷く。
鏡花も頷き返すと、二人は荷物を抱えて泉に向き直った。
鏡花は向こうの世界で待つ皆の名前を、心の中で何度も呼び続けた。今、行くから。待っていて。
戒斗が竹刀袋の中に手を入れた。
袋の中では刀に手をかけているはずだ。向こうの世界にいけば、いきなりゴブリンに襲われる事だってある。鏡花も、弓にまいている布をいつでも外せるように緩めた。矢筒の留め金はとっくに外してある。
「行きましょう」
空いている右手をパーカーのポケットに入れる。
中に入れていた石を一つ取り出し、握りしめる。
アルコは、夜に月の女神に祈りを捧げ石を投げると言った。
だがこの世界に月の女神というものは、恐らく存在しない。それでも何か、月や夜は泉に作用しているのであろうか。それとも、どんなに明るくても移動は出来るのであろうか。
月の光とは、太陽の反射でしかないのではないか。
鏡花は、動き出した思考をとめた。
深く考える必要の無い事なのだ。今ここで、試してみればいいだけの事。
そう思い直し、ゆっくりと石をもった右腕をあげる。目の前の泉に石を投げようとした時、ほんの一瞬、鏡花の脳裏に両親の笑顔がよぎった。
家族で笑いあったのは、何歳の時が最後であっただろう。幼い鏡花の言葉を信じない両親と、向こうの世界しか見ようとしない自分。その溝は何時しか、埋めようと思ってもどうしようもない程に深くなっていた。
もう少し、自分がうまく接する事が出来たなら。
その悔悟の念を振り払うように投げた石は、大きな放物線を描き泉の奥に消えた。
水面に石が当たる音は、少し遅れて聞こえて来た。弓を握る左手に、力がこもる。横に立つ戒斗も、緊張した面持ちで水面に目を凝らしていた。
今までに数度経験した、強いめまい。
世界を移動する時に訪れる抗いがたいめまいが鏡花に襲いかかる。
膝を折るまいと歯を食いしばる鏡花の視界が歪む。頭が割れるような痛みの中で冷や汗を流し、それでも鏡花は安心感を得ていた。
これで、向こうの世界に行けるのだ。
これで、戦えるのだ。
歪む視界の中で、まだあいまみえていない敵を思い、静かな闘志が牙を剥く。
研ぎ澄まされた感覚が、痛みを押しのけるように頭の奥でうずいている。
歪んだ視界が真っ黒な闇に包まれた。そして、永遠とも思える激しい頭痛と共にその闇が視界からゆっくりと消えていく。重い頭を持ち上げて周囲を見回すと、そこはこの数日で何回も訪れた、音の無い森であった。
「無事に、着いたの?」
「そうみたい」
横では戒斗が頭に左手を当てながら膝を折った姿勢から起き上がっていた。
右手はしっかりと刀に添えられている。起き上がるよりも先に袋から取り出し抜刀したようだ。
鏡花も弓にかかった布を引いた。衣擦れのような音がして、青い布がはらりと舞った。
「鏡花、歩ける?」
「平気よ。どうって事無いとは言えないけど、多少は慣れたから」
「よし。村が心配だ。行こう」
大きく息をついた戒斗が、痛みを払うように頭を振って前を歩き出す。
その背中を、じっと見つめる。
一足飛びに大きくなっていくような背中に、負けるわけにはいかない。
矢筒から矢を抜いた鏡花が、弓を構えてその背中を追いかけた。