第四十二話 一人きりの母へ
「……いと、戒斗。起きて、戒斗」
浅いまどろみの中から、鏡花の声がする。
重い頭を持ち上げて、うっすらと目を開く。まばゆい日差しが、わずかに開けた目蓋の隙間から差し込んで来た。
逆光になった鏡花のシルエットが、黒い影を落とした。
「んん、鏡花?」
「おはよう戒斗。両親が出かけていったわ。家に入りましょう、起きて」
「家……。ああ、そうか」
寝ぼけた頭に昨夜の記憶が蘇る。
暑く狭い物置で、それでも身体を休めねばと、壁に背を預け寄り添い眠ったのは、何時頃であったか。
二人がもつスマートフォンはすでに充電が切れ、闇の中腕時計も見れず、眠った時間も確認する事が出来なかった。
目をこすりながら左腕に目を落とすと、時計の針は九時半を指している。鏡花の差し出した手をつかみ立ち上がると、物置を出た。
眩しい夏の日差しが、二人を包む。
「いってて。さすがに物置の中で座って眠るのはきつかったかな」
「まあ、仕方ないじゃない。なんなら私の部屋で少し仮眠をとればいいわ。とりあえず、家に入りましょう」
「了解」
服についたホコリをはたき落としながら、二人は玄関まで歩く。
鏡花の落ち着き払った様子を見ると、家の中が無人である事は間違いないようだ。戒斗が眠っている間も、物置でずっと耳を澄ませていたのかもしれない。
カギを開けて家の中に入る。広い玄関で靴を脱ぐと、差し出されたスリッパをはき、鏡花の後に続いてすぐ横の部屋に向かう。
「着替えるから、ちょっとここで待っていて」
部屋の前で鏡花が振り返り短くそういうと、ドアの奥に消えた。
戒斗はする事も無く、廊下の奥に目を遣った。少し離れた所にテーブルが見え、その上にはいくつか果物が置いてある。ダイニング脇には花瓶が置かれ、きれいな花が生けてある。
家の小奇麗さと調度品の品の良さが、上流階級のようなイメージを抱かせるものの、なんの変哲もない一般家庭の家の風景と思われた。
一晩娘が家に帰らない状況を感じさせるようなものは微塵も無かった。
家で、帰らない娘を待つことも無く、両親ともにどこかに出かけているようだ。
背伸びをして目を凝らし、テーブルの上を見る。
だがそこにもメモ書き一つ置いていなかった。戒斗の帰りが遅い時、母は自分が出かける時は必ずなにか書置きをしていたものであった。
「お待たせ、入って。……どうかした?」
ちょうど背伸びをして奥を見ている時に、ドアが開き鏡花が顔を覗かせた。
戒斗はあわてて首を横にふる。
「何でもないよ、ちょっと暇だったんで、奥に何があるのかなーって見ちゃってたんだ。悪い悪い」
「別に、見てきても構わないわ。面白いものは何にもないけど。あ、今何か朝ごはんになるもの探してくるから、良かったら先に部屋で待っていて」
素っ気なく言うと、鏡花が奥に引っ込む。
昨夜見せたどこか儚い、いじらしいような表情はすっかり影を潜め、出会ったころの鏡花に戻っている。
ちょっとだけ寂しい気持ちになって、昨晩重ねていた右手をそっとなぞる。
「お邪魔します」
一声かけて鏡花の部屋に入る。
綺麗に片付けられた、物の少ない部屋である。鏡花はロングスカートにパーカーというラフな出で立ちに着替えていた。ずっと胴着姿と制服しか見ていなかった戒斗には、鏡花の私服が新鮮であった。
ふと、その部屋の片隅に一つのトロフィーが置いてある事に気がついた。なんの飾り気も無く本棚の端に置かれているそれは、ただそこに置いただけ、といった感じであった。
近づき、トロフィーの台座に刻まれた文字を読む。
「2012年、関東大会高校の部、優勝。葉山鏡花殿……。関東大会優勝!?」
二千十二年と言えば、自分たちが高校一年生のころである。
鏡花はその頃ですでに地方大会で優勝するだけの実力を持っていたという事なのか。集会など真面目に聞くことの無い戒斗には、弓道部の戦績などは記憶に無い事であった。
だが、ようやく三年生になった今年、県大会を制し、これから地方大会、全国大会を控えた戒斗としては、恐るべき快挙であった。
「お待たせ。有り合わせのパンとジュースしか無いけど……。どうかした?」
お盆にパンとコップをのせて戻ってきた鏡花が、本棚の前でマジマジとトロフィーを見つめていた戒斗に声を掛けた。
「鏡花、これ!」
「ああ、トロフィーね。私にはどうでもいいものだけれど、家族がきちんととっておけって言うから」
「どうでもいいって……。関東大会優勝だぜ!? すげえじゃん!」
手振りを交えて熱弁する戒斗を横目に、カーペットにおぼんを置いた鏡花がそのまま腰を降ろして答える。
「そんな事無い。高校で弓道部なんて数も全然少ないし、それに私、小学校高学年の頃から弓道をしていたのよ?」
「いやいや、それでも関東大会で優勝なんて、そうそう出来ないだろ?」
「そう?」
興味無さそうに答えた鏡花が、口元に手を当てて少し間をおいて話す。
「そうね……。私は、出来るだけ実戦に近い環境で弓を引いてみたいと思って参加しただけよ。それで県大会で良い線に行っちゃったから、先生の勧めでそのまま関東大会にも出たけれど。でも、公園で弓を引く程にも緊張とかは無かったわ。わかってはいたけど、あんな準備された整った場所で弓を引いても何も実戦の訓練にはならなかったもの。技術的な意味でもだし、気持ちの問題でもね」
淡々と話す鏡花には、気取った様子も謙遜した様子も無かった。
ただ、あったことを端的に話したというような雰囲気だ。
彼女の目は、あくまで異形の化け物との戦いに向いているのだろう。大会であろうと日々の練習であろうと、そこに行き着くための積み重ねの過程に過ぎないのかも知れない。
県大会で優勝し、次は関東だ全国だと熱くなっていた自分に、戒斗は少しだけ気遅れのような物を感じた。
「俺なんか、県大会の結果で一喜一憂したもんだけどなぁ」
ため息交じりにそうこぼした戒斗に、鏡花は軽く笑って見せた。
「それが普通よ。スポーツをやっていたら、試合に勝つことは何より嬉しい事なんじゃない?ただ、競技をやっていた目的が、私と戒斗で違っただけ」
コップに口をつけ、ジュースを一口飲んだ鏡花が続ける。
「それに、剣道は競技人口も多いじゃない。高校ではややマイナーな弓道で地方大会で勝つよりも、剣道で県大会に優勝するほうが競争率的には大変だと思うわよ」
「そんなもんかなぁ」
鏡花のフォローに複雑な表情を浮かべながら、戒斗も盆を挟んで鏡花の向かい側に腰をおろした。
鏡花に促され、運ばれたパンとジュースで簡単な朝食を済ませる。食事を終えると鏡花は大きなバッグを引っ張り出し、衣類や洗面用具などをテキパキと詰め始める。
「なんだか、旅行に行くみたいだ」
そんな様子を見て、戒斗が思った事をそのまま告げる。
「そうね。一昨日はあんまり時間も無かったし、家族の目があったからいつも泉ノ公園で練習している格好以上の荷物は持ちだせなかったけれど、今は私たちしかいないから色々と持っていけるわ」
「向こうに行くときは、大荷物だな」
「ええ。戒斗は家に帰らないから、私だけ支度をしちゃうのは申し訳ないんだけどね」
「それは、別にいいよ。今回の事が落ち着いたら、俺も家に帰るさ」
家の話題になり、戒斗は母の事を考えた。会うことはしないと決めたが、連絡だけでも入れるべきであろう。それで、ほんのわずかにでも母親の不安を和らげることが出来るかもしれない。
「でも、メールくらいはしたほうがいいよな。充電器、借りて良い?」
「ええ、机の上にあるわ、使って。戒斗の機種にも対応しているといいのだけれど」
「これか。借りるね。よし、点灯した。使えるみたい」
「そう、良かった」
言葉を交わしている間も、鏡花はしっかりと手を動かしていく。
大きなバッグが、みるみるうちに膨れ上がっていく。
「出来れば一回で全部持っていこうって考えると、あれもこれもってなっちゃうわね」
ふうっ、と息を吐き腰に手を当てた鏡花が、膨らんだバッグを見て呟いた。バッグの大荷物に目を遣り、戒斗が問う。
「ゴブリンの事が片付いても、鏡花はずっと向こうに留まるつもりなの?」
「まだ、そこまでは決めていない。けど、ロディさんの作戦が成功して、ゴブリンの被害が落ち着いたとしても、しばらくは様子を見るためにも向こうの世界にいるわ」
それに、と付け加えて空を仰ぐように上を向き、鏡花が言葉を続ける。
「ずっと、向こうの世界に行く事しか考えていなかったから。ちょっと、これからの事を色々考えるのには時間が必要な気がする。まずは目の前の戦いに勝たないと、先の事なんて意味がないしね」
「そっか、しばらくは向こうにいるのか。確かに、この数日は色々ありすぎて、これからも大きな戦いが控えているんだ。先の事なんて考えていられないな」
「でしょう。さて、もうちょっとで荷物がまとめ終わるから、もう少し待っていてね」
「わかった。忘れ物があってもいけないし、焦らないでいいよ」
そう言ってスマートフォンの電源を入れる。
やはり、メールも着信も新たに数件届いていた。文面はきちんと連絡をしろという内容に終始しているが、これ以上時間を開ければそれだけでは済まないだろう。
送る言葉も決まらないまま、スマートフォンをメール画面に切り替える。
父の事は、まだ言えない。
戦いに行くなんてことも言えるわけがない。
友人の誰かに口裏合わせを頼もうかとも思ったが、それも学校にまで連絡が行ってしまったらごまかしきれないだろう。いたずらに迷惑を掛けることになる。
結局は、書ける範囲で正直に書くしかないのか。
そう思っても、出てくる言葉は取り留めのないものばかりである。
『用事があって、数日友人の家に泊まってる。ちゃんと帰るから、心配しないでね。母さん、身体に気を付けて、元気でいてね』
思いつくままにうったメールは、どうしても不自然極まりない。
それでも、父の事も向こうの世界の事も伏せるとこんなこと位しか思いつかない自分が悔しかった。読み返して見ると、文末の身体に気を付けて、元気で、はまるでお別れの言葉のようで行方のわからない自分が送るには、相応しくない気がした。
しばし悩んで、メールを打ち直す。
『用事があって、数日友人の家に泊まってる。ちゃんと帰るから、心配しないでね。帰ったら、母さんの作った唐揚げが食べたい! めっちゃ沢山食いたいから、準備よろしく! いってきます!』
なんだか我ながら訳が分からないメールになってしまったと、戒斗は苦笑しながら送信ボタンを押した。
電話はかかってくるだろうか。その時、出る事は出来ない。無視をするしかないのかと、逡巡した。
だが、何度かけても電話に出ないという不安よりは、電波が届かない場所にいるというアナウンスのほうが、まだいくらかは不安にさせないかもしれない。
そう考えて、そっとスマートフォンの電源を落とした。
戦いを終えて帰って来たら、何度でも謝ろう。
「ごめんな」
そう小さな声で電話機越しに語り掛け、スマートフォンを竹刀袋の奥に押し込んだ。