第四十一話 物置の一夜
戒斗は鏡花に案内されるままに、鏡花の家に向かっていた。
泉ノ公園からはバスを使ったが、大きな弓を抱えて弓胴着、そのうえ袴はスカートのように短く切られている鏡花の出で立ちは、バス停でも車内でも、注目を集めていた。
鏡花はそういったことに慣れているのか、周囲の目を気にした様子は微塵も無く、戒斗だけが視線を感じて落ち着かない道中となった。
鏡花に促されバス停を降りると、そこは閑静な住宅街であった。
公園からはほぼ直線に進んでいたので、位置としては隣町に面した通りになるだろう。小さな頃に作った街の地図は、今もしっかりと戒斗の頭の中に描かれている。
通りを一本横に曲がり、斜めに走った一車線の通路の途中で鏡花は足を止めた。左手に、『葉山』という表札が掛けられた一軒家があった。玄関前の明かりはついているが、家の中は静かで、薄暗い感じがした。
こちらを振り返った鏡花が、口元に人差し指を当てた。
静かに、という事であろう。
戒斗に弓を持たせると、器用に音を立てずに外門をあける。
金属製の門が、ツツツッと静かに擦れる音をあげながら大きく開かれた。鏡花の手招きに従って、弓をぶつけないように斜めにしながら門をくぐる。
鏡花の左手が右側を指さし、そのまま手を曲げて奥のほうを指すジェスチャーを送ってくる。
物置は右側奥にあるという事なのか。
戒斗は頷き返し、鏡花を指さした手を、奥に伸ばした。案内して欲しいという意思表示である。
首を縦に動かした鏡花が、足音に気をつけながら身をかがめて進んでいく。戒斗も緊張しつつ、周囲に気を配りゆっくり進んでゆく。
電柱の街灯はかすかにしか届かない。足許はほとんど真っ暗に近い状態であった。
虫の鳴き声が響く小さなベランダを、鏡花と二人で足音を殺して進んでゆく。
まるで夏休みの子供が、夜更かしを楽しんでいる状況だ。
ついさっきまで異世界で命懸けの戦いをしていたことが、とても遠い日の事のように思えた。鏡花に続いてベランダの角を曲がると、大きな物置が姿を現した。
グレーの引き戸はつやがあり、かすかな街灯の明かりを受け、鈍く輝いている。
鏡花がドアにカギを差し込み、ゆっくりとまわしてゆく。
カチャン、とロックの外れる音が、ひどくのんびりと聞こえて来た。音を立てないように、引き戸も少しずつ少しずつ横にずらしていく。
半分ほど戸の開いた物置の中に、鏡花が身をすべり込ませてゆく。
中から小さな光が漏れて来た。
覗いてみると、スマートフォンのライトを点けた鏡花が、物置の中を静かに片付けていた。なんとか二人分の場所を確保しようという所であろう。
数分ほど、見知らぬ家の物置の前で立ち尽くす落ち着かない時間を過ごすと、物置の戸から鏡花が顔をのぞかせて手招きをした。
まずは弓をぶつけないように斜めに倒して鏡花に手渡す。
鏡花が弓をどこかしらに置いたであろう物音の後に、ようやく戒斗はスマートフォンの明かりに照らし出された、薄暗い物置の中に入り込んだ。
「ふう、これで一安心ね。お疲れ様」
戒斗が物置に身をすべり込ませ戸を閉めると同時に、鏡花が大きく息をついた。この声色は今までに聞いたことが無い、明るいものであった。
「コッソリ自分の家に入りこんだのなんて初めて。ドキドキしちゃった」
「俺なんて知らない人の家だぜ? もっと緊張したよ」
「ふふ、そうね。でも知らない人ってことはないでしょ」
スマートフォンの明かりの中で、鏡花がにっこりとほほ笑んだ。
戒斗はこんなにニコニコとしている鏡花を初めて見た気がした。いや、実際に初めて見るのだろう。鏡花は、会った時からどこか人を寄せ付けないような冷たい空気を帯びていた。
その空気がどこか和らいだのは、物置の中で二人きり、そんな非日常的なシチュエーションのせいなのか。
「なんだか、楽しそうだね」
「え?」
「鏡花もさ、こんな風に笑うんだなって思って」
戒斗の言葉に、鏡花が驚いたような意外そうな顔をした。
そして、そのあと小さく笑って見せた。
「戒斗もそう思う?」
「戒斗も……て? 他の人にもこんな風に言われたの?」
「ううん。自分でも思っていたの。最近、そう、この数日で私、少し変わったかなって。私、こんなに心から悲しんだり笑ったりしたっけって思ってた」
遠くを見るように、鏡花は視線を中空にあげる。
物置の薄暗い闇の中で、彼女は何を視ようとしているのだろう。
手を握り、そして開く。
物置に、鏡花の小さな声が満ちていく。
「九年前の事件からずっと、誰も私を信じてくれなかった。家族も、友達も。私が話したのが、この世界とは違う場所に居ただなんて事だから、それも仕方のない事だったとは今は思える。けれど、当時はとてもつらい毎日だった。……でも、私は間違っていなかった」
何度も握っては開くという事を繰り返していた手が、立て掛けられた弓に伸びた。
「来る日も来る日も、一人で弓を引いていた。レオの敵を取るんだ。助けてくれた人にお礼を言って、今度は私も一緒に戦うんだって。そう決めて、九年間ずうっと一人きりで自分を鍛えて来た。家族は私を何度も精神科に連れていった。私も、自分がおかしいんじゃないかと思ったのは一度や二度じゃないわ。でもその度に、この傷を見たの」
最初に出会った時のように、鏡花が胸元を少しだけ開いた。
生々しい傷跡の先端が、仄かな明かりのもとに現れる。
「あれは、あの出来事は決して夢じゃないんだって。忘れてたまるかって。この傷を見て、悔しさと恐怖とともに何度も思い出した。そうしてあの日、ついに私はもう一度違う世界に辿り着いた。私は、私の九年間は間違いじゃなかった」
鏡花の頬を、一筋の涙が伝う。鏡花は一生懸命に笑顔を作りながら、それでも涙を流していた。
ディスプレイが放つ白い光が、鏡花の涙を宝石のようにキラキラと輝かせる。日常とはかけ離れた、仄暗い闇がそうさせるのであろうか。鏡花の言葉は、いつもよりもずっと弱々しく、心の底を語っているように思える。
戒斗もまた、日常とかけ離れた空間で少しだけ大胆になっていたのかもしれない。
そっと手を伸ばし、鏡花の涙を指先で拭った。
自分の傷を見下ろしていた鏡花が、顔をあげる。
「俺がいるよ」
言おうと思った時には、口が動いていた。
このままでは消えてしまいそうな鏡花の手に、自分の手のひらをそっと重ねた。
鏡花が少しだけ身を固くする。目が合う。
戒斗は、鏡花の目を見て頷いた。
物置の暗闇が、頬の紅潮を隠してくれているだろうか。
「……ありがと」
合わせていた目を逸らし、消え入りそうな声で鏡花が答える。
重ねた戒斗の手のひらに、もう一方の手をそっとのせた。
「俺さ、高校入ってからも、鏡花の事を知っていたわけではないし、昔の事大変だったろうなって思うけど、気の利いた事はなんにも言えない。でも、今は俺がいる。俺は、鏡花が誰も信じなかったっていう世界を実際に知っている。そこで、一緒に戦える」
手の甲に重ねた自分の手に、力を込める。
鏡花が手のひらを返し、戒斗の手を握り返した。
「俺だけじゃあない。九年前に鏡花を助けたっていうアズールがいる。ロディさんやレイムーンさんもいる。アルコさんやルシー、ロンメルさんもいる。今までの事はわからないし、言えることもないんだけどさ。だけど、今は皆が居る。鏡花は、一人なんかじゃない」
一緒に戦える。
戒斗は口には出さずもう一度、心の中で呟いた。
静かな決心。
この涙を流している少女を、守る。戦う。
住宅街の端っこの、暑苦しくて埃臭い物置の中で行われた、決意表明。
この子とならば、戦える。
重ねた右手と、父の刀を握る左手に、もう一度力を込めた。
ディスプレイの明かりが作り出す二人の影が、その距離を縮めていく。
その影が重なる程の距離に近づいた刹那、数日の間充電をされていなかった端末の光が消える。二人の影が、物置の闇に吸い込まれ、消えた。