第三十五話 レイムーンの素顔
鏡花は、戒斗が読んでいた手記を閉じた。
戒斗はこの手記をどこまで読み進めたのだろうか。
戦いの日々と見知らぬ世界、そして家族への思いを綴った手記は、他人である鏡花が読んでも胸を締め付けられるものがあった。ましてや、父への思いを持て余していた戒斗がそれを読んだのだ。その衝撃は計り知れない。
世界の行き来の事や、村の地形と自分たちの住む街の地形の一致など、驚くべき事も多く記されていた。
これを読み解いていけば、見えてくる物も多いであろう。
ただ、読むほどにサムライの孤独がひしひしと伝わって来た。
彼は、自分をどんな気持ちで元の世界に送り返したのか。
気になる事があった。
自分とサムライが出会った日の手記である。自分が九年前に傷を負った日付けは、今でもはっきりと覚えている。
その日の手記には何が記されているだろうか。
鏡花は、背表紙を頼りに手記の束を追った。『2005/4』と記載された背表紙を抜き出し、ページをめくろうとして、その手を止める。
これは、いうなればサムライの私的な日記である。
世界の行き来などの情報を得るために、状況的にやむなく読むのは、仕方がないと思えた。
しかし、自分と出会った日の事をどの様に記しているのかという興味で読んでいいものでは無い気がしたのだ。読み進めていけば、たどり着く事もあるかも知れない。
だが、意図的にその日を抜き出して読むようなことはしてはいけないだろう。
自分も少し、頭を冷やした方がいいかもしれない。
身勝手な事をしてしまいそうになった自分を恥じながら、鏡花はそう思った。
サムライの手記によると、村の地理は街と比較的変わらないという。それならば迷うこともないだろう。この村を、自分の足で歩いてみようという気になった。
先刻の戦いでは、ぬかるんだ地面のせいで満足に弓が引けず、戒斗とアズールを待つ時間が長かった。
同じ轍を踏まないためにも、雨でもしっかりと弓を引ける足場がある場所を、調べておきたかったのだ。
弓矢を手に取り、アルコに声をかけると、ちょうど乾いたところだと言われて袴を渡された。
礼を言って一度部屋に引っ込み、手早く着替えるとそのまま弓矢を携えて外に出た。出来るだけ大きな、視界の開けている場所から歩いてみるつもりだ。障害物が少なく視界の良い場所が、弓矢を扱うには適しているからである。
教会のバルコニーは弓を射るには良い場所だが、高さがある分真下に攻撃が出来ない。
弓道場のような好条件は望めないが、村全体でそれぞれに弓を引ける場所は必要だ。足に伝わる感触に耳を澄ませ、雨上がりの道を注意深く歩いた。
時には地面を何度も踏みしめて安定性を測る。
「随分と熱心ね」
女性の声がして鏡花が顔をあげると、そこにはレイムーンと呼ばれた女騎士が立っていた。
村に吹く優しい風が、長い銀髪をキラキラと輝かせている。
「さっき村長から聞いたわ。鏡花、だったかしら。違う世界から来たんだって? 道理で服装も武器も見たことが無いわけだわ」
「レイムーンさん。何か?」
「レイムーンでいいわ。これから一緒に戦う者同士、ちょっと話でもと思ってね。ねえねえ、良かったらさ、あっちで話さない?」
レイムーンがいたずらそうな目で言った。先ほど見せたクールな表情からはあまり他者への興味は感じられなかったが、今はまるでネコのように目を輝かせている。
鏡花には、特に断る理由も無かった。
彼女があごを軽く動かし指し示した方向に、連れ立って歩く。
壊れかけの柵を器用に避けて、レイムーンが村の外に出た。
「心配しないでも、大して遠くまでは行かないわ。あそこじゃあたしたちは見世物みたいにじろじろ見られて、落ち着かないの」
さっさと歩き出すレイムーンに、鏡花は黙ってついていく事にした。
確かに、自分や戒斗、レイムーンやロディはあの村の中では目立つだろう。視線が落ち着かないというのも解る気がする。
少し歩くと、村人の気配もしなくなった。
もとより危険な村の外に出る人間はいないだろうから、当たり前といえば、当たり前である。
宣言通り、レイムーンは気配を感じなくなった辺りで歩みを止めた。鏡花を見て、上から下まで数度視線を往復させた。
「なあに?」
「変わった服だと思ってさ。でも、なかなか動きやすそうね」
「ええ。本当はもう少し足元までかかっているんだけれど、邪魔だから切ったの」
袴の裾を軽く掴んで見せる。
レイムーンはミニスカートに似た履き物に、水着のような胸当てという出で立ちである。重装備のロディとは対照的な恰好であった。
「あなたの武器、面白いね。あたしの複合弓と全然違う。そんな長い弓は初めて見た」
「私の世界の、私が住む国ではこれが一般的よ。といっても、元いた世界にはゴブリンなんていう物もいないし、戦いなんて無かったけどね」
「へぇ、平和な世界なんだ?」
「そうね。少なくともいきなり化け物に襲われるなんていうのは無かったわ」
「ふうん……。あたしだったら退屈しちゃうな」
軽く頷いたレイムーンが、指先を口許にあてて微笑んだ。
「さっき村長に聞いたけど、この村に来たのはつい最近なんでしょ?」
「ええ。村に来たのは昨日よ」
「昨日? へえ……。そのわりには、しっかりと戦っていたわね。あなたも、あなたのパートナーさんも」
「大変だったし、必死だったわ。それと、雨宮君はパートナーでは無いわ」
「雨宮君?」
「あなたが今パートナーって言った剣を持った人よ。雨宮戒斗、という名前」
「ああ、そうね。そういうことか」
胸の前で腕を組むと、レイムーンは胸元まである髪をなでながら続ける。
「堅いのねぇ。戒斗って呼べばいいじゃない」
「そんなに仲良く無い。知り合ったのは三日前、こっちの世界なのよ」
「あれ? 村長は一緒にやってきたって言っていたわよ」
不思議そうに眉を持ち上げるレイムーンに、鏡花は今までの事を簡単に説明した。
九年前にこの世界でサムライに命を救われたこと。
それからずっと一人で技を鍛えて来たこと。
戒斗と出会った時の状況。
自分でこの三日間に起きたことを再確認するように、順を追って話していった。
人に信じて貰えることの無かった世界。
そこに実際にたどり着いたことで、朴訥であった鏡花も、いくらか饒舌になっていた。
レイムーンは口を挟むことも無く、時折相槌を打ちながら静かに聞いていた。
「なるほどねぇ、根性あるじゃん。人に理解されなくっても一人で鍛えてくるなんてさ」
その言葉に鏡花は首を振って答える。
「余りにも甘かったわ。結局実戦では動けない事もあったし、敵に接近されてしまったら私は無力に等しかった。もっともっと強くならないといけない」
「でも、サムライってやつの背中を守るために鍛えていたわけでしょ。それにその弓、遠距離攻撃用じゃあないの?」
「遠距離、そうね。離れた所からの攻撃のほうが向いていると思うわ」
「ああそっか、今までの戦いは全部接近戦だものね。試せても居ないか。惜しいね。ま、あたしらが来たからには、前衛はロディがやるさ。これからは離れた所から戦えることも増えると思うよ」
「心強い、ありがとう。でも、例えどんな場所であろうとも、村を護るために戦うわ。例え森に攻め込むことがあってもね」
鏡花の言葉にレイムーンが微笑む。
腰に何本も差してある短い棒状の物を一つはずし、鏡花に向かって投げ渡した。
受け取った鏡花は、渡されたものにつけてある鞘を外した。中から、深い青色の刃が現れる。
「綺麗……。これは?」
「特別な石を研ぎ上げて作った石器ナイフさ。石といっても、限界まで研ぎあげてある。相当切れるよ。扱いは難しいけどね。軽くて弓を引く動作の邪魔にもならないから、あんたにはうってつけよ。持っていな」
「貰ってしまっていいの?」
「ここじゃ、一緒に戦う仲間でしょ? 仲間が強いほうがあたしも助かるさ。それにあんたは根性もありそう。乱戦になったら、迷わず使いな」
「ありがとう、レイムーン」
「いいって事よん。ああ、それともう一つ、いーい?」
ナイフの鞘を袴の腰の位置にある紐と結び付けていると、レイムーンが思いついたように続けた。白い頬に、華奢な指が躍る。
「もう一回言うけどさ。あんたのパートナーの事。雨宮君とか他人みたいに呼ばないで、戒斗って呼びなよ」
「だから、雨宮君はパートナーじゃあないわ。でも、どうして?」
「戦いはさ、一瞬で致命傷を負う事もある。他人行儀な呼び方じゃあ、どっかに遠慮が出るかも知れない。仲が良いかどうか、そこはあたしにはわかんないけどね。でも、背中を預けて戦うこともあるんじゃん。出来るだけ親しくしときな」
「それも、そうね。頑張ってみる」
レイムーンの言う事はもっともなのだろう。
しかし、鏡花は人と親しくすることをずっと避けて生きて来たのだ。
いきなり距離を詰めるようなやり方は、出来るかどうかわからなかった。レイムーンは戦いのため、といった。事実でもあるだろうし、鏡花の受け入れやすい形として言ったのかもしれない。
どちらにせよ、確かに遠慮をする距離は、戦いには無用そうである。
「ま、難しく考えない事。『あまみやくん』より『かいと』の方が短いじゃない。だから戒斗と呼ぶ、とでもあの坊やには言えばいいのよ」
「うん……。出来たら、そう言う。ただ、彼がこれからも戦い続ける道を選ぶかどうか、私にはわからない。向こうの世界にいる家族の事も、とても心配していたから」
「『私のために残って! 戦って!』くらい言っちゃいなよ。戦力は多いほうがいい」
そう言って、レイムーンは笑った。教会では随分と冷たく素っ気ない素振りを見せていたが、こんな風に笑うこともあるらしい。
鏡花は、そんなレイムーンの意外な一面を見た気持ちになった。
「いきなりそんな事を言っても、戸惑わせるだけよ」
「そう? なんならあたしが代わりにやってあげようか? 行かないで! ってさ」