第三十三話 残光
夏休み、自由研究で街中を走り回った――
父との一夏の記憶が、何故ここに書き記されているのか。
やはり、そうなのか。サムライは、父、雨宮隆人だったのか。
メイルローズの村と、自分が暮らしていた街の地図の一致。
ゴブリンが火を嫌う事。
手掛かりになりそうな沢山の事を、何かにメモしなくてはいけない。
または鏡花に話してもいい。
だが、頭が混乱してしまって、うまく考えがまとまらなかった。
失踪していた父は、ここに、この世界に居たのか。十年という気が遠くなる歳月を、近くて遠い自分たちの世界に思いを馳せながら、戦い続けていたのか。
失踪前の、疲れた、時折怖い顔で佇む父の事を思い出す。あの時父は、二つの世界の間で葛藤していたのかもしれない。そして、より苦しい道を自らに課したという事なのか。
「サムライが……俺の……」
本棚に目を遣った。
そこには、父が積み上げた年月を記した手記が並んでいる。大きな本棚の数段を埋め尽くす手記たちが、その孤独な戦いの長き歳月を語っていた。
勿論、一人でゴブリンたちと戦っていたわけではない。
だが、父はこの見知らぬ世界に独りだった。その孤独さは、いかほどのものだったであろう。
この十年、戒斗は父の事を、何故自分たちを捨てたのかと考える事はあっても、どうしているのかと『思う』ことは無かった。
だが父は、遠く離れた世界で母と、自分のことを思い続けていてくれたのか。
涙がこぼれそうになるのを、なんとか堪えた。
すぐ横に鏡花がいるのだ。鏡花にこの事を話すべきなのかもしれない。
けれども、戒斗は今、一人になりたかった。
「ちょっと、外すよ」
そういって戒斗はベッドから立ち上がる。
「雨宮君……」
鏡花は心配そうな顔で、戒斗を見つめている。
そうだ、鏡花も手記を読み進めているのである。そこには、もしかしたら自分のことも書かれていたのかも知れない。
「外で、風に当たってくる」
鏡花は小さく頷いた。
ドアの前まで歩いた時、鏡花が戒斗の背中に言葉をかけた。
「さっきまで闘っていた教会、ここから一人で行ける?」
「教会……? 行けるけど」
「そこの外れの丘に、木組みの十字架が二つあるわ。一つは、私を護ってくれた飼い犬のお墓。もう一つは、サムライさんの……。良かったら、行ってみて」
「……ありがとう」
やはり、鏡花は察しているのであろう。
戒斗は振り返らないで礼をいうと、ドアに手を掛けて居間に出た。居間のテーブルでは、アルコがじっと俯いたまま座っている。哀しい事ばかりだ。
そんな事を、戒斗は思った。
そのまま出口に向かってゆく戒斗を、アルコが呼び止める。
「外に行かれるのでしたら、危険ですので、刀を」
「ありがとうございます、お借りしていきます」
父の形見か。
棚の上に置かれた刀を握りしめ、そう考えた。
外に出る。いつの間にか雨は止み、空は真っ青に晴れ渡っていた。
さっきまでの雨が降っていれば、思い切り泣き叫ぶ事も出来ただろうに。
皮肉な気持ちになりながら、緩い坂道を登っていく。
今しがた命懸けの戦いを繰り広げていた道は、滑稽なほどにのどかであった。
「夢でも見ていたみたいだ」
ぽつりと呟いた。
いつから、夢を見ていたのだろう。
この世界に来た時からかも知れない。信じられない事が、あまりにも短い時間で起きすぎている。
夢であっても、何もおかしくは無い。そんな気さえしてくる。
教会にたどり着いた戒斗は、ぐるりと周囲を見渡した。
眼下と言えば大げさになるが、見渡せる風景は美しかった。
あそこが、街の居酒屋で、あそこがコンビニで……。
記憶を頼りに自分が住んでいた街の地形と、見渡せる景色を重ね合わせる。確かに、一致する。それも、細かい通りまでほとんど一緒であった。
教会を見上げる。
ついさっき自分が戦いの中で飛び下りたバルコニーは、あんなに高かったであろうか。
あの時は必死だった。
あそこに鏡花が立てば、かなり広範囲に矢を射かけられるだろう。
石造りの教会はさながら小さな砦である。ロディやレイムーンという騎士が、ここを迎撃に良い場所だと言った事も頷ける。
教会の左手に、脇道があった。奥の方には、いくつか木で出来た十字架や、石積みがある。鏡花の言っていた墓地はあそこらしい。脇道は石造りにはなっていない上に、狭い道をそれると傾斜の急な坂道であった。
あの雨の中、ここを通る選択をしなかったのは正解だったのかもしれない。
墓場に着き、十字架を探す。外れに、二つ並んだ十字架がある。
木造りで、隅に並んでいるものは他には見当たらない。
「あれか」
歩み寄る。
片方の十字架には、レオという名が日本語で彫られていた。
矢が一本、立て掛けられている。鏡花がいつの間にかここを訪れていたらしい。そういえば、鏡花は朝、どこかに行っていた。
その横には、何も彫られていない十字架が一つ、静かに安置されていた。戒斗は十字架の前にしゃがみこんだ。
「父さん……」
十字架に手を掛け、語り掛ける。
ほんの十数日前まで、父はこの村でゴブリンと戦い続けていたのか。
あと少し、あと少しだけ早く、自分がここに来ていれば……。
やりきれない思いが戒斗にのしかかって来た。
ルシーはサムライをもう一度呼び出すために、あの夜石を投げたのだという。それならば、戒斗と父、隆人の道は交わる事は決してなかったのかもしれない。
けれど、そんな事はなんの慰めにもならなかった。
もしも父が、誰かが、もっと早くに泉に石を投げいれてくれていたら。
そうすれば、父と語り合う事が出来た。
怒りをぶつけたかもしれない。
思い切り殴りつけていたかもしれない。
語り合っても、許せなかったかもしれない。
それでも、もっと早くここに来ていれば、言葉を、気持ちをぶつけ合う事が出来たのだ。
やり場のない思いに、戒斗は膝をついてうなだれた。
(父さん。俺、今更、ここに来たよ。父さん、父さん……!)
何度も、この十字架の下に眠っているはずの父に、心の中で呼びかける。陽の光が、十字架に大きな影を落としている。右手に持った刀、柄に巻かれた布には黒ずんだシミがいくつもあった。倒して来たゴブリンたちの血か、それとも、戦い続けた父の血なのか。
不意に、十字架の影がより大きな影と重なって消える。
刀を背負った男の影が、十字架の影を戒斗の視界から消し去った。