第三話 ゴブレット
先程まであったスマートフォンの電波も途絶え、ディスプレイには圏外という文字が点滅している。
この数分で、電波までどこかにいってしまったとでもいうのであろうか。
「おいおい、これ、どういう事だよ……」
呆然と周囲を見まわしていたその時、金属のぶつかり合うような大きな音が聞こえた。
戒斗がそちらに耳を澄ますと、子供のものと思われる叫び声と、けたたましい動物の唸り声のようなものも聞こえてくる。
子供の声色からして、ただ事ではないようだ。大型の犬か何かに襲われているのかもしれない。
戒斗はひとまず数々の疑問を頭の隅に追いやると、木刀を持って足袋のまま音のした方角へ駆け出した。
ひざ下まである草をかき分け走っていくと、土で踏み固められた道に出た。動物的な低い唸り声もかなり近くで聞こえてくる。
「大丈夫か!?」
月明かりで踏み固められた道ははっきり見えるが、それ以外は木々の陰になってあまり良く見えない。
唸り声は、踏み固められた道より少し外れた場所から聞こえてくるように思えた。
「誰か! いないのか!?」
「助けて!」
戒斗がもう一度大きな声をあげると、すぐ右側の茂みの方から子供の叫び声が返って来た。
戒斗は急いでそちらに駆けつける。
――居た。
道の外れ、土の道が終わり、草木が生え揃う茂みの少し奥。
大きな木が立っている。
その木の根に倒れ掛かるようにして、栗色の髪の子供ががっくりと項垂れて座り込んでいた。
そしてその前には、おかしな『何か』が唸り声をあげ、二本足で立っていた。
(猿? いや、チンパンジーか?)
戒斗は自分に背を向けて二本足で立っているその生き物を凝視した。
大きさは身長が175㎝ある戒斗よりも随分と小さい。
せいぜい140㎝ちょっとであろうか。右手に何か棒状の物を持っている。戒斗の持っている木刀の半分もないくらいの長さだ。
「てめぇ、何をしている! やめろ!」
一歩踏み込み、両手で木刀を構えて戒斗が叫ぶ。
二本足で立っている生き物が、戒斗の声に反応したかのように振り返った。薄暗い闇の中に、濁った黄色い二つの光が現れた。
「なっ!? なんだ、こいつ!」
唸り声をあげながら、その生き物がゆっくりと戒斗に近づいて来る。踏み固められた道に近づいて来るとともに、月明かりに照らされ少しずつ生き物の全容が見え始める。
その姿に、戒斗は驚きの声をあげた。
どす黒い苔のようなものがびっしりと生えた、全身を覆う暗い緑色の肌。
手足は細いが骨が浮き、何か所かは筋肉によるものであろうか、大きく膨れ上がってる。
人間に比べ一回り近く大きな頭に毛髪は無く、黄色い目は大きく見開かれている。
いや、そもそもまぶた等という物があるのかもわからなかった。
うっすらと光彩のようなものは見えるが、瞳全体が黄色く輝いている。鼻は切り落としたように歪に穴が開き、唸り声をあげている口は大きく裂けて、とがった耳の傍まで開いている。
これではまるで――
「ゴ、ゴブレット……!?」
友人の家で見た、あのテレビゲームにうつった魔物そのものである。
そのゴブレットにうり二つの生き物は、戒斗に近づいていた歩を止めると、荒い息を吐いた。
瞬間、全身の膨れ上がっていた肉の部分に筋が走る。
(何だ!?)
異常に動き出す筋肉。
膨れ上がった筋肉に危険を感じ、戒斗は咄嗟に危機を察知した。
その予感は正しく、ゴブレットが咆え声と共に戒斗目掛けていきなり駆け出してくる。
右手に握っていたものは、先端に大きな石が括り付けられた斧のようなものであった。
もしも、あんなもので思い切り殴りつけられたら――。
戒斗は背筋に冷たいものを感じた。
だが、今ここを離れれば、奥で倒れている子供はどうなるのかは想像に難くない。
(ヒーローは……どんな時でも逃げ出さない!)
震えだしそうになる身体を、必死に堪える。
この未知の生き物は確かに速いが、剣道の試合のあの一瞬の立会いの動きに比べれば、その動作がまだはっきりと見える。
ゴブレットが自分の間合いまで近づいて来るのをじっと待つ。
身体がどうしてもこわばる。
手のひらに嫌な汗をじっとりとかいているようだ。
いつものように動いてくれるだろうか。
(来た!)
突っ込んできたゴブレットが自分の間合いに入った瞬間、戒斗が踏み出す。
小手の要領で、ゴブレットが振り上げようとした右腕の手首に、木刀を叩きつけた。
「てぇぇぇぇぇぇ!」
緊張のせいか僅かに遅れた小手打ちは、それでも激しくゴブレットの手首を打ちつけた。木刀を握る戒斗の手のひらに、しっかりとした手応えが返ってきた。
「おっしゃあ!」
戒斗は戦いで高揚した気持ちそのまま、雄叫びをあげる。
だが、かなりの衝撃を与えたはずのゴブレットは武器を取り落すことは無く、ぎぃっ、と一つ呻き声をあげて後ろによろけるだけだ。
「こいつ……! くそ、もう一発だ!」
今度こそ武器を打ち落とそうと、戒斗は自分から一歩を踏み出し、再度鋭い小手打ちを見舞う。
しかし、ゴブレットはその動きを読んだかのように見事に腕を木刀の外側に、遠ざけるようにかわした。そのまま手首を返し、石を括った棒を斜めに振るう。
得意の小手をかわされた戒斗は、なんとか迫りくる凶器に小手打ちで振り下ろしかけた木刀を打ち合わせて止めた。
片腕で振るわれたゴブレットの攻撃は物凄い力で、両腕で木刀を持っている戒斗は押し返す事も出来ない。武器を合わせたまま組合いになる。
ゴブレットの空いている左腕が伸びてきた。
「やべぇ!」
恐ろしい力にガッシリと戒斗の右手首は捕まれる。
メキリと関節が軋む音が体の中から聞こえた。
それでも戒斗は相手の腕が伸びてきた刹那、自分の身を思い切り乗り出し、ゴブレットに当て身を食らわせた。
腕は離れなかったもののよろけたゴブレットは、組み合わせた武器を持ったまま後ろに下がった。戒斗は右腕を捕まれたまま、左手で木刀を握り直し、思い切りゴブレットの喉元目掛けて振りかぶった。
かなり厳しい態勢での苦し紛れの一撃であったが、なんとかうまく喉元に決まり、ゴブレットが声をあげ後ずさる。
なんとか、掴まれていた腕も離れた。
「今だ!」
その隙を逃さず、戒斗はもう一歩踏み出し今一度ゴブレットの右腕の小手打ちを繰り出す。十分な踏み込みとともに打ち出した小手が、悲鳴と共にゴブレットの腕から得物を叩き落とした。
「今度こそ決まった! よぉし!」
武器を弾き落とした安心感から、戒斗は攻勢を強めていく。
それでも、先程の怪力の事は忘れていない。木刀の尺の利を存分に活かし、距離を保って打ち込みを続けていく。
「はあぁぁぁぁ! とおぉぉぉぉぉ!」
肩口に一撃、続けて胴部にも一撃を加えていく。
戒斗はゴブレットの動きにも用心深く注意を配った。
最初にこの化け物が見せた突撃の動きをする気配を見せると、顔面に突きを出しその動きを牽制する。
数度の打ち付けでゴブレットの動きが次第に弱弱しくなってゆく。
肩口に振り下ろした木刀を左腕で受けると、ついに大きく後ろによろけ、ぶらりと左腕を力無くふらつかせた。力を失った腕はあり得ない方向に折れ曲がっていた。
その光景に怯みそうになる心を、戒斗は無理やり叱咤した。
後ろに座り込んでいる子供を助けなくてはいけない。
「貰った!」
とどめとばかりに戒斗は大きく振りかぶり、得意の面打ちを見舞う。
前に踏み出しながら振り下ろした一撃がゴブレットの頭に直撃する前に、切先が何かに触れた。
ガサッという激しい音をたてたそれは、大きく伸びた樹木の枝であった。