第二十八話 消去法の勇気
「戒斗さん、すぐに手当てを!」
教会に駆け込むと、バルコニーを降りてきたアルコが駆けつけて来た。村人たちも集まって来る。
乱れていた呼吸が鎮まってくると、腕の痛みが鮮明に蘇ってくる。
痛みが、戒斗から少しだけ恐怖を忘れさせた。
歯を食いしばり、痛みに耐えた。
恐怖に凍り付いてしまった頭が、少しずつ冷静になっていく。
しっかりとしなくてはいけない。あの気に喰わないアズールは、血まみれになっても笑って耐えていたのだ。
「あの、俺、た、戦わなきゃ……。だって、葉山さんと、アズールが……」
「今はとにかく治療を! 服、切りますよ」
アルコがナイフで、服を裂き傷を負った腕を露出させる。
「アズールが、あの、これを使えと」
「血止めの粉です。すぐに血は止まりますが、これを使うと傷痕が残ってしまいますが、宜しいでしょうか?」
「あ、はい」
傷が残るという言葉を聞いて、戒斗は自分たちの世界で鏡花に見せられた傷跡を思い出した。
大きく斜めに裂かれた傷。
あれ程の怪我を負ってもなお、鏡花は九年の間闘志を燃やし続けたのか。
「敵わないな……」
「え?」
「いや……、何でもないです」
治療に当たるアルコの手際は良かった。
粉を塗りたくり血を止めると、すぐに清潔そうな布で固まりかけた血をふき取り、傷口に布を丁寧に巻く。
痛みは消えないが、傷口がこすれて痛む心配や、血で滑ってしまう心配はしないで済みそうである。
戒斗は目を閉じた。
なんとか、先ほど鏡花は危機を回避することが出来た。
自分も必死だった。
情けなさに押しつぶされそうな時に、ゴブリンが駆け込んできた。もしもここで立ち向かわなければ、自分が自分ではなくなってしまうのではないか。
そんな漠然とした不安が、戒斗を無意識の内に突き動かしていた。
それでも、ほんの一瞬時間を稼ぐ事が出来たかどうか、という事しか出来なかった。
(逃げ出さないなんて……。良く言えたもんだよな……)
自嘲気味な思いは痛みと共に戒斗の心をむしばみ、責め続ける。
さっきまで震えて合わせる事すら出来なかった歯を、思い切り噛みしめた。
口の中に、血の味が広がっていく。
手当ては終わった。
痛みはかなりあるが、腕を動かすことには支障はなさそうだ。
つまり、まだ戦えるのだ。
その勇気と気力があればである。
脳裏に焼き付いた、鮮明な恐怖は未だ消えない。
いや、ゆっくりと心の深い部分に浸食してきているといっていい。
だが、もうここに戦える人間は自分たちしかいないのだ。
そして、敵はすでに目の前まで迫ってきている。
ここで戦わなかった所で、あの化け物の襲撃は避けようが無い。村人たちがここに集まっているという事は、この場所以上の逃げ場もないのであろう。
ならば、今戦うのは自分が生き残るためにも最も最適な方法なのではないか。
震える心を、なんとか理詰めで説得する。
格好つけて、化け物を倒し、英雄になりたい。
そんな思いでは、目の前のリアルは到底片付いてくれないのだ。
それでもなお、戦わなければいけない時がある。
つまりは、そういう事なのではないか。
一人ではない。鏡花がいる。アズールがいる。
三人で、たった一匹を倒せばいいのだ。今までの戦いよりも、ずっとずっと楽なはずだ。英雄だヒーローだと、格好つけるためではない、生き残るための戦いをする時なのではないか。
「戒斗さん? 傷が痛みますか?」
「お兄ちゃん?」
椅子に腰かけたまま、俯き動かなくなった戒斗を、アルコとルシーが心配そうにのぞき込む。
顔をあげる。乗りかけた舟は、まだ降りていない。
ルシーの心配そうな表情を見て、戒斗は意を決した。
「どうせ戦う事になるのなら、かっこよく戦いたいよな。ヒーローらしく」
自分でも情け無くなるくらいの、弱々しい微笑み。
アルコが戒斗の怪我をしていないほうの腕を掴んだ。
「まだ戦うのですか? もう……」
「怖いと、じっとしてられないんです。行きます」
それは、情けないほどの消去法で導きだされた結論なのかもしれない。
それでも、戒斗が立ち上がった。
その瞬間、教会のドアに激しい音が響いた。
ドアに何かを激しく打ち付けるような轟音である。
「なっ!? なんだ、くそ!」
戒斗がドアに駆け寄るが、ドアの前にロンメルが立ちふさがる。
「どいてください、ロンメルさん!」
「なりません。この音、恐らく目の前にゴブリンが迫っております。今開ければこの教会の中に居る者たちが危険に晒されます」
「だけどっ!」
「村の人間の安全を守るのが、私の勤めです。どうか」
ロンメルがじっと戒斗を見つめる。
その目には悔しさがありありと浮かんでいる。
「私は、戦う事は出来ません。それでも、皆を守らねばいけないのです。残酷な事をしております、それはわかっております。それでも! それでも私は……」
温和な老人であった男の目が、強い意志を放つ。
まるで自分自身を責めているかのように、口は真一文字に結ばれている。
村人たちは、遠巻きに見ているだけだ。その表情は暗い。
「お兄ちゃん、こっち!」
ルシーが教会の奥の備え付けられた階段の下で、戒斗を呼んでいる。
「正面以外にも、裏口があります。かなりの遠回りにはなりますが」
「わかりました! ロンメルさん、ここは、お願いいたします」
「戒斗殿……」
ロンメルの細い腕には小さなナイフが握られていた。
ゴブリンが入り込めば、この人は単身戦うつもりなのだろう。
人にも、自分にも、厳しい人なのだ。その上、誰よりも優しい。
すべては戒斗の想像かもしれない。それでも良かった。
ロンメルに頭を下げると、戒斗はアルコと共にルシーの元に駆け出した。
「父を、許して下さい」
「皆を護るため。その気持ちが伝わりました。許すも何も無いです。あんなところから出ようとした俺が馬鹿でした」
階段を駆け上る。ちょうど先ほどの正面ドアの真逆の位置に、小さなドアが見えた。ルシーがそこを指さす。
「あそこから、お外に出れるよ! 道がちっちゃくって動きにくいから、ゴブリンが来たことも無いんだよ」
「細い壁伝いの道を少し進むことになります。時間はかかりますが、正面まで回る事も出来ます。……戒斗さん?」
戒斗は無言でバルコニーを見つめていた。
高さは、せいぜい二階程度であろう。天井が低かったので、自分の世界と比べるともっと低いかもしれない。
この程度の高さならば――。
唯一の道は正反対の出口である。その上そこから出ても、悪路の中をしばらく壁伝いに歩いていくという。それも、この怪我と雨の中でだ。
こうしている間にも、正面が破られるかもしれない。
鏡花が、アズールが、倒れるかもしれない。
それは、負けるという事では無いのか。
迷っている時ではない。やるしかないのだ。
「ここから行くしかない!」
戒斗は、バルコニーに向かって駆け出していった。
・・・
アルコはバルコニーに駆けていく戒斗の背中を黙って見送った。
何か言いたかったが、言葉はかけられない。
ただ、ほんの少し前にああして同じように駆け出し、そして戻ってくることが無かった、あの男の事を思った。
このままでは、どこかあの男に似た戒斗も、彼と同じ道を辿ってしまうのではないかという漠然とした不安がよぎる。
自分に出来る事はないのか。
そう思った時、アルコもまた駆け出していた。
裏口を抜け、あの場所へ。
戦えない自分の出来る事が、そこにはあるのだ。雨の降りしきる中、崖の傍に取り付けられた悪路を、怯む事無く駆け抜けていった。