第二十七話 新たなる敵
待つという事がこれ程辛いと思ったのは初めてであった。
坂道を駆け上り、橋に仁王立ちしてゴブリンを待ち構える。
どれ程の時間がたったのか。まず、戒斗が駆け込んできた。その左の二の腕は真っ赤に染まっていた。顔色も悪く、目には落ち着きが無かった。
鏡花は努めて冷静に振る舞った。
すぐにゴブリンも来るはずだ。弓を思い切り引いた。
戒斗に連携を頼むべきか。しかしどうも様子がおかしい。
それも無理はなかった。戒斗の心情からすれば、いきなり戦場に放り込まれたようなものなのだろう。ここで、二人を待つ間に気持ちを整える事が出来た自分とは違うのだ。
アズールの背中も見えてきた。かなり傷を負っているようだ。
顔を少しだけこちらに向けた。弓の射程を開けるように、アズールは大きく横に飛びずさる。
その後を追うようにして、ゴブリンたちが姿を現した。
瞬間、手前に出てきた一匹に目掛け構えていた矢を放つ。
鋭い空気を裂く音が響く。
真っ直ぐに飛んだ矢が、ゴブリンの肩口に決まった。
もう一撃。
急いで弓を引く。引き絞る。
射撃場の的よりもずっと近い、連射でいける。
瞬き一つせず、右の手を離した。
鋭い音が響く。命中か、ゴブリンの動きが鈍くなる。
緊張のためか、鏡花は矢の軌跡を途中で見失った。
「貰ったぜ!」
アズールが思い切り踏み込んでゆく。
ゴブリンは動かない。いや、動けない。
(右足を貫通して、地面に……)
自分の放った矢が、ゴブリンの足を貫通して地面に突き立っていた事に、鏡花はようやく気がついた。
足を射抜かれて動けないまま無防備なゴブリンの頭部に、アズールの棍棒が思い切り振り下ろされた。
「もう一匹!」
石斧を持ったゴブリンが、こちらに駆け出してくる。
弓、間に合うのか。間に合うはず、そう信じ弓を握りしめる。
腰の矢筒から矢を抜き出し、番えて引く。
目の前に迫っていた。それでも、やるしかない。
ゴブリンの鳴き声。鏡花のたつ橋に、ゴブリンが迫っていた。
・・・
(ヒーローは、逃げ出さない……。逃げ出しちゃ、ダメなんだ。でも、もう腕が……こんなに血まみれで……)
呆然としていた戒斗の後ろに、ゴブリンが走り込んで来る。
視界の隅にゴブリンが入り込んだ瞬間、戒斗の足がガクガクと震えだした。
自分は、この化け物に負けたのか。
木刀を手にしながら、何もする事が出来なかった。相手の突きを腕にくらい、こうして血を流し戦意を失っているのだ。
(俺は、負けたんだ……。逃げなきゃ……)
殺される、逃げなくては……。
いやだ、負けたくない。立ち向かうんだ。
もう無理だ、血が止まらない。このままでは、死ぬ……。
死、死ぬ、死……。全身から血の気が引いた。
戒斗の頭の中で、恐怖が駆け回る。
もはや逃げ出そうにも足が震えて動けない状態であった。
そんな中でかすかに残った戦う意思。
それは、自分たちの前から消えた父のように逃げたくないという、幼少の頃から胸の奥に抱いていた反発の思いであった。
だが、死の恐怖はその反発する心さえ押さえ込んでしまう。
それほどに、この異形の化け物が怖かった。ゴブリンが目の前を駆け抜けてゆく。もはや敵とすら認識されていないのであろうか。ゴブリンは一直線に弓を構える鏡花の元へとむかっていった。
鏡花はまだ、弓を引けていない。
「葉山さん!」
仲間を呼ぶ叫び声は、情けないほどにうわずっていた。
木刀を手にした右腕を、なんとか伸ばす。
しかし、恐れで力の入らない腕から伸ばした木刀は、ゴブリンの身体をほんのすこし掠めただけで地面に落ちた。
木刀を弾かれた反動で、戒斗は地面に膝から折れて座り込んでしまう。ガタガタと震える身体を抑えるように、右腕を身体に回した。
(俺、俺は、俺は……)
何も出来ずに座り込んだ戒斗が、空を見上げる。
雨が、戒斗のほほにつたう何かを隠してくれた。
どうしようもないほどの情けなさに、戒斗はここが戦場であることも忘れて蹲まる。
その耳に、聞きなれない大きな音が響いた。
・・・
戒斗の差し出した木刀を弾き飛ばし、ゴブリンが目の前まで迫ってくる。
「くっ、速い! 間に合わない!」
それでも、戦うしかない。
無理やりにでも矢を放とうと力をこめた刹那、鏡花の後ろから大きな音が響いた。その音に驚いたのか、目の前のゴブリンが動きを止めた。
「これ……。教会の鐘? 動きが止まった。それなら、今!」
殆ど頭上から聞こえてくる鐘の音に、ゴブリンは驚いたように顔を動かし立ち止まっている。
無防備なゴブリン目掛け、鏡花は思い切り弓を引き絞り、矢を放った。
相手は目の前で止まっている。
外す距離でも、間違って戒斗を射るような距離でも無かった。
ゴブリンの額を、寸分たがわず矢が貫き通す。
二の矢を引き、至近距離から連続で射掛ける。
びくびくと身体を震わせているゴブリンの喉元を貫くと、三本目の矢をゴブリンの腹部に射かけた。橋の上に、二匹のゴブリンが横たわっていた。
「やったの……?」
ゴブリンたちは二匹ともかすかに痙攣している。
恐らくまだ生きているだろう。とどめを、そう思い弓を引いた時、村の入り口のほうで大きな音がした。倒れているゴブリンに素早く矢を放つと、村を見下ろせる場所まで走った。
「おい、マジかよ……」
横に立っていたアズールが唸った。
門を破壊した、今まで見たゴブリンよりも一回りは大きな化け物が、こちらに向けてゆっくりと進んでくる。
「ありゃあ、ホブゴブリンだ。やべぇぞ」
「ホブゴブリン?」
「ああ。ゴブリンどもの中に、たまにでかくて動きはいい奴が混じってる事があるんだ。そういうのをホブゴブリンっていうらしいが……。あいつはつええぞ、くそ!」
「まだ……」
戒斗が左の二の腕を抑えて座り込んでいた。
鏡花は矢を確認した。まだ、十五本以上ある。つまり、戦えるという事だ。
「アズールさん、私は戦える」
アズールが頷く。
「よし、橋の一番奥で迎え撃つぞ。俺が正面に立つ。嬢ちゃんはその後ろだ。ホブゴブリンが坂を登ってきたら撃てるだけ撃ってくれ。ガキ、出血がひでぇ。それじゃあ武器を振るってもすべっちまう。一旦教会に下がってこいつをつけて血を止めろ」
「お、俺は……!」
アズールの言葉に戒斗が声をあげる。
それを手で制して、アズールが続けた。
「最後まで聞け。血が止まって、まだ戦えそうだったら俺と一緒に前衛だ。頼りにしている、だがまずは治療だ。万全の状態で戻ってこい。いいな?」
「……で、でもあんたの怪我は?」
「俺はこれくらいの傷は慣れっこだ。治療は戦いが全部終わってからでいい」
「だけど! ……だけど俺……」
なおも食って掛かる戒斗を、鏡花が抑えた。
「雨宮君、ここはアズールさんに従いましょう」
「……ああ、そう、だね」
アズールが戒斗に粉の入った袋を渡す。
教会に向けて手で合図をすると、バルコニーに立っていたアルコとルシーが何かを叫んだようだ。教会の門がゆっくりと開く。
戒斗は、ゆっくりとおぼつかない足取りで教会に向かってゆく。
「雨宮君。待ってる」
鏡花は小さな声で呟くと、少し下がり倒れているゴブリンたちに二矢ずつ追撃を放った。アズールもそれに倣う。
決して気持ちの良い事ではないが、あのホブゴブリンとともにこの二匹まで相手にする事など、考えたくもなかった。
顔をしかめながら、矢でゴブリンの足と地面を貫通させる。
これで立ち上がろうにもすぐには動き出せないだろう。
「よし、急ぐぜ。嬢ちゃん」
橋を渡る。
大した距離も無い橋だ。それでも、坂を登り切ったホブゴブリンに奥まで走り込まれる前に、数本の矢を射こむ時間はあるだろう。
こわばる右手をもみほぐす。力強く弓を握り過ぎていた左の腕が、数か所赤くなっていた。弦が当たったのだ。こんなミスは、もう何年もしていなかった。
(これが、実戦……)
腫れ上がった赤い筋を指でなぞり、雨のやまない空を見上げた。
視線を戻す。まだ終わっていない。
鏡花はもう一度気持ちを引き締め、全力で弓を構えた。