第二十三話 食卓の風景
柔らかなベッドの中で、戒斗は静かな朝を迎えた。
「ん……。ふぁ~あ」
大きく伸びをして、布団から上半身を起こす。
寝ぼけまなこをこすり、周りを見渡した。
「ここは……、ああ、そうか。俺、結局村で一晩を明かして……。母さん、あまり心配していないといいけれど」
毛布をどかしてベッドの上にあぐらをかく。
横を見ると、昨夜は隣のベッドで寝ていた鏡花の姿が無い。
丁寧に畳まれた毛布の上に、枕が置いてあるだけだ。
「葉山さん? 先に起きたのかな」
ベッドの上はきちんと毛布が畳んであった。
緊急の事態があったという事は無いだろう。
それに、開いた窓の外からは、村人たちの呼び交す声や笑い声も聞こえる。切迫した空気は感じられない。
今何時なのだろうと思い、部屋を見渡してみるが時計は見当たらなかった。
考えて見れば当たり前の事だが、ついつい寝ぼけて日頃の習慣が出てしまった。
昨夜何時に寝たのかも記憶に無いのでさして意味があるとも思えなかったが、カバンからスマートフォンを取り出す。時刻は九時を回っていた。
随分とゆっくり眠っていたらしい。
当然、ここに電波は無く、端末の左上部分のアンテナマークには圏外の文字が表示されている。
「せめて電波が入ればなぁ……」
右手にスマートフォンを握って、ベッドに頭から仰向けに倒れ込む。
そのまま大きく息を吸い、吐き出す。
「母さん、心配しているだろうな」
不可抗力と言えなくもない状況ではあった。
しかし、異世界に行っていた等という言い訳を信じて貰えるはずもない。
母親が納得し、かつあまり心配させないような言い訳を考えなくてはならなかった。
一晩不安にさせた上に、嘘までつかなくてはいけない事は憂鬱であったが、仕方がない。
とにかく、まずは素直に謝ろう。叱られるのであれば、大人しく叱られよう。
さらに憂鬱になりそうな気持ちを抑えて、自分にそう言い聞かせる。
どうにも家の事を考えるのは得意ではない。朝から気持ちが塞ぎそうになる。
これもすべて、失踪した父親のせいか。
もしも会うことがあれば文句の一つも言ってやりたかったが、もう十年以上会っていない。これから再会があるとも思えなかった。
自分で、うまく気持ちの整理をつけるしかないのか。
昨夜、鏡花と交わした会話を思い出す。
どういう形にせよ、自分の中で結論をきちんと出すべきなのだろう。そのためにも、聞けることは聞き、知ることの出来る事は知っておくべきなのだ。
「よし」
気だるい思考に区切りをつけ、勢いをつけて立ち上がる。
竹刀袋を持ってベッドを出る。そのまま部屋のドアを開けると、戒斗の鼻にいいにおいが届く。朝食の支度はすでに出来ているのであろうか。
「おはようございます!」
「あら戒斗さん、よく眠れたみたいですね。おはようございます」
戒斗が挨拶をすると、お盆にサラダのような物をのせたアルコが笑顔で答える。奥に座っているロンメルやルシーも戒斗のほうを振り返った。
「お兄ちゃん、おはよー!」
「おお、戒斗殿、おはようございます」
戒斗はロンメルに促され、食卓の一角に座る。
ロンメルが容器からコップに飲み物を注ぎ、戒斗の前に置いた。
「ありがとうございます。これは?」
「この村の近くでよく採れる葉を使ってだしたお茶です。ほのかな甘さが寝起きの身体に染み渡りますよ」
「お茶ね、とってもおいしーんだよ!」
「へえ、頂きます」
まだほんのりと湯気が出ているお茶を、そっと口に運ぶ。
風味豊かな香りとともに、口の中にすっきりとした甘さが広がる。
「うまい! これ、美味しいです」
ほう、と息を吐き、再びコップに口をつける。
優しい甘味をゆっくりと堪能し、静かに息をついた。
朝の緩やかな時間の流れと、ルシーやロンメルの笑顔が心地よい。
大きく伸びをして深呼吸をする。
アルコの運ぶ料理で、少しずつテーブルの上が彩り豊かになっていった。自然とお腹もすいてくる。
「遅くなってごめんなさい、今戻りました」
アルコが料理を運び終わり、食器をテーブルに並べ始めた時、家のドアが開き弓を抱えた鏡花が入って来た。
鏡花の目は、かすかに赤く充血しているような気がした。
戒斗と一瞬合った目を、テーブルへ動かす。
「葉山さん、出かけていたの?」
「ええ、ちょっと……。あ、朝食、盛り沢山なんですね、嬉しい」
話題を変えられてしまい、戒斗は余計に鏡花がどこに行っていたのか気になった。
だが、鏡花は明らかにその話を意識して避けているようでもある。九年の間思いを馳せていた場所だ、行きたい所の一つや二つはあるのかも知れない。
思い当たるのはサムライの事だが、確かにこれから皆で食事をしようという時に適した話題ではないかもしれない。
「お姉ちゃん、おかえりなさい! ねぇねぇアルコ姉、ルシーお腹空いた!」
「はいはい、じゃあご飯にしましょうね」
戒斗、鏡花、アルコ、ルシー、ロンメルの全員が食卓の前に腰を降ろす。
ロンメルが手を食卓の前に置き、指を組んだ。
「今日と未来の、村の平和を願って」
「村の平和を願って」
アルコとルシーがロンメルに倣い、祈りの形に腕を組んで言葉を復唱する。
戒斗と鏡花も見様見真似で同じ動作をした。
「いつまでも、村が平和でありますように」
鏡花の言葉が食卓に響く。
戒斗は、言葉を発することなく両の手のひらを合わせた。
(この場所が、平和でありますように)
心の中で呟く。
本当は、口にするべき言葉。
けれど、母を安心させるためにも速くこの世界から帰ろうと考えている自分が口にするのは、無責任なのではないかと思わせる言葉でもあった。
そんな戒斗の様子を見ていたロンメルが、微笑み頷いた。
アルコが場を促すように口を開く。
「さあルシー、温かいうちに食べちゃいなさい。戒斗さん、鏡花さん。お口に合うか解りませんが、ルシーの恩人のお二人のために、腕によりをかけましたわ。どうぞ、召し上がって下さい」
「頂きます」
戒斗と鏡花がそれぞれに目の前の料理に手を伸ばした。
戒斗は野菜が沢山入ったスープを口に運んだ。シチューによく似た、甘い口当たりの中にしっかりとした食感がある。魚に似た肉が、味と歯ごたえにアクセントを与えていた。
鏡花は野菜で彩られた食べ物を取り分けている。
さながらサラダといった所であろうか。
他にも食卓に並ぶ品々は、どこか懐かしい。芋を揚げたという料理はコロッケそっくりであったし、スライスしてある魚の切り身が盛られているお皿など、刺身の盛り合わせのように見える。
「凄くうまいです! それに、なんか懐かしいっていうか、そう。俺たちの世界にも似た料理があって、不思議な感じです。こんなに色々、ありがとうございます」
戒斗は、感じた事をそのままにアルコに伝える。
「本当に、私たちの世界の食べ物にそっくり。それなのに、味わったことの無い風味。とっても美味しい」
「これ、サムライさんに教えて頂いた料理なんです。サムライさんの好物だって仰っていました」
アルコが少し目を伏せながら、ふっと笑った。
消えてしまいそうな小さな声は、今にも途切れてしまいそうだ。
「きっと、お二人の住む世界の料理なんじゃないかなって思って……。だから、こうしてお造りする事が出来て良かったです」
「サムライの、好物……。これが……」
シチューのお皿に目を通した。
シチュー、コロッケ、彩りのサラダ、刺身……。
どこか懐かしい、温かい食卓。甘いシチューを好んで出していた、三人で囲んでいた頃の食卓。
何かが、戒斗の頭の中で蘇ろうとしていた。
「あ、アルコ姉、雨だよ!」
小さな雨音に気づいたルシーが大きな声をあげる。
その声で、戒斗は思考の中から現実に戻される。
いつの間にか食事を早々にすませたルシーは、窓際に身を乗り出して外を見ている。
「いけない。家の窓を閉めて回らないと。皆さんは召し上がっていてくださいね! ルシー、手伝って!」
儚げな憂いを帯びた表情を切り替えて、アルコが顔をあげる。
ルシーと共に、奥の部屋に早足で引っ込んでいった。二人のパタパタと立てる足音が遠ざかる。この人は、サムライを失った傷を今もまだ、心に深く負っているのだろう。
戒斗はガラにも無く、アルコの心の機微を感じ取っていた。
もっとも、それは空元気を振りまくアルコを見れば、機微などと言わず誰でも思い当たる考えであるのかも知れない。
ロンメルは静かに目を閉じているし、鏡花は出された料理にじっと目を落としていた。
「よっし、冷めないうちに食べちゃおう!」
アルコの空元気にせめて応じようと、戒斗は誰に言うでもなく大きな声で宣言し、勢いよく料理を口に運び始める。
鏡花はふっと笑みをこぼすと、ひとつ頷き食卓に食器を伸ばした。
雨音が、次第に強くなっていった。
「本格的に降ってきましたな」
まだ開いていた居間の窓から外を眺め、ロンメルが言う。
その時、窓の向こうから、雨音以外の音が飛び込んできた。
木片が激しくぶつかり合う音である。
鏡花が食卓に伸ばしかけていた手を止め、部屋の壁に立て掛けてあった弓を掴む。戒斗も、咄嗟に椅子にかけた竹刀袋を取った。
村人が門の仕掛けを動かしてしまったのだろうか。
「ゴブリンだ! ゴブリンが出たぞ!」
村の若者の叫び声が響く。
戒斗の甘い期待は一瞬で裏切られた。
ついに来てしまった。昨晩張りつめていた緊張の糸が緩みかけたこの時になって、とうとうあの化け物が村にやってきてしまったのだ。
「アルコ! ルシー! こっちに来なさい! 私は村の者を避難させます。お二人も無理はなさらずに、どうか我々と……」
「私は行きます」
村人と共に避難する事を勧めたロンメルに、鏡花は短く返事をすると、一礼した立ち上がった。
「雨宮君、行きましょう!」
鏡花に迷いは無いようだ。
しかし、戒斗はすぐに立ち上がる事が出来なかった。
戻ってきたアルコとルシーの視線が刺さる気がした。
ロンメルは心配そうに戒斗を見つめている。
「雨宮君?」
ヒーローは、逃げない。
ヒーローは、決して逃げ出さない。
口の中で何度も呟くと、右手を握りしめて鏡花に頷き返す。
身体がこわばっている。せめて、準備運動くらいはしたかった。
敵が、あの化け物がそれを待ってくれるはずがない。
「……行こう」
声が上ずってしまいそうになるのをなんとか抑え、短く答える。
心も、身体も。何一つ、戦いにむかう準備は出来ていなかった。