第十四話 もう一度あの場所へ
戒斗がいつもの駐輪場に自転車を止めて、待ち合わせ場所である泉ノ公園の東口に到着したのは、十七時五十分であった。公園に背を向けて、道路に面した通りをぼんやりと眺める。
あと一時間ちょっともすれば、全く違う世界に行ってしまって、この見慣れた景色も懐かしいものになるのであろうか。
竹刀袋の上から、木刀を握りしめる。
ゴブリンに遭遇しない事が最も望ましい。
しかし、もし遭遇してしまっても、昨夜よりずっとうまく対処出来るはずだ。じっとしていると不安に飲まれそうな気持ちを、心の中で何度も鼓舞する。
斉藤との稽古で掴んだ感覚を失わないように、頭の中で何度も先程の対峙を思い描いた。
「雨宮君、お待たせ」
戒斗の意識が、頭の中の対峙から現実に引き戻される。
いつの間にか目の前に胴着と袴姿の鏡花が立っていた。
「あ、葉山……さん。その格好は?」
袴は着ているが、その丈膝上辺りでカットされている。少し丈の長いショートパンツを履いているような格好であるが、裾がパンツ姿よりもずっと開いていた。そのせいで、一見すると黒いスカートを履いているようにも見える出で立ちだ。
袴からのぞく白くほっそりとした脚に、少々目のやり場に困ってしまう。
「昨夜は森の中を動きにくかったから、思いきって袴を切ったの。見た目は良くないけど、だいぶ動きやすいわ」
「そ、そっか。頼もしいや」
戒斗の視線にも顔色を変えること無く、鏡花が答えた。
布で包んだ弓と矢筒を持ち、胸当てや手袋などの装備も、肩にかけたバッグからわずかに見えていた。武装と言っても過言ではない鏡花の格好に、これから戦いに行くのだという意識が駆り立てられる。
落ち着き払った鏡花の振る舞いは、心強くもあった。
「さあ、行きましょう。まずはいつも稽古をしている場所まで案内して」
「了解。こっちだ。行こう」
戒斗が前を歩き、その数歩後ろに鏡花が続いた。
陽が傾きはじめ、ほんのりと赤く色づく道を早足に進んでゆく。
かつて、今ほど緊張してこの道を歩いたことがあったであろうか。
「着いた。ここだよ」
道の脇につけられた階段を下り、泉のほとりに出る。
夕刻の稽古場はいつものように人通りも無く静まり返っていた。
「静かで良い所ね」
辺りを見回し、数度足元を踏みならしながら鏡花が呟き、そのまま弓にかけた布を外し始めた。
「まだ少し時間がありそうね。身支度をして、良かったら一緒に稽古をしましょう」
「一緒に稽古って、何か出来る事があるの?」
「そうね……」
矢筒を紐で腰に巻き付けながら、見向きもせずに鏡花が答える。
「雨宮君の動きを知っておきたいわ。得意な技や動きを、素振りでいいからやってみてくれない? 昨日みたいに、戦いの中で私が離れて雨宮君を援護をする事もあるかもしれないわ。出来るだけ動きを見ておきたいの」
「なるほどな。よっし! わかった!」
戒斗は足袋に履き替え、竹刀袋から木刀を抜き出した。
スマートフォンをポケットに押し込み、竹刀袋を肩から斜めにかける。
準備運動を兼ねて木刀を数度素振りをする頃には、鏡花も胸当てをつけ矢を手に持ち、すっかり準備を終えていた。
戒斗は蹲踞の姿勢を取り、気持ちを戦いにシフトさせていく。
「一回しか戦った事ないし、うまくイメージ出来るかわかんないけど。あの化け物ともし戦ったらって考えて動く。それでいい?」
「ええ。私もそうするわ」
「よし。……はあ!」
立ち上げると同時に気合の声をあげる。
昨日の夜の事を脳裏に思い浮かべた。
荒い息を吐き、小さな体躯に恐ろしい力を秘めた、黄色く濁った目をしたゴブリンを思い描く。
素早く凶暴な相手を前に、自分は如何にして戦うのか。
頭の中に敵を思い描きながら、戒斗は小手や突きを繰り出していく。
距離が縮まる時には得意の面打ちを見舞い、相手の戦力をそぐために頻繁に小手打ちを出す。至近距離での胴払いや組み打ち、そこからの体当たりも動きにとりいれていく。
後ろから数度、弓のしなる音がする。
矢をつがえているかはわからないが、鏡花が何度も弓を引いているのであろう。地面を叩くように踏む音も聞こえてきた。
弓の援護がある。
そう考えると、あえて距離を取るような戦いのほうが良いのかもしれない。
さすがにいくら肝の据わっていそうな鏡花よいえども、戒斗とゴブリンが組合っている最中に矢を放つことは出来ないだろう。
いつもの素振りとは全く違う稽古で汗が滲み始めたころ、辺りが徐々に薄暗くなっていった。
戒斗は一旦木刀を振るう手を止め、腕時計に視線を落とす。時刻はすでに十八時四十五分を過ぎている。
戒斗が動きを止めると、鏡花も弓や矢の点検に移っていく。
虫の鳴き声が響く静かな公園に、弦を確認する空気を震わせる音が響いた。
「もうすぐね」
心なしか、緊張した堅い声色で鏡花が言った。戒斗は頷き返し、右手の包帯に触れ、大きく深呼吸した。
「もしも向こうの世界に行った時に離れた場所にいたら、どうする? 声をあげて呼び合うか?」
「そうね。大きな声を出すのはちょっと躊躇われるかしら。その時はお互いに泉のほとりを歩きましょう。雨宮君は時計回りに。私は反時計回りに。そうすれば合流出来ると思うわ」
「なるほど! いいアイデアだな、わかった!」
戒斗にはそれ以上続ける言葉も見つからず、黙って持ち物の点検作業に戻っていった。
沈黙が長く感じられる。
ふと、今日は向こうの世界にはいけないのではないかという不安が頭の中をよぎった。だとすれば今までしてきた決心は、無駄であったという事になる。
とはいえ、そもそも泉のそばに居たら知らない世界に飛ばされた、等という事が有り得ない事なのだ。何も起きないという事も、冷静に考えれば十分に起こりうる事であった。
その時はどうしたものだろう。
鏡花はその事については、どう考えているのであろうか。
「なぁ、もし……」
鏡花に今考えた事を話そうと顔をあげた瞬間、その視界がぐらりと歪んだ。
頭がどうしようもなく重くなる。
昨夜と同じく、眩暈がやってきていた。
立っていられない程の眩暈が戒斗を襲う。座り込む戒斗の視界の片隅に、同じように地面にしゃがみ込んでいる鏡花の姿がうつった。
「うっ……葉山さん、これ……」
「え、ええ……」
頭を襲う重みに耐え兼ね、首がガクリと下がる。
視界が暗くなった。
どれほどの時がたったのか。
乱れた呼吸を少しずつ整えてゆく。
不意にやってきた眩暈が、襲ってきた時と同様にふっと消えた。
耳をすます。虫の鳴き声は聞こえてこない。
顔をあげて周囲を見回す。そこには見慣れた公園の景色は無い。
昨夜と同じ、見慣れない植物が鬱蒼と生い茂る森が広がっていた。
「ここは……」
「無事に移動出来たみたいね」
戒斗の後方で、右手を頭に当てた鏡花が言った。
「葉山さん、体調はどう?」
「さっきまでの眩暈は収まったわ、大丈夫。雨宮君は?」
「俺も、もう収まったよ」
「じゃあ、行きましょう。周りに気をつけてね。雨宮君、昨日たどった道は覚えてる?」
戒斗は森をじっと見つめる。
昨夜は声にするほうに遮二無二駆けていったので、景色をしっかりと覚えていない。しかし、奥の方に木が生い茂っていない場所が見て取れた。
「叫び声のするほうに真っ直ぐ向かったってだけだから、覚えていない。でも、あそこ見て。あそこだけ道が開けてない? もしかしたら、昨夜見たふみならされた道はあそこなのかも」
鏡花が戒斗の指さした方角を見る。
「確かに植物が整備されているわね。行ってみましょう」
鏡花が胸当ての紐を締め直し、矢の入った筒の蓋を外す。そのまま右手に矢を二本携えると、足早に進む。
戒斗は前を歩こうとする鏡花を手を掴んで制した。
「待って、葉山さん。俺が前を歩く。武器からしても俺が前衛だからな」
「そうね、じゃあお願いするわ」
立ち止まった鏡花が、少し考えてから道を譲った。
鏡花を追い抜き、前に出るために進む。
すれ違いざまに鏡花は小さな声で「ありがとう」と呟いた。か細い声に、鏡花の不安が伝わってくる気がした。意外なしおらしい声に、戒斗の緊張が少しだけ和らぐ。
照れ隠しに頷き返して、視線を前に向けた。
本日の一回目更新となります。
二回目更新は22時ごろを予定しております。
そちらのほうもよろしくお願いいたします。