第十三話 戦支度
戒斗と別れた鏡花は、弓道部の部室に足を運んでいた。
弓も矢筒もきちんと持っていかなければならない。誰もいなければ矢筒を数個抱えていくつもりであったが、すでにほかの部員が到着し、部活動の準備をしていた。
唇を微かに動かし、自分の矢筒に矢を入れられるだけ押し込むと、弓と矢筒を取り、一礼して早々に部室を後にした。
友人に名前を呼ばれた気がしたが、無視して足早に部室を出る。
集合時間まで後およそ二時間である。その間にやっておきたい事はいくらでもあった。
近くのバス停からバスに乗り込む。
華奢な少女が弓を担いでバスに乗り込むのが珍しいのか、乗客の視線が集まるのを感じた。
弓道を始めてからは慣れた感覚だ。
さして気にする事もなく、弓を斜めに置ける後部座席に着くと、動き出した窓の外の景色に目を遣る。舗装された道と工事中の標識が見える景色が流れていく。
ぼんやりと景色を眺めながら、鏡花は昨夜の戦い事を思い出していた。
あの時の矢は、二本ともゴブリンの頭を狙って射掛けたものであった。
しかし、実際には右腕に一本、右足に一本当たっただけである。
そこまで距離があったわけではないが、足場はひどい物であった。道場の木張りの床とは違い、森の中の土はひどく不安定であった。
しっかり踏み固め足場作りをしたつもりでも、いざ弓を引き絞るとじわりと足元がすべり、弓矢をもつ手も微かに揺れる。
踏ん張りきれない地面では、弓もしっかりと引ききれない。
足袋は靴よりもずっと地面をしっかりと捉えてくれたが、それでも足りないのだ。
もっときめの細かい砂地などでは、更に足元が不安定になるだろう。常に足場が確保できるとは限らない。何か対策はないであろうか。
矢に関しても、改善しなくてはならない。
まず矢尻は、競技用の物ではなく、きちんと攻撃を目的としたものに交換が必要である。幸い、鏡花が弓を武器とする事を決めたこの数年のうちで、足繁く弓道用具の店に通い準備していたものが多数ある。
付け替えるのにもそれほど手間はかからない。
それは、出発前に忘れること無く変えておきたかった。
矢の羽についてもそれぞれに合う物を数本用意してあるが、これをきちんとつけるには手間がかかる。少なくともこちらは今日中に変えることは出来そうにない。現状の羽にあった矢尻をつけていくことが上策であろう。
高校生がここまでの用具を揃えるのは並大抵の出費では無かったが、鏡花は小さな頃から溜めていた金を躊躇なく費やしていった。
執念にも似た戦いへの決意は、重症を負ってこちらの世界に戻ってきてから、一度も揺らいではいない。
思えば様々な武道を経て、弓道に行き着いたものであった。
およそ格闘技と呼ばれる競技のジムや武道の道場は見学し、時にはそこで修練も積んできた。
しかし、どの場所に置いても、女子が男たちの中に混じって、引けを取らずに渡り合える物はありはしなかった。
だが鏡花は、男はおろか、化け物相手に闘いを挑まなければならなかった。
あの、『サムライ』と呼ばれていた人間の背中を護れるような力が欲しい――
そう思い悩んだ時に行き着いた答えが、弓であった。
女性が学んでもおかしくなく、稽古の場も多くはないが確保がそれほど困難ではない。アーチェリーよりも殺傷能力が高く、種類によっては飛距離も長い。
それでいて、比較的入手も難しくはなかった。
60mの距離を超えて突き刺さる矢には、力が籠められている。
弓の技を磨き、サムライと共にいつかあの化け物達と戦う。
サムライの力になり恩を返し、レオの仇をこの手でうつ。
その一念から、大会や競技会などには目を向ける事もなく、ひたすらに技を磨いた。そして、試しに出た大会では周囲を寄せ付けぬだけの成績もあげていた。
それもすべて、この日のためである。
今日また再びあの世界にいけるのであれば、その時こそあの男と再会を果たし、その片腕となる。
決意を胸に弓を握りしめた。
いつの間にかバスは鏡花が降りるバス停のすぐそばまで進んでいた。胸の内の決心で周囲の状況を忘れた自分を束の間嗤うと、停車ボタンを押し、降り口に向けて歩き出した。
「ただいま」
家に帰って誰もいない居間に向かい一声かけると、鏡花は玄関のすぐ横にある自室に入った。
矢筒から矢を取り出し、早速先端の矢尻を一つ一つ交換してゆく。
矢筒の中に押し込んだ矢は二十数本あったが、押し込み過ぎて咄嗟に矢を抜き出しにくいので、数本の矢は筒に戻さず部屋に置いてゆく事にした。
恐らく実戦では矢筒を腰元辺りに吊って射る事になるだろう。
矢の取り出しやすさはかなり大切な要素となってくる。
二の矢が引けない状況は避けたかった。
矢筒にも工夫を凝らす。鏡花の使っている矢筒は矢よりも長く、蓋を外しても筒を傾けなければ、すぐに矢を取り出せない。
後ろ手に手探りでも矢を引き抜けるようにするため、筒の底に丸めた新聞紙を詰め込み、筒全体の深さを調整してゆく。
筒の外側には紐をくくり、袴の右腰に括り付ける事が出来るようにした。
筒の改装と確認が終わると、すぐに弓を取り出す。
こちらは一度弦をはり、弦に不具合がないか入念に確認をしてゆく。
一本の弦が終わると、引き出しの中からすでに自分の弓用に調整してある弦の何本も取り出し、全てを順番に同じ手順で確認を繰り返した。
弓本体はそれ自体が大きく動きも制限されるため、スペアを持ち歩くことは出来ない。それでも、弦だけならばまとめておけば荷物にもならないのだ。
弓矢の手入れを一通り揃えると、袴を取り出した。
昨夜は袴の裾が邪魔で思うように走る事が出来なかったのだ。鏡花の手持ちには、行燈袴と呼ばれるスカート型のものと、馬乗袴と呼ばれるキュロット型、ダブダブなズボンのような形状の袴がある。
不意の風でひるがえり邪魔になるような事の無いように、異世界には馬乗袴を着用していく事にする。
鋏と糸、それに縫い針を取り出すと、おもむろに袴に鋏を入れていく。
その裾を半分ほど切り落とすと素早く折り返し、針と糸で裏側を縫い付けていく。
これでおおよそひざの辺りまで短くなったはずである。胴着に着替えて袴を履くと、丈の短い袴は落ち着かない感じはするものの、動きやすそうであった。
この辺りの準備は、想定していた事でもあるので、スムーズに行う事が出来た。他にも準備をしたいものはいくらでもあった。
しかし、時間は待ってくれそうにない。
弓と矢筒、それにいくつかの荷物をまとめ、髪を左側に手早く結いつけ、玄関に向かう。足袋の上から靴を履く。
「行ってきます」
低い声で呟くと、鏡花は公園へとその足を向けた。