第十二話 一振りに全てを
喉を突かれた痛みに咳き込みながらも、戒斗は斉藤に詰め寄った。
「先生、もう一本、おねがいします!」
「今の立会いでわからなかったのか? 雨宮、お前は強いがまだ甘い」
「先生どうか! げほっ!ごほっ! はぁ、はぁ……お願いいたします!」
戒斗の喉元がずきりと痛む。
しかし、そんなことは気にしていられない。
斉藤は、持っていた竹刀を加藤に差し出した。
「勝敗はまだついていないです、先生! 剣道は三本勝負じゃないですか!」
賭けであった。
圧倒的な実力の差はすでに証明されている。
誰の目にもこれ以上の試合は必要がない。それでも食い下がるには、こんな言葉しか思いつかなかった。
「お願いします!」
戒斗は加藤に渡された竹刀を掴み、斉藤の前にもう一度差し出す。
押し付けるように持たせ、向かい合う形で蹲踞の姿勢を取った。
ほんの一瞬の沈黙が、長かった。
活気に満ちていた道場が静まり返っている。
外しかけていた面のひもを締め直し手甲をはめて、斉藤が戒斗の前に立った。そのまま蹲踞の姿勢になり、戒斗と向かい合って竹刀を合わせた。
「来い」
低い声が、戒斗の腹に響く。
加藤は戸惑うように二人を交互に見渡した。
「あ、雨宮……」
「加藤、頼む!」
加藤がほかの部員に目配せした後、審判の位置に立った。
視線を送られた部員は、準備室から救急箱を持ってきていた。自分は何をしているのか――戸惑いとも自嘲ともとれる不思議な感覚が、戒斗の胸の中に芽生えた。
不意に芽生えた不思議な感覚は、胸の中を所狭しと暴れまわりながら時に笑い、時に怒鳴り散らし自分に問いかけを続ける。
何をしている。
絶対に勝てない。無謀だ、大怪我だ。
全国大会はどうする。異世界など夢だ、忘れてしまえ。
あんな約束など……
「はああっ!」
胸の中を駆け回る雑念を、気合いとともに払いのける。
ヒーローはどんな時でも逃げださない。
自分は、父のように約束を破ったりしない。
強くなる、そのための瞬間、そのための試練なのだ。
重い沈黙も、喉の奥を焼く痛みも、目の前の圧倒的な重圧も、訳のわからない異世界も。全て跳ね除けていかなくてはならない。
「はじめ!」
加藤の声にも熱が帯びていた。
斉藤が立ち上がり竹刀を正眼に構える。
竹刀が触れ合うかどうかの距離で、同じく戒斗も正眼で構えた。
対峙。
先程までと同じであった。
いや、あの鋭い返し突きを見ている分、余計にかすかな動きが気になった。
斉藤の足さばき、竹刀の軌道、息遣い、どこにも隙は見出せない。
(このままじゃ、勝てない……)
この対峙は完璧に斉藤の間であった。
体躯、腕力、そこから繰り出される竹刀の速度。
すべてが戒斗を上回っている。
自分には何か斉藤よりも優れている物はあるのか。思考を巡らせた。
その瞬間、手元に抗いがたい重みを感じた。
「っ!?」
戒斗の迷いを見切ったかのように、斉藤が竹刀を巻き上げに来たのだ。
咄嗟に後ろに下がるが、竹刀とともに巻き上げられかけた戒斗の腕が上にあがる。
胴が空いた。
斉藤の姿はもう目の前まで迫っている。
(避けられない!)
戒斗は瞬時に前に踏み出した。
斉藤と思い切りぶつかり合う形で、迫りくる胴払いをなんとか避けた。
しかし、斉藤の巨体に吹き飛ばされる。
すぐさま跳ね起き、横に大きく飛びのいた。そのすぐ目の前を、鋭く風を切る音と共に竹刀が過ぎ去った。
再び対峙した。
斉藤は全く呼吸も乱れていない。戒斗はすでに肩で息をしていた。
惚れ惚れするほどに、斉藤の動きは無駄が無く鮮やかだ。
恐らくは手加減もされているはずのこの立ち会いの中で、戒斗は成す術もなく負けようとしている。
(それなら……)
一か八か。
そんな姿勢で戦いに臨んでいいのかわからない。
いや、命懸けの戦いは常に一か八かの連続、生と死の変幻の中にあるはずだ。ならば、そこで自分には何があるのか。
脳裏に浮かぶのは、戒斗の稽古の原風景である。十年以上のたゆまぬ訓練を繰り返してきた、あの素振りだ。得意の面打ちに全てをかけるしかない。
(この一振りに全てを、全てを乗せる!)
「おおおぉぉ!」
掛け声と共に、戒斗は上段に構えた。それを見た斉藤は得意の突きを繰り出すこと無く、意外にも同じく上段の構えを取った。
同じ舞台で戦おうという恩師の声が聞こえた気がした。面の奥で、目が合った。
(来い)
(行きます!)
そんな会話を交わした気がした。
この一瞬、戒斗は異世界の事も、化け物の事も、勝ち負けさえも忘れていた。
鍛錬の日々をこの一振りに乗せることだけを思った。
気持ちのぶつかり合いが、徐々に密度を上げていく。
戒斗の目にはもはや構えた斉藤の姿しか映っていない。
声も発さずに踏み出した。
全身全霊の一撃。
全く同じ軌跡で振り下ろされてゆく、対峙した二本の竹刀。
頭部に激しい衝撃を感じた。
腕に残る手応えは鈍い。
斉藤の刹那の速さに、戒斗の面打ちは肩口に外れていた。
「めぇぇぇぇん!」
斉藤の声は遅れて聞こえてきた。完全に、負けた。
だが、戒斗は今までの負けとはまるで違う手応えを、確かに感じていた。自分の稽古の日々を、試合で培ってきた日々を全て乗せて振るう一撃。
こんな打ち込みがあるのだ。自分にも、出来るのだ。はせ違った姿勢で腕に残る感覚を忘れないように、頭に、心に刻みつける。
「一本! 勝負あり!」
加藤の声に我に戻ると、向かい合い礼を交わす。
面を外し、戒斗は斉藤に駆け寄った。
「先生! 本当に、ありがとうございました!」
同じく面を外した斉藤が頷く。
「何かを掴んだな、雨宮」
「はい。言い尽くせない程のものを、掴んだ気がします」
「それは、お前が長年培ってきたものだ。一朝一夕で得られたものでは無い。大切にしろ」
「はい!」
戒斗はもう一度、大きく頭を下げた。
「よし、これより通常の稽古に戻る。皆、準備をしろ」
斉藤は静かにいうと、防具を外しジャージに着替えるためか、奥に下がった。壁の時計に目をやる。時刻は十七時に近づこうとしていた。
そろそろ、向こうの世界に行く準備をしたほうがいいだろう。
「失礼いたします!」
戒斗は斉藤の下がっていった部屋に大きな声を投げかけると、急いで防具を外し、それを準備室に放り投げ、制服に着替えて駆け出した。
唖然としている部活の仲間たちを尻目に、駐輪場へと走る。
自転車に飛び乗り、自宅へと急いだ。
鏡花と合流する前に、用意しておきたい物がいくつかあった。工事中の標識をいくつか目にしながら、通いなれた道を走ってゆく。残暑が厳しい陽射しの中を、風を切り進んでいった。
十分ほどで自宅につくと、自転車を門のすぐ横に置いて家にあがる。
「ただいまー!」
いつものように奥にいるであろう母親に声をかけながら、自分の部屋に入った。家に居る間は出来るだけいつも通り振るまおうと、学校に居る時から決めていた。
とにかく、母に心配はかけたくない。
竹刀袋を手にとり、木刀を取り出す。
昨日の戦いでいくつか傷がついているが、強度に影響を与える程のものは無さそうだ。木刀を丁寧に布でふき、袋に戻す。履きなれた足袋をタンスから取り出し、同じく竹刀袋に畳んで入れる。
足袋は靴よりもずっと素足に近い感覚で、外で剣道の足さばきに近い感覚を可能にさせてくれる。
他にも用意しておきたいものはあるが、あまり荷物が大げさになりすぎるのも家を出る時に怪しまれかねない。悩んだが、竹刀袋にスマートフォンの携帯充電器を入れて持ち歩く事にした。充電池式の携行なので、どこでも充電が可能なタイプだ。
向こうの世界に電波は無い事は昨夜確認したが、カメラとしての機能は十分に期待出来、メモ代わりにも使える。少なくともあって邪魔になるものではないだろう。
持ち歩いて邪魔にならない程度には飲食物も持っておいたほうが心強い。
竹刀袋とボディバッグに分けて、ペットボトルやバランス食品をいれようと決めた。これは手持ちもないので、泉ノ公園への行きがけにコンビニで買っておかなくてはならない。
防具が何か欲しいところであったが、剣道の競技用の防具は少々動きにくい。その上、あの時ゴブリンが持っていた石斧を防ぎきれる硬度があるとも思えなかった。
ヘルメットなどがあればいいのだが、あいにくそんな物の持ち合わせはない。
自分の部屋で整えられるものは、概ね準備したように思えた。
戒斗は部屋を出て、キッチンにいる母にばれないように消毒薬や絆創膏を取り出した。包帯は無いが、今右腕に使っているものを代用すればいい。
傷を隠すために巻いているが、恐らくここは絆創膏でも代用が効く。
包丁を持ちだせたら……
そう考えたが、戒斗が立ち向かう相手は頭蓋骨を陥没させても生きているほどの生命力を持つ化物である。料理用の包丁がどれほど役に立つかは怪しいもので、使い慣れた木刀の方がずっと有効だろう。
あれこれと考えてしまうと、何か足りないのではないかと不安になってくる。
未知の世界に行くのだから当たり前ではあるが、これではきりがない。
腕時計を確認すると、時刻はもう十七時半である。
「よし、いくか」
小さな声で言うと、キッチンの奥に向かって「泉ノ公園に、稽古に行ってくる!」と告げて玄関を後にした。
「いってらっしゃい、夕飯までには帰るのよ!」
家のドアを閉める直前に母の声が聞こえた。心の中でもう一度、行ってきますと呟くと戒斗は静かにドアをしめて自転車に跨った。
コンビニで予定通り携帯出来る食品の買い物を済ませると、ハンドルを泉ノ公園に向けて思い切りペダルを踏みだした。
「ヒーローは、どんな時でも……逃げ出さない!」
一際強くペダルを踏み込む。
戒斗の乗った自転車が、快よい速度で道路を走り抜けていった。
本日の更新はここで終わりです。
ようやくバトルっぽいバトルに近づけた…ような……
剣道の試合はほんとに速いですよね。
明日もよろしくお願いいたします。