第十一話 刹那の立会い
「遅いぞ、雨宮!」
「すいません、遅れました! すぐに準備します!」
戒斗が道場に駆け込むと、すぐさま剣道部顧問の斉藤の怒号が飛んできた。
怯む事なく一礼を返し、急いで防具を身に着けはじめる。
他の部員は各々準備運動をしている。
防具をつけ、壁にかけられた時計を確認すると、部員たちの竹刀入れから竹刀を二本持ち斉藤の傍に足早に近づいた。
そのまま持っていた竹刀の一本を斉藤に差し出す。
「先生、お願いします!」
「雨宮、いきなりなんの真似だ?」
「先生に稽古をつけて欲しいんです、お願いします!」
戒斗は正座をし、武道の礼をとる。
斉藤はまだ若く、今年で三十一歳である。
剣道の段位には年齢と習熟による制限があり、斉藤は自らの年齢では最も高位である六段を所持した。いわば剣道界でも上位の実力者である。
全国大会出場等という戒斗の経歴も、この斉藤の積んできた功績の前ではかすむ。いや、比べることも出来ないほどのものだ。
この人との本気の立会いは、どれほどのものなのか。想像しただけでも戒斗の身はすくむ。
だがその恐怖を凌駕しない限り、命の奪い合いの中で冷静に太刀裁きを考える事など出来るはずがなかった。
「雨宮、いきなりどうしたんだ? 遅刻してきたと思ったら、準備運動もしないでいきなりこんな真似をして」
「心に期するところがあるんです。先生! どうか、お願いいたします!」
戒斗は深々と頭を下げた。
今の戒斗にはこれに勝る訓練は無い。短期間で簡単に強くなれるということなど、ありはしない。
それは今まで十年以上鍛錬をしてきた自分も良く知っている。
それでもなお、何かをしなくてはいけない時がある。
ほんの僅か、一歩にさえ満たぬ前進であっても、それが命を繋ぐことだってあるのだ。
その歩みを踏み出すため、手段を選ぶつもりはなかった。
「……準備運動をしっかりとしておけ」
短く言うと、ジャージ姿の斉藤が竹刀を受け取り奥の更衣室に向かって歩いていった。
(やった!)
心の中でガッツポーズを取った戒斗に、ほかの部員たちが近寄ってくる。
「おい、戒斗。お前死ぬ気かよ!」
「あの斉藤六段に挑むなんて、どうかしてるぜ!」
「全国大会行く前に病院送りだぞ!」
口々に交わされる言葉を無視し、戒斗は準備運動と素振りを開始した。
やる気満々な戒斗を見て、部員たちも止めるのを諦めたように引き下がった。
中には稽古が潰れ幸運だと思う者もいたであろう。
戒斗は頭の中にゴブリンとの闘いを思い起こしては、一振り一振りと速度を上げていった。しっかりと全身が温まっていく。
更衣室の木でできた引き戸が、がらりと音をあけ開く。中から防具をつけた斉藤が現れた。すでにその手には竹刀が握られている。
面の奥から目で促され、二人は道場の両端に立ち、向かいあった。
「加藤、合図はお前が出せ」
剣道部の主将である加藤が名前を呼ばれ、緊張した面もちで返事をする。
斉藤が竹刀を左手に持ちかえた。持つ場所はつばの横だ。
物打と呼ばれる、刀で言えば刃の部分である。
その根根元を持って立つ。戒斗も同じ姿勢で改めて向かい合うと、互いに同時に礼を交わす。
二人がそれぞれの方向に三歩踏み出す。
斉藤と戒斗が同時に竹刀を構えた。
そのまま背筋を伸ばし膝を折り、爪先立ちになった。
剣道でいう蹲踞の姿勢で、お互いの竹刀を交わす。
戒斗の全身を、緊張が包み込む。
温まったはずの身体のどこからか、ひやりとしたものが全身を駆ける。
斉藤の恵まれた体躯と美しいとさえ思える所作に、言い知れぬ圧力を感じた。
(まだはじまってもいない! 気合い入れろよ、戒斗!)
大きく息を吐き、手のひらに力を込めた。
斉藤の視線が一瞬、合図を出すことを命じられ審判の位置にたった加藤に向けられた。
加藤は堅い表情で頷くと、軽く咳払いをした。
「はじめ!」
合図と同時に二人が立ち上がり、竹刀を胸元の高さに斜めに突き出す正眼の構えで向かい合う。
「はあっ!」
斉藤の裂空の気合いが道場に響き渡る。
大音声が戒斗の全身をうつ。
斉藤の身体が、戒斗にはどうしようもない程の巨人のように見えた。
ずっしりとした構えに隙は無い。
今まで試合で向かい合ってきたどんな相手とも比べ物にならない重圧に、気持ちが押される。
かすかな切先の動きで心が乱される。
足元のわずかな動きに、思わず身を護りたくなった。
(この感覚……)
ゴブリンと向かいあった時は、必死であった。
一体どのような動きに出るのか、後の先を待つより他になかった。
今もそうだ。剣道というルール化された競技の中でさえ、一体相手がどうくるのか、一向にわからない。
いや、剣道というものを知っているからこそ、斉藤の発する重圧からの動きが読めなかった。
かすかに揺れる竹刀は、それ自体が命を持っているかのように変幻に戒斗を惑わせる。
だが、この重圧に負けるわけにはいかない。
降着が続く一瞬、斉藤の竹刀が下がる。
恐らくは、斉藤の誘いだ。
それでも、あえて戒斗は攻撃を仕掛けた。
相手の想像を超えるだけの鋭い動きが出来れば、相手が仕掛けた誘いであろうとチャンスに変えられるはずなのだ。
「てぇ! めえぇぇぇぇぇん!」
斉藤の竹刀が下がった手元を打つと見せかけ、竹刀を突き出す。
僅かに相手の腕が回避のために畳まれそうになった刹那、思い切り踏み出して面打ちを見舞う。
しかし、戒斗の面打ちが届く前に、斉藤の竹刀が鋭く戒斗の喉元に突きを当てた。
かなり手加減された突きであろう。
それでも戒斗が次に見た光景は、吹き飛ばされて仰向けになった自分の目がうつし出す天井であった。斉藤の掛け声は遠くに聞こえた。
突きは大会によってはその危険さから禁止されている。
その上、繰り出した後の姿勢に隙が多く、多用はされにくい技である。
過度な面打ちには有効と言われる事もあるが、初手でいきなりの突きはそうはない。
喉元の激しい衝撃に咳き込みながら、戒斗は圧倒的な力量の差に歯噛みした。
もっとも、咳が止まらずなかなか歯を合わせては居られなかった。ふらつく身体を自ら叱咤し、戒斗は立ち上がった。
お互いが道場の真ん中に向かい合う。
「一本!」
加藤が向かって右に立つ斉藤の勝利を告げながら、右腕をあげる。
互いに再び蹲踞の姿勢を交わし、竹刀を腰元に収める。
立ち上がり下がって礼を交わす。
稽古として行われた試合は、三分も経たずに終了していた。斉藤が面を外そうとした。
まだ、時刻は十六時半である。
戒斗はふらつく体を自ら叱咤して、斉藤に駆け寄った。
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