第十話 泉の向こう側
六限終了のチャイムがなった瞬間、戒斗は結局食べる機会に恵まれなかった弁当を大急ぎでかきこむと、終業のホームルームを待った。
しかし、担任はなかなか現れない上に、来たら来たで長ったらしい学校行事の説明をはじめた。
戒斗の耳にはそんなものは当然入ってくることは無く、目はせわしなく窓の向こうに向けられていた。
今のところ、窓から見える範囲に鏡花の姿は無い。
余りに長いので、愛想をつかせて先に泉に行ってしまったのであろうか。
それとも、E組もまた長々しいホームルームに苦戦しているのであろうか。
逸る気持ちの中、日直の「起立、礼」という言葉を耳にすると戒斗はカバンを掴み取り、一目散に教室の外に出た。
教室の外では、すでに鏡花が壁に寄りかかり如何にも退屈そうな顔をしている。教室を飛び出して来た戒斗を一瞥すると、ぼそりと冷たい声を戒斗に向けた。
「遅い」
「葉山さん、待たせてごめん!」
「別に、雨宮君のせいじゃあないけどね」
「え……。あ、そういやそうか! なんで俺が責められるんだよ!」
「責めてないわよ。じゃあ、行きましょう」
どこか超然としていてクールな鏡花を相手にすると、戒斗はベースが狂ってしまう自分を感じた。
異世界に対する圧倒的な情報量の差からくる、今は逆らえないという思いも相まって、どうにも振り回されてばかりな気がしてしまう。
そんな事を考えていると、鏡花は戒斗に背を向けてさっさと歩き出してしまった。
「おいおい、どこに行くんだよ!? また屋上とかめんどくせーぞ!」
「じゃあここでお話したいの? いい趣味してるわね」
半身だけ振り返った鏡花が、顎で教室のほうを軽くさした。
教室の出入り口や窓から、クラスメイトたちが鏡花と戒斗に注目している。
「あれ? お前ら、何してんの……?」
「剣道で大会に優勝すると、彼女も出来ちゃうのか? 羨ましいねぇ」
「何を言ってんだ小林? あっ、これは、その……」
小林に冷やかされ、戒斗はようやく状況を悟った。
鏡花の昼休みの突然な訪問。
ホームルーム後に教室前で待ち合わせ。そして、会話の内容。
お互いだけが知る秘密を共有し、人前で話せる内容はどうしても限られている。
そのせいで、二人のやりとりは聞いた人間をおかしな方向に勘ぐらせるには十分なものであろう。
そちらの方面に疎い戒斗でも、クラスメイトたちの好奇の眼差しで、その事はよく理解出来た。
早々に場所を変えたくなる鏡花の気持ちも、今ならわかろうというものだ。
「これはお前らが思っているような事じゃねーからな! へ、変な勘違いすんなよ! 葉山さん、待ってくれよー!」
余計にどつぼにはまりそうな言い訳を残しつつ、クラスメイトの冷やかす声を背に戒斗は駆け出した。
早足の鏡花はもう随分前に進んでしまっている。駆け足で鏡花の背中に追いつくと、鏡花は振り返りもせずに「賑やかなお友達ね」と漏らした。
「わりぃ。それで、どこに行くんだ? 泉ノ公園か?」
「あそこに行くのは夕暮れ時でいいわ。とりあえず、変な先客さえいなければ屋上でいいんじゃないかしら。話に熱中してしまっても、陽の傾きを見落とす事もない場所だし」
「ナイスアイディア! 葉山さん、あったまいいなぁ」
二人は連れたって、昼休みと同じ道のりを歩く。
窓を乗り越える時にどうしても見えてしまう鏡花の足の付け根に目がいかないように、戒斗は鏡花よりも先に窓枠を跳び越えてグラウンドを眺めた。
窓枠を乗り越えてきた鏡花と戒斗が向かい合う。
「一応確認しておくわ。もう一度あの世界に行く決心は変わらないの?」
「ああ!」
力強く頷く戒斗に、鏡花も軽く頷きを返した。
「わかったわ。私の知るあの世界の事はもう、雨宮君に昼休みのうちに話したわ。今度は一緒に行くための事を話しましょうか」
「一緒に行くっていうと?」
「昨夜はお互い別々の場所で眩暈にあって、向こうの世界でも居る場所は別々だったでしょう。だから、最初から一緒に闘う事も出来なかった。これは私たちにとってデメリットだわ」
「なるほど、確かにな。でもよ、同じ場所にいくなんて事が出来るのか?」
「私は、世界が行き来出来る事から、二つの世界はどこかで繋がっていると考えているわ」
「繋がっている?」
「そうよ」
「それって、つまりトンネルでもあるっていう意味でいいのか?」
屋上の風が鏡花の髪を舞い上げた。
グラウンドの喧騒は、部活動の掛け声に変わっている。
硬球を弾く金属バットの冴えた音が校内にこだました。
「少し違うけど、そう考えて貰ってもいいわ。どうせ私の考えだって推論でしかないのだから。ねえ、雨宮君は泉と池、それと湖の違いって知っている?」
「え? なんだよ、急な質問だな。泉と池と湖の違いって……。そんなのわからないよ」
「まあ、普通そうよね」
戒斗は眉をしかめた。
日暮れまでの貴重な時間を、回りくどい会話やなぞかけに使いたくはなかった。
腕時計に目を落とすと、もう十五時半近い。昨日と同じ時間にあの場所に、と考えれば、残りはせいぜい三時間しかないのだ。
「時間が無いのはわかるだろ! なんかあるんなら全部教えてくれよ!」
「わかっているわ。ただ、私だって未だに混乱しているのよ。順序立てて説明しないと、雨宮君を余計に惑わせるだけになっちゃうじゃない」
「う……、頑張って聞くからよ。頼む」
「それもそうね。じゃあ、説明するわ。泉は地下水が自然に湧き出ている所の事を呼ぶ名称らしいの。池は、くぼ地とかへこんだ場所に、自然に水がたまったところ。そして、湖は周りを陸地で囲まれた所に水をたたえる場所よ。琵琶湖とかを想像して貰ったら、なんとなくでも解かりやすいかしら」
「ううむ。池と湖の違いがわかりにくいが、それはいいや。とりあえず泉は下から水が湧き出している場所なんだな?」
「そう。勿論あの公園も『泉ノ公園』なんて呼ばれる位だから、真ん中にある水場は泉なのよ。でもね、あの公園の水が、泉の中のどこから湧き出しているのか、未だに解っていないらしいわ」
「水の湧き出す場所が、わからない泉……」
「私も、九年前から色々調べたわ。図書館にも通って古い資料を読んだり、高校に入ってからは歴史の先生に尋ねたり、大学まで足を伸ばして教授に話を聞いたりもした」
「そ、そんなことまでしたのかよ!?」
「高校生っていう肩書きは結構便利だったわ。大学のオープンキャンパスの時にきちんと手続きすればどこの大学だって堂々と入っていけたもの。成果は無かったけどね」
「葉山さん、すげぇな」
鏡花の行動力と調査能力に、戒斗は言葉を失った。
この少女は、考えている。到底すぐには思いつかないであろう所まで、長い年月を駆使して調べ、答えを探しているのだ。
愛犬の話しを聞いた時の、あの闘志をたたえた目を思い出す。
彼女は、その心の刃を錆びさせることなく、九年間磨き続けてきたのだろう。
その切先は、今なおただ一つのものに向けられているのだ。
それに比べて我が身の情けなさはなんなのか。
ほんの半日前の事なのだ、どうしようもないではないか。
そう言い聞かせて納得させるのは容易いのかもしれない。
だが、果たしてそれでいいのであろうか。慣れない思考の海に沈みかけている戒斗に、再び鏡花の言葉が向けられた。
「だから、あの泉には何かある。きっとそれは間違い無いんだと思うわ。現に私だけではなく、雨宮君も泉のほとりであの世界に飛ばされている。まだ見つけられていないカギのようなものが、向こうの世界にあるのかもしれない」
「わかった。たった半日の間考えた俺の意見より、葉山さんの考えはずっと深い。俺は、約束を果たしたい。だから、あんたに従うよ葉山さん。俺をあの世界にもう一回連れていってくれ」
「わかったわ。自信は無いけどね」
鏡花は自嘲的な微笑みをたたえた。その視線が上を向く。
太陽はまだ青空のもと、力強く二人に照りつけていた。
「まだしばらくは陽が暮れそうには無いわね。今のうちにそれぞれ支度をしておきましょう」
「時間はどうする?」
「そうね……。雨宮君、昨日は向こうの世界に飛ばされる前に時計は見た?」
鏡花の問いに戒斗は大きく頷いた。
そこには、ようやく少しでも具体的な事が言えるという情けない嬉しさがあった。
「ああ! 十九時前だった。ちょうど時計を見て、あと少ししたら稽古も切り上げないととって思った時に眩暈に襲われたんだ」
「十九時前……。雨宮君、時計を見せて」
「え? 時計を? これだけど」
戒斗が左腕を差し出すと、鏡花も自分の左腕をその横に添える。
そこにはシンプルな銀板に茶色いレザーの留め具があしらわれた、なんともシンプルな腕時計があった。
「時間はほぼ合っているわね。これならある程度別行動しても問題なさそうね」
「別行動っていうと?」
「向こうに行っても良いような準備よ。私の場合はまず弓と矢、それに弓道の道具一式は必要だわ。雨宮君も木刀が必要でしょう。それぞれ必要な道具を、一緒に取りに行っても時間の無駄でしかないわ」
「なるほどね。やれやれ、あんな化け物がいるんじゃ、真剣が欲しいところだぜ」
「そっちのほうが心強いわね。もしも心当たりがあるなら頑張ってほしいわ」
「やすいもんでも数十万だぞ、無茶いうなよ」
戒斗はかつて、剣道に携わるものとしては有り勝ちなことかもしれないが、興味があり真剣について調べたことが何度かある。
しかし、日本刀はどんなに安価なものでも数十万円はするようだ。
せめて模造刀を、とも考えたが、それもすぐに調達出来る見込みはない。
「高校生の辛い所ね。私もそこまでの手持ちは無いわ。とにかく、出来る限りの準備をして、十八時に泉ノ公園の西口に待ち合わせしましょう」
「西口?」
「ええ。私がいつも弓道場が使えない時に、稽古に使っている場所よ。勿論矢を射る事は出来ないけれどね」
「へええ、葉山さんもいつもあそこで稽古していたのか。俺はいっつも東口のほうから入って泉の側で稽古していたよ。ん? 待てよ」
「どうしたの?」
「昨日、化け物の所に先に駆けつけたのは俺だよな? あの戦った場所は地面が踏み固められていて、周りに比べるといかにも人が通るように整備された道だった。森の中よりずっと剣の踏み込みもしやすかったんだ。てことはさ、俺のいた位置の方が、人の居る場所の近くに行きやすいんじゃないかな?」
戒斗の意見に、鏡花は口元に手を当て少し考える表情をする。
やがてその手を離すと戒斗を見て大きく頷いた。
「雨宮君の言う通りかも知れないわ。じゃあ、待ち合わせ場所は東口の入り口に変えましょう。その時に、雨宮君がいつも稽古している場所に案内して」
「わかった、任せてくれ! それじゃあ葉山さん、後で公園で!」
窓枠に手をかけ、準備の跳びだそうとした戒斗を鏡花が呼び止めた。
「待って、雨宮君。公園に入ったら、明るくっても向こうの世界に持っていくものは肌身離さないように気をつけて」
「それは、どういうこと?」
「昨夜、私は弓の稽古をしていた時、右手には二本の矢を持っていたわ。そして、すぐそばに矢が沢山入った矢筒も置いてあった。でも、向こうの世界に持ってこれたのは、直接触れていた二本の矢だけだったの」
「身体から離れているものは、持っていけないって事か?」
「多分、だけどね。用心に越したことはないわ」
「わかった。ありがとう!」
鏡花と目を合わせて大きく首を縦に振ると、戒斗は窓枠を跳び越え駆け出した。
部室に向かって走る。
時刻はまだ十六時を少し回った程度である。
悩んだが、短い間だけでも部活に顔を出すことにする。
全国大会のための練習ではない。
少しでも実戦に近い形で稽古をしておきたかったのだ。
泉での素振りよりも、剣道部で人を相手にしたほうが、実戦には近いであろう。
何よりも、戒斗にはそのアテがあった。
日付が変わってしまいましたが24日分更新です。
25日は昼に出来れば一回、夜は確実に更新します。