08
空中に足場を作り、その上を駆けるというのは。特に難易度が高いという事もなく、感覚的のみで行えた。
感覚任せの行動というのは、利点と欠点を孕んでいる。利点は、単純に感覚以外の余計なものを使用しないという事。欠点も同様だ。感覚に依存するが故に、非効率な部分が目立つ。上手く最小限に行うには、大なり小なり、理屈と理論で修正する必要がある。
(こいつも用訓練だな。今のままだと、本当に空中で戦えない事もないってだけだ)
疑似地面を強く蹴りながら、ナギはそんなことを考えた。
そのうち普通に飛べるようにもなるようだ。
空中での白兵戦ならば、やはり足場を作って戦う方がいいだろう。直線移動では、飛翔した方が遙かに早いが。それは、敵対者と自分の移動速度を比べれば明らかだ。
(逃亡団とは結構距離が離れてるとは思うが、これは遠いのか近いのか……。なにしろ初めての事過ぎてよく分からんな)
常識的に編成を考えるならば。三人いる敵の内、少なくとも一人は遠距離攻撃に特化しているだろう。会敵予想地点から、敵の遠距離攻撃が仲間に届かないかどうか、それははっきりと賭だ。仮に賭に勝ったとして、白兵戦特化の敵にもたつけば意味がない。
(先手……)
敵の姿が肉眼で見える。
刃を平らに寝かせた。
敵三人の内、唯一全身鎧を着た一番大きな敵が、前に出てくる。そして、身の丈よりも大きな大剣を構えた。
できれば最初の一撃で、三人の内一人を始末したかったが。それは無理そうだと考え直す。さすがに、そこまで容易くはなさそうだ。
最後の一歩を強く踏み込む――相手の目算を崩させる。その上で、刃を水平に走らせ――これも虚だ。実際は、やや下から潜り込むようにして切りつける。小手先の技だが、音速を超える者同士の接触であれば、かなりの力を発揮するだろう。
と、思えたのだが。
耳にいたいほどの甲高い音が、周囲にまき散らされる。当たれば鎧ごと両断していたであろう一撃は、大剣によってあっさりと防がれた。
接触の衝撃に逆らわず、体を流しつつ、ナギはそのまま回転。脇腹に刃を滑り込ませようとするが、その前に跳ねた。鼻先を暴虐が掠める。ナギが攻撃失敗時の次手を考えていたように、全身鎧もまた同じだった。
ついでとばかりに、追い打ちの突きが放たれる。これは軽く払った。
ナギは、全身鎧と正対して構えた。中断と下段を混ぜたような、やや切っ先を右下に流すような構え。
敵が全身鎧だけだと考えれば、さほど悪くない状況だが。今の瞬間に、残りの敵に囲まれてしまった。ナギの斜め後ろにそれぞれ構えた敵は、結構な距離が離れている。つまり、接近戦型は一人という事だろう。
右後ろにいる軽鎧姿の女は、弓を構え、油断なくこちらを観察している。逆に左後ろにいる、やけに病的な印象のある、性別も分からない全身皮鎧。こちらはまるで隙だからけだ。身ごなし的にも、メレリーのような術を使うタイプだとは思うのだが……それにしては、階器らしきものが見当たらない。
正直に言って、背後二人については、驚異度の予測も困難だった。接近戦以外は門外漢だ。
なら、ある程度予測のできる全身鎧はというと……
(面倒だな)
勝てないとは思わない。が、それも認めざるを得なかった。
(騎士の延長みたいな奴だと思ってたけど、まるで別物だわ。なにより、戦うって事をよく分かってる)
技術自体も、今まで見た騎士のそれとは別物だが。それ以上に、戦闘に対する勘がいい。立ち回りや選択が非常に上手かった。
少なくとも、一刀両断で快刀乱麻、とはいかないようだ。
「貴様」
声が聞こえる。
仮面をしているので予想でしかないが、恐らくは全身鎧だろう。
「蛮族ではないな?」
「いいや? ほんの一月ほどだけどな」
まあ、外見的特徴がまるで違う。そう思われるだろう事は分かっていた。ただ、それを指摘されるとは思っていなかったが。
全身鎧は構えも警戒も解かずに、しかし言葉は重ねてきた。
「なぜ蛮族に肩入れする?」
「恩があり情もある。後は、あんたらと敵対する理由も。それで十分だろ」
「貴様が強いというのは、最初の接触で理解した」
言って、全身鎧は、剣を下げた。さすがに警戒までは解いていないが。意識を配ると、背後の二人も、武器を向けるのだけはやめてみる。
「何のつもりだ?」
「話に剣は必要ない」
「不意打ちするぞ」
「貴様はしないだろう。恩と情を語る男だ」
見透かしているつもりになっている。ちっとナギは舌打ちをした。
何より癪に障ったのが、実際に見透かされているからだ。ナギは僅かに、切っ先を下げた。
「で、何だよ」
「我々に下れ。蛮族でないならば、閣下も温情を下さるだろう」
言われ、横合いから水でもぶっかけられたような気分になって、きょとんとする。
「何の冗談だ?」
「冗談ではない。帝国は常に、優秀な戦士を欲している。それに、貴様とて分かりかけているのではないか? 蛮族どもは酷く閉鎖的かつ攻撃的であり、何より保守的で排他的だ。本当の意味で受け入れられることも、歩み寄れる事もない。尽くすほどの価値がある者とも思えんがな。ここまで助けたのならば、十分に義理は果たした。そうではないか?」
言葉に、ナギは押し黙った。嘘を言っている様子はない。というか、嘘をついているように見えないから、悩んでいるのだが。
刃をゆらゆら揺らしながら(無意味にやっているわけではない。そうして、刀の感覚を馴染ませているのだ。綾綱は、初めて手にしたにも関わらず、異様に手に馴染む刀だ。だが、本当の意味で使い慣れているわけではない。こうして確かめておかないと、思わぬ落とし穴に陥る)、ナギは悩んだ。
(いくつか分かったことがある。この全身鎧はガチの異民族嫌い。んで、閣下とやらは恐らく効率主義者――少なくとも感情と実利は切り離せる奴だ。後は……仲間の二人は反対意見)
全身鎧が提案した瞬間、背後から怒気が伝わってきた。
彼の話を信じた理由でもある。演技だとしたら、あまりに鮮烈すぎる。
(ここで下っちゃ行けない理由もない。むしろ俺にはメリットだらけだ)
なにせ、この世界で巨大組織の庇護を受けられる。
デメリットが無いわけではない。反逆の精算は必要だろうし、騎士を殺してもいる。受け入れられるのに苦労はあるだろうが、それでも条件としては破格に思えた。
だが。
ナギは構え直して言った。
「あんた義理堅そうだから言うけどさ、分かるだろ? 俺はすでに、船に乗っちまったんだよ」
苦しく笑う。
これも初めて知ったことだ。我ながら、難儀なたちをしている。
「ここで俺だけ降りてあいつら見捨てて、っていうのはできないよな。あんたら、逃げたあいつら見逃す気ないだろ?」
「当たり前だ!」
これは、全身鎧の言葉ではない。弓使いが鋭く言った。
全身鎧が息を吐いた。そして、大剣を構え直す。
「……残念だ」
「せっかく誘ってもらったのに悪いな」
「思ってもいないことを言うな」
そして、全身鎧の気配が膨れあがり。厳かに宣言する。
「《禍柄》が遙カ人、グィーズ」
「《霰弓》ピータン」
「《盧神》ホビロン」
「あー……」
言うべきなのか。というか、言うものなのか。
悩む。が、何となく空気に押されて、ナギも同じように宣言した。
「綾綱の遙カ人、ナギ」
『戯け。そこは《錐禮異刀》じゃ』
(そうなの?)
何かこだわりがあるらしい。全く理解できないが。
ナギの言葉が、開戦の合図になった。
初手――予想してたグィーズからではなかった。体の周囲に、いきなり複数の輪ができて、ナギを掴もうとしてくる。
「っ!」
予想外の攻撃に、思わず息を飲む。しかし体は硬直させず、上に飛んだ。それに合わせて矢も飛来してきた。一度に数十、光の雨が面で制圧するようにだ。こちらは斬って対処する。
光の矢は、間違いなく弓形階器・《霰弓》の力だ。であれば、あの輪は形状不明の階器《盧神》の力なのだろう。
《盧神》がただの拘束型階器であればいい。だが、勘でしかないが、恐らくは違う。イーリスと同様、魔法的な力を持ったタイプだろう。遠距離の万能型だと思っていた方がいい。
連携がそれだけで終わるはずがない。ナギは反転し、腰をしっかり作る。正面に綾綱を掲げて、《禍柄》の一撃を受け止めた。刀と大剣がつばぜり合いをするという、通常では絶対にあり得ない光景が作られる。
刀とは、両手武器ではあり得ないほど軽量な兵器だ。その性能は、肉を切ることに特化している。刃は鋭く作られており――つまり、脆い。硬くて重いものに叩き付ける、もしくは叩き付けられるようにはできていない。これが普通の武器同士であったならば、刀は一瞬で大剣の威力に負けて、へし曲がり、使い手の体は半ばまで砕かれていただろう。面白い状況と言えばそうだが、目の前に大剣が迫り、今にも押し切られんとしている状況では笑いも出ない。
大剣を受け流しながら、横に飛ぶ。殆ど同時に、大剣の先に強烈な火柱が立った。後ろに逃げていれば死んでいた。
(グィーズが足止め役で、他の二人がとどめ役だと思っていたけど……そうでもないらしい。むしろ役割としては逆……)
グィーズの追撃。横に薙がれた一撃は、刃の上を滑らせて下に流すが。グィーズごと貫くようにして、《霰弓》の矢が迫った。
空中に作った足場に、つま先を引っかける。足の動きだけで、体を無理矢理下方に投げ出した。
鎧を貫くと思われていた矢は、当たり前に直前で軌道を変えた。こちらを追ってくる。これを縦に両断し、勢いのまま、反対側にも刃を向けた。視認こそできないが、挟み込むようにして空間が曲げられていた。反動に巻き込まれれば、それで終わるとも思わないが、無事ではなかっただろう。
(……という程簡単でもないのか。全員が足止め役にも決め手にもなれる。本当の意味で、チームで強い)
息をつく暇もない。
紫の雷の矢、だろうか。バチバチと余波をまき散らしながら、十ほど。ナギを包むようにして放たれていた。今までの矢に比べて、速度は遅い(とはいえゆうに音速は超えているだろうが)。だが、それが逆に面倒だ。挟み撃ちをするのにいいタイミングだ。
背後右下段から、景色を歪ませるほど圧縮された空間の槍が数本迫っている。同じく、背後左上段からは、グィーズが必殺の一撃を放たんとしていた。
逃げ場がない。全方位抑えられている。
『前へ飛べ!』
顔を引きつらせていると、綾から鋭い声が飛んできた。
『わらわであれば、矢の余波くらいでは厄たり得ず!』
言葉を信じた、という訳ではない。言葉と同時に、考えるより早く走っていた。直撃を受ける一本のみを斬り、体を縮めて通り抜ける。その先には――顔を驚愕させた弓使い……確かピータンだったか。が、いた。その女に、全力で走る。
「逃げろ!」
グィーズの絶叫が響く。いや、実際に響いたわけではない。誰もが音より早く動いている。背後から発せられた声が、追い抜いて届くわけがない。これも階器の力なのか。
が、どうであれ遅い。
腕を伸ばし、切っ先をピータンの喉に当てた。抵抗は感じなかった。するりと潜り込むようにして、刃が喉に沈む。刃を僅かだけ流せば、ピータンの喉は、半ばからぱっくりと開かれた。
彼女の首に、ぱっと鮮血の華が咲いた。
ピータンは、惨状に反してきょとんとしていた。首筋に手を当てながら、口を開く。言葉は出てこなかった。気道が完全に両断されている。声帯を通る前に、空気が漏れきっていた。首に当てた手を、目の前に持ってくる。
赤く染まった自分の手を見て、彼女が何を考えたかは分からないが。ついぞ表情は引きつりもしなかった。理解を置き去りにしたまま、崩れ落ちて墜落していった。
ナギは、先端だけ赤く染まった刃を滑らせながら、振り向く。ホビロンは、今にも噛みついてきそうな表情をしていた。グィーズは……よく分からない。少なくとも雰囲気は落ち着いている様に見えるが。
「見誤っていたか」
相変わらずの重い声。だが、気のせいだろうか? ほんの少し、硬くなっている気がする。
「見たことのない形状だが、接近戦に優れた階器だとは思っていた。だが……まさかここまで近接戦闘に特化しているとは」
『ふふん、わらわが優れているのは当然じゃ』
綾の声は、当然届いていないが。
グィーズは、剣をまっすぐ掲げながら言った。
「ホビロン、ピータンの死は私の咎だ。後でいくらでも咎を受けよう。だから逸るな」
掲げられた剣はそのままに。《禍柄》の刀身から、炎が溢れた。
いや、違う。ナギは即座に否定した。赤く揺らめいているが、あれは炎ではない。もっと破壊的で、強烈な何か。
「お前は強い。死を覚悟して、殺そう」
宣言、と言うよりも覚悟と共に。大剣を上段に構えると、紅蓮が巨大化した。垂直に真っ直ぐ、その太さもさることながら、長さたるや。軽く見積もっても、数百メートルを超えているように思えた。
ナギはぎょっとした。直感的に感じたのだ。それは、今までの攻撃で、一番洒落にならない。
(おい!)
構えの質を変える。相手に食らいつくそれではなく、回避に重点を置いたものへ。そして、綾に叫んだ。
(お前らってのはあんなこともできるのか!?)
『当たり前じゃろ』
こんな状況でも、綾は緊張もなく。むしろ呆れたという風に、気軽に言ってきた。
『わらわ達を、貴様ら木っ端の作った武器と一緒にするでない。あらゆる器の原型であり頂点、それが階器じゃ。当然、わらわも同じ事はできる。向いてはおらぬがの。貴様ができぬと思うのは、わらわを扱う経験が足りぬが故じゃ』
ちっ、とナギは舌打ちした。言われてみれば、ピータンは《霰弓》で近しいことをしていた。次元が違うが。
振り下ろされる超大剣。ナギは全力で回避した。
放たれた刃は、さらに独立したように飛翔し――直情の小山に着弾。そして――激震が周囲一帯を震わせた。
砂塵などというレベルではない。土砂が宙を舞い。山そのものがすっぽりと隠れる。
それが収まるまでもなく、ナギは理解していた。小山が消し飛んだ。一角が崩れた、と言うのではない。本当に、山一つがなくなったのだ。跡地には、クレーターしか残っていない。ただの大剣の一撃で、地図すら変えて見せた。
(冗談じゃねえぞ……)
ほぞをかみながら戦慄する。遙カ人同士の戦いは、ただ優れた技法を持つもの同士が争うという範疇を大きく逸脱している――!
同時に気づく。今までグィーズらのしていた戦いは、安全を重視したものだ。相手に反撃の手を与えない、という意図でそうしていたのだろうが。それ以上に、狭い範囲で一人を狙うという状況の為に、仲間を巻き込まないという意味でもあった。
一人始末された。すでに安全を重視した戦い方でなんとかなる相手ではない。だから、リスクを背負っても確実に倒そうとしてきている。
《禍柄》が再び振われた。紅蓮は先ほどよりも小さくなっているが、それでも長大かつ強烈な事には変わりない。なにより、変わったのは範囲だけで、その威力に陰りは見えなかった。
(まずい、距離を詰めなきゃ話にならない!)
細かい狙いなど付けない。ただ大威力の攻撃を、大ざっぱに当てる。それに特化した斬撃の数々。大味な西洋両手剣らしい攻撃だと言えばそれまでだが、それを大規模にやられると、本当に手が付けられない。
だが、近づくにしても上手くいかない。グィーズの攻撃のみであれば、隙もあるのだが。
「ヘイルテンペスト!」
ホビロンの放つ氷結の暴風が、隙間を埋めている。こちらも大規模で大味なものだが、あくまでグィーズの従であることを崩さない。上手く動けなくなること、視界を塞ぐ事を主眼に置いた攻撃。それでいて、ダメージも無いわけではない。
何より、《禍柄》の紅蓮は、《盧神》の魔法を砕いて迫ってきていた。
(だが、隙はある)
荒れ狂う氷柱に体を裂かれながらも、自分を鼓吹する。生身であったなら、擦っただけで半身が消し飛び、もう半身は凍り付いていただろう。いや、それ以前に、近づいただけで絶命しているか。そんなものを受けて無事なのも、やはり階器の恩恵だ。
相手の攻撃は、大味になったとか強力になったが、それ以前に、広域攻撃に切り替えられた。こちらの遠距離・範囲攻撃能力が乏しいと判断したが故だ。だからこそ、現状近づくこともできなくなっている。
だが、強力な攻撃をまき散らしている分だけ、ナギを見失う事が出てきている。安全な距離と高火力で塞がれているため、今までそこを利用する事ができなかっただけで。
(つまり、お前達の考えはこうだ)
綾綱を背中に当てて、その上から紅蓮の剣を叩き付けられる。背骨が軋むのを感じながら、直線的な威力のままに流された。同時に、地面と垂直に足場を作り、そこを基点にして体を捻る。位置を変えて避けるのではなく、その場で攻撃を凌いだ。
(俺が広域攻撃に対処しきれず足を止めるか、それとも先に対応して接敵するか、どちらが早いかの勝負だ……勝負だった)
ホビロンの魔法は、こちらの行動可能範囲全域を覆ったものだ。例外は、ただの二カ所。ナギが身を裂きながら通った後か、さもなくば――《禍柄》の作り出した紅蓮が、直上の全てを破壊し尽くした後か。
紅蓮の裏を抜け、足場を作り、体を丸めて防御を固め。敵がこちらを見失っている一瞬で、ホビロンに向けて大きく跳ねた。体表を魔法の嵐が突き刺すが、全て無視して、可能な限りの早さで詰め寄る。
血色の悪いホビロンの顔が引きつる。だが、それでも硬直することだけはなかった。即座に両手を向けてくる。
「ヘヴィークラップ!」
多重の重力圧壁が放たれる。
それは、まるで巨大な槌のようにナギの前に立ちはだかり、こちらを砕かんと牙を向くが。
下策だ。そうナギは断じた。
ホビロンはなりふり構わず逃げるべきだった。先ほど、ナギが魔法を斬ったのを見ているのだから。
右下に垂らしていた刀で切り上げる。魔法に僅かに線が入り、いとも容易く崩壊した。それだけで魔法の威力が全て無くなるわけではない。
ナギは今度は、線に沿って体を傾けながら、魔法の中に潜り込んだ。そして、掲げられた刃を翻し――ホビロンの体を、左袈裟に切り落とした。
ほんの一瞬、時が停滞する。
ホビロンの顔は歪んでいた。苦痛と言うよりも、屈辱だ。それ以降、表情が変化することはなく。上半身と下半身が別々に、憎しみの視線を残しながら墜落していった。
その光景を見届ける前に、ナギは飛び上がりながら前転する。ちょうど、ホビロンがいた場所の上を飛び越えるようにして。ナギがホビロンを斬った瞬間を見逃さず、グィーズが追撃を仕掛けてきた。それを予測していたからこそ、ナギも止まりはしなかった。
体を捻って、視線を即座にグィーズに向けて。姿勢を整え、構え直すまで。彼は追撃をしてこなかった。
「なあ」
ナギは構えこそ解かないものの、精神が弛緩しているのを感じた。それをぶつけるように、声をかける。
「まだ続けるのか?」
「無論」
グィーズに迷いはなかった。
ナギは一瞬目を閉じた。そして、吐き捨てるように言った。
「馬鹿が」
二人同時に駆ける。綾綱と《禍柄》が接触し、激しい火花が散った。つばぜり合いは拮抗したが、徐々にナギが押され始める。だが、そんなことは、どうと言うこともない。
押し返そうとするグィーズの強力を、ナギは柔らかく受け流した。左右互い違いに受け流れていく、大剣と刀。違いがあるとすれば、グィーズはそれで上体を浮つかせ、刃の軌道が流れていくのに対し、ナギはくまで姿勢を保ったまま、刀の筋もぶれず、そのまま相手の小手を払った。
ごぅん、と風切り音を立てたのは、不格好に振われた《禍柄》だ。綾綱は音も立てず、グィーズの右手を切り落としていた。
「こうなることが分かってた癖に」
口の中に苦々しいものを感じながら、言わずにいられなかった。
刀と大剣のつばぜり合いは刀の構造が向いていないというだけの話ではない。運用が違うと言うことは、使い手に求められる能力も違う。
簡潔に言ってしまえば。ナギとグィーズが一瞬でも力が均衡した――膂力で押し切れない。パワー重視の武器とスピード重視の武器でだ。
得意分野で均衡された以上、一対一ではグィーズに勝ち目はなかった。
「ふっ」
仮面の下で、男が笑う。そして、剣に付いたままの右手を振り回しながら、大上段から振り下ろしてきた。見た目こそ派手だが、剣に力は全くなかった。纏っていた紅蓮すら、今は消えそうだ。
ナギは、密着しそうなほど近くまで、懐に潜り込んだ。腹に刃を当てて、大剣が振り下ろされるのと反対方向、左脇を抜けていく。彼が抜けると、グィーズの腹は三分の一断たれていた。
そのまま真っ二つにすることもできた。ただ、そうする気にはなれなかった。
ナギは刃に付いた血を払いながら、振り返った。グィーズはもう動く気力もなく、《禍柄》を握ったままの手で、鎧の上から傷口を押さえていた。
「お前と同じだ」
「…………」
「私は帝国に忠誠を誓っている。そして、仲間を殺されたままで剣を退くことなど出来ぬ。たとえ及ばぬと分かっていてもだ」
言い終えて。
グィーズの手から《禍柄》が落ちた。同時に、彼は足場を失って、地面に墜落していく。他の二人と同じように。
やっと終わった。それを確認して、ナギは息を吐いた。綾綱の血を拭う……必要はなかった。いつの間にか消えている。と言うか、手からまで消えている。彼女はいつの間にか具現化し、ナギの横に立っていた。
「あの程度の手合いによう苦戦してくれたのう。じゃがまあ、及第点をやろう」
「お前ってほんといつもそんな調子だよな……」
なぜか胸を張りながら言う綾に、ため息をつくナギ。
どうも彼女のは命について頓着しなかった。これはイーリスもそうなのだが。元が武器なのだから、仕方ないのかも知れない。
「と言うかお前、いきなり出てきてどうしたんだ?」
「うむ。ちょいと階器を」
と、彼女がてをくいと引いた。すると、正面に武器が現れる大剣に弓に、篭手。《禍柄》《霰弓》と、篭手は《盧神》か。
「持っておれ」
「っと」
いきなりその三つの階器を投げ渡される。
「おい、これどうすんだよ」
「所詮は木っ端である、とはいえ階器じゃなかのう。野ざらしにするも忍びなし。貴様が管理しておけ。放っておけばそのうち消える」
「消えるったって……人になってどっかに行ってもらえばいいんじゃないか? お前みたいに」
そういうと、彼女はあんぐりと口を開けた。そして、一瞬にして顔を憤怒に赤らめ、思い切り足を蹴ってくる。
「こンの……大戯け! わらわを意思すら薄弱な下位階器と一緒にするじゃと!? 大馬鹿の戯言とて、いつまでも見逃すと思うでない!」
がしがしと足を蹴られ、踏みつけられる。それにはされるがままになっていた。本気で怒っているのがよく分かったからだ。
しばらく綾はそうしていて、息を切らしてぜえはあ言い出したところで。ナギは口を挟んだ。怒っている人間をわざわざ刺激する気はないが、そこまで気を遣うつもりもなかった。
「まあ、とにかく帰るか。遙カ人三人相手はさすがにしんどかった」
「違うじゃろ」
まだ肩で息をしながら、彼女が否定してくる。今度は怒り出さなかった。まあ、呆れような顔はしていたが。
「貴様には分からぬじゃろうがな。遙カ人は《禍柄》の持ち手一人じゃな。下級階器とはいえ《霰弓》と《盧神》も哀れよのう……」
後半は、どちらかというと独り言のようだったが。
ナギは眉を潜めながら問いかけた。
「遙カ人だから階器を持ってるんじゃないのか?」
「そうに決まっておるじゃろう。阿呆か。イーリスが言っておったのだが、中には階器を譲渡してしまう遙カ人もおるらしい。下級階器が意志薄弱なのを良いことにな。全く嘆かわしい。驕りが過ぎるというものじゃ。二流三流が階器を手にしたところで、どれほども力など出ぬと言うのに……」
ぶつぶつと、それ以降は言葉にならなかったが。
なるほど、とナギは納得しながら、手渡された《禍柄》の刀身を撫でた。
(三人の内、グィーズだけが突出して強いと思ったが違うのか。ピータンとホビロンが特別弱かったんだ。その二つは多分、奴隷に回収させた後奪ったものか。組を分けたのもそこら辺が理由だな? 後から人質になる。それに失敗しても、今度はこういう奴らが派遣されるか。本当に、嫌になるほど効率的だな)
三つの階器はありがたく頂戴するとして――これからどうするにしても、便利には使えても、邪魔にはならないだろうし。まあその場合は、どうにか綾を納得させる必要があるが。そのまま売りでもしたら、ぜったに荒れ狂う――問題は帝国だ。
この三人が敗れたことなど、そう遠からず知れるだろう。グィーズが派手に暴れてくれたのは、戦闘が始まり、かつ苦戦している事を知らせる意味もあったのではないだろうか、と今にして思える。
ここで危険だと判断して、観察に入ってくれれば。こちらとしては一番いい。
一番厄介なのは、次はと何倍かの階器使いを送り込んでくる事だ。階器使いと遙カ人は、厳密には違う――初めて知ったことだが、言われれば、実力差は顕著だった。今度は遙カ人のみで固められた追撃隊を派遣されるかも知れない。そこまでされたら、どうにかする自信は全くなかった。ただでさえ遙カ人としては新人で素人なのだ。
まあ、その可能性は低いと思っている。帝国の対迷宮、もとい階器回収戦略を考えると、遙カ人は少ないはずだ。卓越した武芸を持ち、かつ帝国に忠誠心の厚い騎士。その上、運良く自分に見合った階器を手に入れられる。かなりの幸運が必要なはずだ。
とまれ、敵への対処という意味も込めて。まずは、認めなければならない事がある。
「鈍ったなあ」
「なんじゃ藪から棒に」
「剣の腕が鈍ったなって。そりゃそうだよな、一月以上も剣に触ってなかったんだから。とりあえずは、俺の錆落としから始めないと。階器の性能なんて話には、とても入れん」
「お? ふふん、なかなか勤勉じゃのう。よいぞよいぞ、そうやってわらわに尽くすがよいわ」
とみに機嫌が良くなった彼女に、苦笑しながら。
まずしなければいけないのは、すぐに戻って治療することだ。いつ次の襲撃があっても対処できるように。