03
迷宮の中というのは、はっきり言って、あまりそれらしくない場所だった。
一言で言って、どこかの城の一部に思える。ただし、規模は数百倍であり、道の分かりづらさはまさしく『迷宮』だが。
(ここ、元は何だったんだ……?)
ナギは周囲を慎重に観察しながら、そう思わずにはいられなかった。
明らかに人為的な施設であり、実際、使われていた形跡は、僅かにだがある。迷宮としてではない。施設としてだ。そこから人(だか何だか)がいなくなり、化け物の住処(というか、ただの野生動物が僅かばかり紛れ込んでいるだけな気もするが。見たことがないから化け物に見えるだけで)となる。これが一番しっくりくる。
そんな場所な為、道を進むのは順調だった。なにせ、本当に何事もない。罠の類いなどは(間抜けが足を取られることくらいしか)ないし、化け物に会うのもまれだ。その化け物すら、人の気配に驚いて逃げている所を運悪く遭遇し、一太刀入れるだけ。脆い剣に不満を持ったが、これだって使い道がほとんどない。
「ねえ、そっち何もないの?
「ないよ。だからランタン揺らすな」
「揺らしてなんてないわよ……」
言ったのはメレリーだが。彼女の声は、迷宮に入る前と打って変わり、元気が全くなかった。
何が怖いのか、迷宮に一番怯えているのは彼女だ。
ナギは今、先頭を歩かされていた。これにはいくつかの理由がある。一番大きいものは、騎士を相手に大立ち回りした事だろうが。それは逆に実力を見込まれたということでもあり、とっとと死ぬことを期待されているという事でもある。メレリーが随伴に選ばれたのは、完全にとばっちり……でもないか。彼女は彼女で、うるさいからうっとうしがられていた。
そこから少し後ろに、奴隷の一団がいる。さらに後ろには五人がいた。四人の奴隷監督役――隷主騎士に、一人の奴隷。それはエフレェ族の、十歳くらいの呪巫女であり、ナギを脅迫するとき、刃を突きつけられた娘でもある。ナギに対する人質として機能すると思われ、常に騎士の近くで捕らわれている。
呪巫女の少女については、諦めてもらうしかない。先頭を歩かされるよりは安全だろう。
「みんなはどこにいるのかしら……」
「さあな。騒ぎが届いてない以上、それほど大事にはなってないだろ」
これだけ広い中、その程度が保証になる訳もない。が、そう思うしかない事でもある。
エフレェ族に限らないだろうが、各部族は分断されていた。ひとまとめにして、反逆しようという気を起こさせないためだろう。誰もがメレリーのような気分を抱えている。つくづく奴隷の扱いに慣れている連中だ。
つまらない話(主に気が弱くなったメレリーの弱音)をしながら、進んでいく。と、そのうちに、階段にさしかかった。
「ねえ、ここ進むの?」
「他に道ないだろ」
という事もない。階段の右側には、道が広がっている。ただし、そちら側からは、本当に小さな足音がいくつか響いていた。別の隊が探索しているのだろう。
「じゃあ引き返すとか……」
「それを鎧犬に言ったとき、被害を被る奴がいなければ試してみてもいいかもな」
当然その場合は、呪巫女の少女が刃物で突かれる。反逆の可能性を指摘しながら、ひたすら脅しをかけるだろう。
階段を進むのは、その面倒なやりとりをした後かする前かの違いでしかない。
「お前が進めないって言うなら、ランタンをよこせ。その代わり盾を持って後ろに行け」
「い、嫌よ! あたしの明かりがなくなっちゃうじゃない!」
「じゃあ進むしかない。どうせ連中の手の内なんだ、諦めろ」
きっぱり言うと、メレリーは恨めしげに下唇を噛んだ。
階段は、やたらに長く下に続いていた。上層を進んだ数倍の時間をかけて、ひたすら降りていく。進むにつれて、階段はだんだんと荒れていった。最初は――何だったか。確か、壁に作られた大きな爪痕あたりだ。それが始まりで、そのうち階段は急激に風化していった。ひび割れや脆い部分が目立ち、それすら超えていくと、今度は半ば崩壊したような状態になっていく。
単純に下が荒らされていた、というのもあるのだろうが。どうも上層と下層では、作った年代自体が違いそうだ。
どれほど下ってか。ナギはおもむろに剣を抜いた。
「な、なに!? 何かいたの!?」
「いないから離せ」
いきなり肩を掴んできた、というか握ってきたメレリーを疎ましく思いながら。
理由があって剣を抜いたのではない。もっとこう、理由のない不安を感じたのだ。首筋に何かが這い回るような。
それからどれほどかからず、階段は終わった。最後の段付近は崩れていたので、飛び降りて到達する。メレリーも続き、着地に失敗したところを支えた。素直にされるままになっていたが、やがてはっとして、手を振り払う。
「……頼んでないわよ」
「そうかい」
いつもの事ではあるし、どうでもいいのでそれは流して。
今度は周囲に意識を行き渡らせながら、ゆっくりと進む。背後に続く、がしゃがしゃと飛び降りてくる音が煩わしい。
上層とは打って変わり、そこはまるで廃墟だった。床は完全に崩れ、まともに歩ける場所がない。かと思えば、普通に足の裏をおける場所もあり……
(まずいな)
口に出したらメレリーが狂乱しそうなので、内心だけで思う。
(この床、崩れなかったとかじゃない。崩れた上から重い何かを落として平らにしたんだ。騎士に報告してみるか?)
無意味そうではあった。
隷主騎士は、ナギの予想通りの相手だった。人を多くするのではなく、全員が腕自慢という意味での。つまり、何が言いたいのかというと。彼ら全員が、自分を強いと思っており、敵など倒せばいいと考えている。行きがけにさんざっぱら自慢され(ついでに脅しと挑発もされ)、疲弊した。こういう時、臆病者がいれば、引く決断をしてくれるのに。ああいった手合いでは、それも望めない。
退く決断ができるものと戦う決断ができるもの、どちらが優秀かは知らない。が、少なくともこの状況でこの中だと、戦うことには不安があった。
「なあ」
「なに!? なにかいた!?」
「うるせぇよ。そうじゃなくて」
いきなり挙動不審になったメレリーを宥めて……もとい突き放して。
「ここからゆっくり周囲を警戒しながら進んで、後ろの連中、何も言わないと思う?」
後ろの連中、とは言わずもがな騎士の事だが。メレリーは馬鹿にするように、鼻を鳴らした。
「馬鹿じゃないの?」
どころかはっきり言われたが。
「あいつらにとっちゃあたしたちは『肉の盾』でしかないでしょ。なんでそんなやつらの都合に合わせて動きを遅めるの」
これも同じだ。黙って進むか脅迫されてから進むかの違いでしかない。ここで二人死んだところで、まだ発見器は18個もある。
言い終えてから、彼女ははっと何かに気づき、身を縮めた。
「ね、ねえ……。つまりこの先、何かありそうってこと?」
「お前ビビるか強気かどっちかにしろよ」
また腰を抜かし始めたメレリーに、なんだかなという思いを抱えつつ。
道はひたすら一本だった。たまに部屋があったりはするが(大半が崩落により崩れていた)、そこには何もない。周囲を警戒するという意味では、ありがたかった。
最奥まで進む。そこは、巨大な広場だった。
いや、広場という表現は正しくないかもしれない。天井はひたすら高く、ランタン程度の光では、上まで届かない。それは左右も、奥行きですらも同じで、少し進めば、何もない暗い場所にたたずんでいるようになるだろう。闇が深まるのは、悪いことばかりではない。が、そこに意味を見いだせないのは、明確な恐怖だ。
壁にそって歩こうかとも思ったが、どこも見えないのならばどう歩いたところで変わらない。後続がいれば(僅かばかりだろうが)後方の確認もできるのだし、まっすぐ進むことにする。
しばらく歩く、というのは、ただの一室がしばらく歩かねばならないほど大きかったという事だが。ナギは、歩く速さがどんどん早くなっている事に気がついた。
「おかしいな」
「ひいぃ! なに!?」
「お前、いい加減にしろよ?」
ただでさえ服の裾を引っ張られ、非常にうっとうしいというのに。反射的に蹴っ飛ばしたくなる。
「地面、歩きやすくなってる」
「え? あ、そう言えば」
歩くのが速くなった理由は、それだった。
明確に足場が良くなっている。床のひび割れくらいはまだ確認できるが、それだけだ。少し前までは、粉砕し、荒れ地のようになっていたのに。
広さが広さなのだし、荒れ方に差は出てくるだろうが。これほど顕著に表れるものなのだろうか?
「何かしら。気味が悪いわね……」
「何事もなければいいんだが。いや、何もないのは困るか」
「なんでよ!」
メレリーが怒鳴ってきた。
彼女に顔を近づけて、そっと話しかける。
「ここで逃げ出せなければ、本当に終わりだっていうの忘れてないか?」
「あ」
惚けたように言う彼女に、ナギはため息をついた。本当に忘れていたらしい。いい加減、文句の一つでも言ってやろうとして……
ふと、正面に何かが映った。今まで何もなかったのに。
びくりと震え、足を止めたメレリーからランタンを引ったくり。前に進んでいく。
光を浴びたそれは、動かなかった。そして、巨大だった。まあなんて言うことはなく、ただの壁だ。つまり、最奥に達したとうだけの事なのだが。
「……なんだこれ?」
奥にあったのは、壁だけではなかった。小さなごちゃごちゃとしたものが、壁から生えるように存在している。
「祭壇でしょ。見れば分かるじゃない」
そこにあるのが壁だとわかり、復活したメレリーが言う。
「おかしいなあ」
「あんたさっきからそればっかりじゃない」
「他に言いようがないんだから仕方ないだろ」
メレリーを睨み付ける。言われたことに腹を立てたのではなく、すねを蹴ってくる事に対する抗議だ。
改めて祭壇を見る。何がおかしいかと言われれば、まず、それが真新しい事だった。できてすぐという程ではなく、それなりに年期は感じる。それでも、壁よりは明らかに新しかった。壁と一緒の素材から削りだしたようにしか見えないのに。意匠もおかしい。根本的にデザインのセンスが違う。バロック建築物の一角に、神道の神棚を設置しておくような違和感だ。
問題は、これが明確に超常的な力によってなされている、という事か。
それの影響が周囲にもあると思うと、この状況は一応の説明がつく。つまり、祭壇の周囲は、受ける時間的影響が緩慢か、もしくはないのだ。であれば、こんな部屋にもなるのだろう。もっとも、地下深くにこれほど広大な部屋を作ること自体が異常だ、と言われればそれまでだが。
「調べてみるか」
「変な感じとかしないの?」
「しない。お前は?」
「あたしはなんかこう、むずむずするというか……。触れちゃいけないって感じはないの。ただ、大きな流れというか、なんというか」
要領を得ない。感覚的なものなのだから、仕方がないか。
とにかく、危険なものではなさそうだと言うことで、触れてみた……何も起きない。こすってみたり、裏側まで覗いてみたり。やはり何もない。結局、ただの置物なのか。
「後ろが追いついてきたら、左右どっちに行くか決めないとな。無駄足な気もするけど」
「あんたさ……」
メレリーが顔を寄せてくる。珍しいことだった。奴隷にされて、多少は協調も仕方なしとは思っているようだが。それでも、好んで接触したいとは思われていない。
後続が追いつて来る気配があり、それから隠す為だろう。
「あのクソ犬ども、倒せないの?」
「自信はある。最初の一人に不意打ちして、長剣を奪えればな」
それは、さして難しい仕事ではない。使い手三人に囲まれて、倒しきるのは賭だが。それも、他の奴隷と協調すれば、楽な仕事にはなる。
「ただし、その場合は人質が確実に死ぬ。そして、逃げようにも残りの鎧犬のどれほどかを、なんとかしなきゃならん。外には数十人が待ち構えている筈だ。さすがにあれをなんとかできるとは思えない」
奴隷の中には、ナギと同じような状況の者もいるだろう。そういった者が人質を捨てる決断ができなかった場合、やはりこれも敵に回る。出口で戸惑った場合は、挟撃されるだろう。その先に待つのは死だ。見せしめとして、拷問の末殺されるかもしれない。
忘れてはいけない事だ。騎士は個人では強くなくても、数が増えれば増えるだけ厄介になる。なにより、奴隷使いとしては非常に優秀だ。
「ちっ。使えない奴」
「お前こそ呪術はどうなんだ」
「あんた呪術をいったい何と勘違いしてるわけ? 何したってばれるに決まってるじゃない」
睨み付けてくるメレリーから目をそらし、息を吐く。何とも勘違いしていない。ただ、何も分かっていないだけで。
「まだ機会がない訳じゃない。とにかく価値がありそうなものを見つけよう。あいつらは、まず自分で触りたいはずだ。その時に背後から攻撃すれば、人質を無傷で解放できる可能性がある。まずはそれから……」
都合のいい妄想を語る。が、途中で中断した。いや、させられた。
迷宮内に激震が走る――
地面が異常に揺れて、立っていることもできない。転がされながら、頭を抱えた。持っていた剣で体を傷つけないよう、投げ捨てる。
地震ではない。そう気づいたのは、何か巨大なものが叩き付けられる音がしたのと、砕けた地面の破片が、体を叩いてきたからだ。
振動が終わり、即座に身を起こす。そして、剣を手元に寄せた。これが地震であっても危険だが、地震でないならば、もっと危ない……
頭を上げると、上から何かが落ちてくる。光る何かだ。最初はガラスかと思ったが、そうであれば、暗闇の中で気づけるのはおかしい。落下しきり地面に散らばったことで、それが光る石だと分かった。今まであれだけ暗かった場所が、下から照らされる。
「なに、あれ……」
隣で、同じように身を起こしたメレリーが呟く。
なにが落ちてきたかは、一発で分かった。鋭い鋼質が、地面を踏み砕いている。その上を肉の網が張り巡っていた。全長は五メートルほどで、どこもかしこもやはり似たような不気味な姿。いくつかある先端部分だけは、金属質な部分だけが露出している。そして、頂点には顔らしき何か。
化け物が出てきた。今まで遭遇したもどきではなく、本物の。そして……恐らくは、明確な殺意を持って。
「ミー!」
メレリーが絶叫した。一瞬何の事かと思ったが。ふと思い出す。人質にされていた呪巫女の名前だ。
化け物の足下には、赤い何かが飛び散っている。ひしゃげた鋼も。
「今行く……」
「やめろ!」
走り出そうとしていたメレリーの足を払う。彼女は抵抗もできずに転がった。
無駄だ、もう死んでる――反射的に口走りそうになった言葉を飲み込む。代わりに出てきた言葉は、欺瞞だった。
「俺が行く。お前はここに……いや、逃げろ!」
盾を捨てて、ナギは走り出した。どのみちあんな敵では、木盾などないに等しい。
奴隷は半分が、化け物が落下した余波で死んでいた。飛び散った石に、胸や頭を貫かれて。そして……化け物が腕を振るう。鋭い爪が地面ごと、残った奴隷のさらに半分をなぎ払った。これで残りは、ナギたちを入れて六人。ただし、当てにできるのは自分一人。
化け物の手が、返しざますくい上げるようにして、ナギを狙った。
足場が悪い。早く動けない。先に重心を動かして、無理矢理体を引っ張る。すぐ脇を、まるでトラックが高速で抜けていったような怖気が走った。
こんな化け物と対峙しようと思えば、相手の勢いを利用する他ない。抜けていく手(らしき何か。手のひらがなく、指は八本ほどあるようだ)の根元に、剣を合わせた。接触した瞬間、大した衝撃もなく、ぱきんと軽い音がした。
「だよねぇ!」
絶叫して、数センチしか残っていない剣を、化け物の顔に投げつける。刃の部分が肉腫に当たったが、これも軽く肉を押しただけで、ダメージらしきものはなかった。どう考えても、人間が生身で戦うべき相手ではない。
剣が駄目になったのはいい。元から期待していない。目的は、最初から化け物の足下だ。
速度は落とさずに、化け物の足下を通り抜ける。途中、見つけられた唯一の、長剣の柄を握った。少しばかり抵抗があったが、取ることに成功した。踏まれても折れ曲がらず、残っていてくれた。幸運だ。その幸運があとどれほど続くかは知らないが。
長剣を構える。とはいえ、頼りなさは否めなかった。粗悪な片手剣よりはマシだというだけであり、こちらならどうにかできるかと問われれば、そんなことはない。
化け物は、もう一度だけ手を振った。これで、残りはナギとメレリーだけになる。残された彼女は、顔面蒼白になりながら、その場で何か、ぶつぶつと呟いている。
「速く逃げろって!」
言っても、反応はなかった。
化け物はメレリーを無視して、こちらへ向いた。厄介な相手だから、先に始末しようと思ったのか。ありがたいと言えばそうだし、迷惑だと言ってもそうだった。彼がやられるまでは時間稼ぎできるだろう。逆に言えば、ナギが気を抜けば、すぐにメレリーも後を追うことになるという事だが。そして、どうなろうと、高確率で全くの無駄死になる。相手の攻略法が見つからなければ、結果は同じだ。
「死んでたまるかよ……!」
叫ぶようにしながら、剣を突き出す。刺突は、恐ろしく軽い音を立てて弾かれた。
(やっぱり俺じゃ軽すぎる!)
剣が、ではない。自分の攻撃がだ。
日本の基準でも体格や身体能力に乏しかったナギは、ひたすら技術を磨いた。というより、体を鍛える方は早々壁にぶち当たっただけだが。エフレェ族の戦士や、騎士が相手であれば、それでも問題なかった。力と早さなど関係ない。人の体は、尖ったものであれば刺さるようになっている。つまり、上手くやれば勝てる――理論的にはそうだし、実際そうした。
だが、こんな化け物を倒すのに必要なのは。間接部すら金属もどきでできていて、急所もくそもない。そんな存在に対抗するには、純然たるパワーが必要だ。全体重を乗せた突きが刺さらない時点で、どうしようもない。
舌打ちをしながら引く――が、それは下策だった。
後退速度より遙かに早く、爪が閃く。剣の腹で受け、思い切り吹き飛ばされた。
もとより耐えようなどなかったが、飛ばされたのは自分からだ。宙に浮くと、元いた場所を蹴りが通るのを見た。体勢を崩して転がっただけでは、あれに挽肉にされていた。
「んぎっ!」
床に叩き付けられる。化け物の墜落で割れた地面が、背中に刺さる。ずぶり、と肉が嫌な音を立てた。
激痛が脳に突き刺さったが、深さ自体は浅い事も分かった。横に転がる――追いついた化け物の爪が床を掘り返す。どこまで行っても綱渡りだ。
せめてこの長剣が、手慣れた刀であれば……いや、もう少しだけ切れれば……。言い訳が山ほど浮かぶ。意味のない言葉だ。
「――夜の凍えは闇が癒やすだろう! 鳥の囁きは風に届くだろう! しかし、大地の欠落を水は癒やしはしない!」
メレリーの声がする。
化け物の周囲に、紫のもやが発生する。それは渦を巻き、化け物に飲まれて消えた。
「これで、そいつの耐久力は落ちたはず! あとはあんた、何とかしなさいよ!」
「無茶言いやがって!」
最高の援護に、笑って悪態を返しながら。
貫手が飛んでくる。ただし、人間のそれとは次元が違う、文字通り必殺の攻撃。
が。
ナギは踏み込んだ。体捌きだけで刃の雨を躱し、同時にその隙間に、剣を潜り込ませる。柄を体に寄せ、鍔を肩に接触させ、体当たりをするようにまっすぐ進んだ。
思い衝撃が、体に届く――。とりわけ肩には強い衝撃が走って、千切れ飛びそうですらあった。
体は、押し戻されなかった。そのまま通り抜け、後ろでは何か、重いものが転がる音。
斬ったのだ――
高々指の一本であるが、斬れたという事実は大きい。つまり、こいつはもう無敵の化け物ではないのだから。
希望が見えた。振り向くと、化け物もちょうど、同じようにしている所だった。
「悲鳴の一つくらいあげろよ、かわいげのない奴め!」
体を沈ませる。化け物が蹴りを放とうとしたのが見えた。蹴りの下に潜り込み、足の指を狙う。これを斬られれば、いくらか動きが悪くなるはずだ。
「うそ!?」
刀身が化け物と接触する瞬間、そんな声が聞こえた。この中で生きているのは二人だけ。ならば、メレリーのもの以外あり得ない。
嫌な予感がした。このままではいけない。漠然と、しかし強く勘が警告している。だが、渾身の一撃をとっさに止められるはずがなく……
両者の接触は、再び抵抗がほとんどなかった。ただし、今度の結果は逆だ。長剣は、十センチほどだけ残して、あとはなくなっていた。
「もう抵抗されるなんて!?」
メレリーの悲鳴が届く。
思い切り罵ってやりたい気分ではあったが、そんな余裕もない。
(残りの剣は!?)
探そうとして、すぐに諦めた。
この化け物の墜落を受けて、まともなものが一本残っていただけでも幸運だ。完全な状態で残っている可能性があるのは、他の奴隷が持っていたなまくらばかり。第一、取りに行く時間もない。
化け物がこちらの事情を解する訳もなく、向かってきた。慌てて立ち上がるが、もう避けるだけの時間もない。
「くっそおおおぉぉぉ!!」
力の限り絶叫する。折れた剣でできることなど、もう何もない――
そこには、白い空間が広がっていた。
「…………は?」
訳が分からず、ナギは呟く。
今まで、化け物と戦っていたはずだ。いつの間にか消えている。
周囲を見回す。何もない。本当に、壁すらない。地平線すら見えず、ただ白い領域だけが広がっている。上も同じだ。天井も何もなく、ただ一面の白。
メレリーはいなかった。背中の傷もなくなっている。ありとあらゆる痕跡が、それこ自分の軌跡すら曖昧だ。何がどうなっているのか。
「夢?」
森の中を彷徨ってから今までと、今と。どちらがそれらしいかも分からないが。あるいは、これが死というものか。
『戯け』
声が響いた――というのは、正しくない。
音も何もない。そんなものが存在する余地などない世界。頭の中に響いた、というのですら正しくない。
意思と意図だ。それだけが繋がりを持ち、ナギに理解させた。
「ここはどこだ? お前は何だ?」
『些末』
疑問は、切って捨てられた。本当に、どうでもいいと言うように。
『お主の業、未熟にして矮小。然して見所、無くもなし』
ひたすら尊大に言う声(だか何だか)。これをやってのけた何かだとするならば、その様子も間違いではないのだろうが。
疑問は出てこなかった。聞きたいことはいくらでもあったが、答えは出てこないだろうと思っていた。なんとなくだが、ここはそういう場所だと理解できた。この言葉も、黙って聞くためのものだ。
『よって、此度の敵を試練と定義す。乗り越えよ。さすれば、真なる剣を与えん』
「っ!」
手の中に熱が生まれた。棒状の何かだ。いや、違う。これは――
『征くがいい。遙か先を望むならば――』
はっと気がつく。
慌てて周囲を見回した。もう、あの白い空間はなくなっていた。広大な地下の空間に戻っており、体の痛みと重さも復活している。あの化け物も――
「っ、あいつはどこだ!」
敵はまだいるはずだ。惚けている時間はない。なぜ襲ってこないのかは分からないが……
さらにあたりを探し、メレリーを見つけた。彼女は座り込んで、呆然としている。なぜか緊張感の欠片もない彼女の視線の先には……化け物が転がっていた。
ナギはぎょっとした。今まであれだけ激しく動いていた化け物が、なぜぴくりとも動かないのか。
おそるおそる近づいてみる。どうやら、突っ伏しているのは、演技でも何でもないらしい。よく体を観察してみると、胴下のあたりに、斜めに走った切り傷があった。
(なんだこれ?)
やたら鮮やかな切り口だ。業物の包丁で豆腐を切っても、こうはなるまいと言うほどの。
「あんた……」
メレリーが、未だ呆然としたまま呟いた。
「めちゃくちゃ強かったのね……」
「はぁ?」
いきなり訳の分からない事を言われ、変な声を上げる。
まるでこれを、ナギがやったような物言いだ。できるはずがない。折れた剣では……
と、気がつく。今手に持っているものが、折れた長剣のそれより重いと。それに、やけに手に馴染む。今まで気づけなかったのはそれが原因だ。手に馴染みすぎて、そこにある事に疑問を覚えられなかった。
手に持っていたのは、刀だ。柄糸の感触と、独特の反り、なにより鮮やかな刃紋、その全てがよく知る日本刀だと伝えている。
(なんでこんなものを持ってる?)
分からない。
少なくとも今まで、刀どころか、日本文化に繋がりそうなものを何一つ見ていない。そういった意味でも、ここにあるはずのないものだ。
続いて、化け物を見る。確かにそれは、刀傷に見えないこともない。ただし、刀にこんなに硬いものが切れるか、という問題を度外視すればだが。
(俺が斬った?)
実感で言えば、まるでなかった。
手の感触をよく確かめる。そうすれば、確かに……何かを斬った残滓は見つけられる。
刀を持つ。ただそれだけで、自分の中の全てが変わる。体運びから何から、全てが慣れたものへ。動きなど考える必要もない。刀が手にあり、斬るべきものがそこにあれば。それだけで、体は自然と動く。十年以上も追求し、そして体に染みつかせた技なのだ。
「そうか、俺が斬ったか……」
理解してしまえば。思うことは、それだけだった。
刀を持てば。刀で切れるならば。この程度の事は、驚くに値しない。
激震が響く。あの、化け物が落ちてきたときの衝撃だ。しかも今度は複数。
また光る石が落ちてくる。輝きは広域に渡り、部屋全体を照らした。思っていたよりも遙かに広い部屋の全容が明らかになる。が、それに驚いている暇もない。
今のそれと同じ化け物が、今度は二十以上。しかも、出口を塞ぐようにして配置されている。
「ひっ……!」
メレリーが、絞られたような悲鳴を上げた。今度こそもう終わりだ、そう言いたげに。
「お前はここで大人しくしてろ」
彼女に背を向けて、ナギはそう言った。
メレリーは歯を鳴らしながら、今にも死にそうな声で言った。
「こんなの、死んじゃうわよ……」
「死なねーよ」
刀を肩に当てて、そう言い切った。
メレリーを安心させるために言ったのではない。見栄を張ったのでもない。ましてや、現実が見えてないのでも。
この程度の敵なら。
刀があれば、問題にもならない。
化け物の集団が動き出すのとほぼ同時に、ナギは疾駆した。その動きは、ダメージと疲労の分だけ遅い。ただし、動きそのものは非常にわかりにくいものだった。洗練されている、と言ってもいい。慣れた武器を持てば、全てが変わる。
両者の距離は非常に離れていたが、接触はすぐだった。体長が五メートル以上もあり、分厚い八つの爪で、地面をたやすくえぐる膂力を持つ化け物の全力疾走だ。遅いわけがない。
化け物との距離が、十歩を切った。そこで初めて、ナギは刀を構える。
接触ざま――腕をすかすように内に体を傾け――刃を滑らせ――片足を失った化け物が、派手に転倒する。
化け物達は、それでこちらを倒せるつもりだったのだろう。明らかに、そのままメレリーを始末しに行く様子だった。予想外の状況に、全員が標的を設定し直す。動きが速すぎるだけに、そこには無理が生まれた。つまりは、一瞬の停滞だ。
(二匹)
対した感慨もなく数える。二度振った刃は、たやすく化け物の胴を薙いだ。崩れ落ちる化け物。
ナギは即座に一歩引いて、刀を振り上げた。通常の振り上げ、下肢を切るためのものではない。対空を意識した一撃。
最初に足を切られた化け物が、後方上から強襲してくるのは気づいていた。突き出される腕が、破砕音を響かせながら、地面のみを叩く。腕が埋まり終える前に、ナギの一閃が、頭から胸部半ばまでを切り裂いていた。これで三匹。
左右からの同時攻撃。背後の奇襲はただのブラフだ。それで始末できても良し。避けられたとして、これで確実に始末する。
体を反転させる。それだけで、刀を振るスペースが生まれた。
横一文字。右から来る化け物の腕を切り落とし、左はそのまま絶命させる。刀を流し――今度は右への切り上げ。五匹。化け物同士の激突は、しゃがんで回避する。
(早いから何だ?)
方向までは予測できないが、化け物の遺体に隠れて攻撃することは分かっていた。前に転がる。後方から破砕音が聞こえた。音から状況だけを取り出し、刃を走らせる。それで、敵を始末できる所まではいったのは運が良かった。六匹。さらに、その奥へ突きを放つ。七匹。
不安要素がない訳ではない。化け物が暴れるたびに、石礫やら金属片やらが飛び散る。それまで全部防ぐのは不可能だ。もう結構な数が刺さっている。割と出血しているんじゃないだろうか、という気はしていた。まあ、心配事などその程度だ。
(力があるから何だ?)
片手で体を守りながら、こちらに腕を振るってくる化け物。少しは考えたが、浅知恵だ。体を守るように腕を抱えていれば、体捌きが制限されてしまう。そこらの折り合いを付けるためには、技術と知識、経験が必要だ。パワーもスピードも出ない一撃。刀を高く振り上げて、下ろす。腕のラインそのままに抜けた。八匹。
がむしゃらに地面を抉っては、投げつけてくる。もっと無意味だ。投げたものの大半は、当たる軌道にない。小石は避ける必要もない。高度に洗練された技術というものを全く理解していない者の、ただの悪あがき。相手が勝手に目をくらませている内に切る。九匹。
後ろから追いすがる化け物。刃を脇から出し、一撫でしてやる。足を切った。転んだ化け物に追いつき、背中を突き刺す。十匹。
(強いっていうのは、こういう事を言うんだよ)
刃は冴えに冴えている。自分の技も、まあそこそこには。
初めて実践で使う技術は、このためにあるのだと言わんばかりに噛み合っていた。
と、化け物がもう襲ってこない。というか、もういない。メレリーを始末しに行ったのではなく、動く存在そのものがなかった。
「…………?」
まだ十数匹ほど残っている筈だが。探してみると、残った化け物は、なぜか全部溶け落ちていた。
当然、ナギがやったのではない。できるわけもない。であれば、メレリーしかいないのだが……
それなりに遠い場所で、彼女はまだ座り込んでいた。もう怯えている様子はない。だが、妙にきょとんとしている。
とりあえず、近づいてみる。
彼女の様子には、一つ違いがあった。手の中に、変な道具がある。大小二十の楕円形を糸で網目状に繋いだような、一番長い部分で直径三十センチほどな何か。それを、膝の上にのせていた。
メレリーは、近づいてきたナギに気づくと、ぽつりと言った。
「えっと、これってあたしがやったの?」
「いや、聞かれても」
むしろ聞きたいのはこっちだと、ナギ。
なんだか腑に落ちない心地ではあったが。部屋を見回して。
「とりあえず……終わったのか?」
「うむ、見事である」
「わー。がんばったねー」
いきなりかけられた声に驚嘆する。メレリーは何も言っていなかった。当然、ナギも。いるはずのない誰かが言った。
声の方に振り向くと同時、刀を向ける。そして、呆然と口を開き、刀を下げた。
そこにいたのは、変な女の二人組だった。