01
体が熱いんだか寒いんだか分からない。疲れているんだかそうじゃないんだかも。今見ている光景が確かかどうか、それすらも自信がない。とにかく全てが意味不明で、あいまいかつあやふやだ。
それと同じくらい、分かっている事があった。
ひたすら眠い――こればっかりは変わらない。どれだけ寝ていないか分からないが、少なくとも数日は休めていない。後は、ここがどこだか分からない。分かるのは森の中という事だけであり、この森が日本のどこにあるかが分からない。最後にわかりやすく、寝たら死ぬ。森の中は、動物やら何やらがかなりいる。今までは知識の中にだけある火のおこし方などで凌いでいたが、それもそろそろ限界だ。
「本当に……どこなんだよここは!」
最後の力を振り絞るようにして、絶叫する。
これで走り出せでもしたら、格好がついたかも知れないが。今は、つま先を上げることさえ億劫だった。
と――
極限状態に陥り、考え得る全ての能力が低下していたが。ただ一つだけ、普段より鋭いものがあった。感覚だ。
ミスった。そう思った頃には、もう遅い。複数の気配に囲まれている。
山犬か何かだろう。それは動きの鈍いナギに対して、じりじりと距離を詰めている。
(逃げられる……わきゃないか……)
当たり前に、諦める。
獣と追いかけっこなど、馬鹿でも考えない。調子が完全だったとしても、一匹ですら手に余る相手だ。
死の恐怖を感じながらも、その辺にある石を手に取った。ここで死ぬとしても、せめて最後までは抵抗してやる。
大きな木を背後にして、最後の瞬間を待ち構えた。獣が詰めてくるごとに、命の感触が弛緩する。もしかしたら、これこそが本当の『死の恐怖』というものなのかもしれない。
いよいよだ。相手が追い詰めきったのを感じ――しかし、その瞬間はこなかった。
ひゅんッ! 小さな音を立てて、何かが飛んでくる。着弾した場所は見えなかったが、しかし「キャン!」という、獣が鳴く声が聞こえた。
気配が一気に霧散する。その代わりに感じたのは、獣のそれより、もっと不格好であからさまなものだ。まるで、人間のような――
「おい、そこのお前!」
声がかかる。そして、人間の姿も。
近寄ってくる人影を確認した瞬間、ナギは意識を手放した。
目を覚まして。
彼――遊免凪季がまず感じたのは、落胆だった。
森を彷徨っている中、何度も考えたことがある。つまりこれはただの夢で、一度寝て起きれば、自分の部屋なりなんなり、そういうところで目覚める、と。
ちょっと……というかかなり落ち込んだが、頭を振り払う。
「いいところを考えよう。俺は生き残った。まだ先がある。うん」
無理矢理自分を納得させ、立ち上がった。足の裏が痛むが、それに苦しむには、もう数日遅い。
あたりを見回してみる。そこは小さな小屋のようだった。
全てが木でできており、しかもかなり大ざっぱだ。近代的な臭いは感じられない。寝かされていたベッドも見てみるが、これも簡素なものだ。土を盛り上げ、その上に藁か何かを乗せ、布をかぶせたものだ。使い込まれており、それが急造のものでない事まで分かる。
「日本……じゃないよなあ……?」
こういった建物は日本に存在できない。技術云々以前に、地震や台風が来たら、高確率で崩れるからだ。物置として使うならば、まだ可能性はなくもないが。それでも、ここには壊れてもいいものしか置けないだろう。就寝するには、かなりの勇気がいるはずだ。まさか、自分の体を『壊れてもいいもの』扱いはしないだろうし。
他にも思う部分はあった。森の中でも思ったことだったが、気温が違いすぎるなど。それくらいであれば、まだそういうこともあるだろうと(自分を)ごまかせたが。
足を引きずりながら、小屋の外に出る。
そこには、村があった。
日本の田舎にあるようなものではない。もっと自然的というか。ネイティブアメリカンの村というと、こういうものを想像する。ついでに、その辺を歩いている人も数人いるが、皆が褐色肌であり、およそ日本人的ではない。
「お前、起きたのか」
ふいに声をかけられる。驚きながら、そちらの方を見てみた。
入り口横で、石臼で何かをすりつぶしている男。槍と弓が近くに置いてあり、背中にはナイフを持っている。気づかなかったのは、石臼を使うために、しゃがみ込んでいたからだ。
男の顔を見て、気がつく。彼は自分を助けてくれた人だ。
「どうも、助けていただいて」
「いや、かまわないよ。こっちもいい毛皮が手に入った。お前こそいい囮っぷりをしてくれた」
にっと笑いながら言う男。彼なりの冗談なのだろう。口調に嫌みさはない。
男はいったん手を止めて、こちらを向いてきた。
「お前、帝国から逃げてきたんだろ。助けてもらったと思ってるなら、その分くらい情報を欲しいんだが」
「帝国?」
いきなり出てきた帝国とやらに、ヒロは怪訝に思ったが。もっとそう思ったのは男の方なようで、眉を潜めている。
「帝国って言ったら、ザインダス帝国だよ」
「いや、分からないんですけど」
「帝国から来たんじゃないのか?」
「そもそも名前を聞くのも初めてですけど」
言うと、男は頭をそっと抱えた。
「嘘、じゃないよな。誤魔化すにしても、帝国を知らないなんてばかげてる。お前、どこから来たんだ?」
「その様子だと、日本って言っても分かりませんよね。どうやって来たか、俺も分からないです。いつの間にか森の中にいて……」
そこでいったん言葉を止めて、聞いてみる。
「ザインダス帝国ってのは、知らないとまずい事ですかね?」
「知らない奴が存在したのか、っていうくらいの事だな」
(つまり知らないって白状すること自体がまずかったのか)
まあ、本当に徹頭徹尾、ひとかけらも知らないのだから、他に言いようもないか。
今度はナギが頭を抱えながら。村をよく見回した。
よく見ると不思議な光景ではあった。荒野の中が似合いそうな村が、森林の中に作られているのは。
小屋はそこそこいい場所に建っていたらしい。すぐ近くには、村の中心であろう広場があり、中央には木製の引き上げ機がある。たぶん井戸だ。他にもなにやら見慣れない物が多いが、一番目を引いたのは布だろう。厚手で、多くの刺繍が入った物が干してある。新しさは感じない。使い込まれ、幾度も直されて使われている、というのが遠目にも分かった。他の物も、だいたいそんな感じだ。
つまり、裕福な場所ではないのだろう。
「すみません、お願いがあるんですけど……」
申し訳なさそうに言う。実際、厚顔無恥な願いだ。
「水と食料を少しいただけませんか? できればナイフみたいなものも……。そうすれば、すぐに出て行きますんで」
自分の言葉に、あらためてこれは酷いと言わざるをえなかった。改めて考えずとも、かなりばかばかしい。
余裕などそれほどないというのは、見れば分かる。森の中なのだから水はまだしも、食料にどれだけ余裕があるか。ナイフ……というか金属は明らかに貴重品だろう。見える範囲にほとんど金属がない。
だが、ナイフはどうしても欲しい物だった。森の中を彷徨って気づいたことがある。ナイフさえあれば大抵はどうにかなる。外敵に対しては別の話だが。
言うと、彼は少しだけ考え。すぐに答えを出して。
「君がよければなんだが、しばらくこの村にいるつもりはないか?」
「……いいんですか? 言っちゃなんですけど、俺って何の役にも立ちませんよ。それに、村の負担にもなる」
「構わないさ。これも精階のお導きだ。きっと君が私に助けられたのには意味があり、ここにかくまわれたのにも意味があった。長老の許可も得ている」
「セイカイ?」
ふと言われ、気になった単語。それをオウム返しする。
「精階は流れであり、全ての器の原型でもある。君も私も、精階の流れに導かれたのだよ」
宗教的なもの、というよりもアニミズムのようなものだろうか。
「当然、君さえよければだが。それで、どうする?」
男は肩をすくめて言った。
ナギの答えは決まっていた。
●○●○●○●○
この村に来て、三週間ほどが経った。正確な日にちは測ってないので分からないが、まあそんなもんだろう。
たかが一月足らずの期間だが、分かったことは色々ある。
まず、民族の名前はエフレェ族。百人いない程度の小さな村で、同民族の村が近くに三つある。が、近辺にそれだけしか村がない訳ではない。どうやらここら一体は、無数の少数民族が集まる場所なようだ。ザインダス帝国とは国境を接しており、かつ関係は冷え切っている。もう少し知りたかったが、ザインダス帝国については、誰も積極的に話したがらなかった。聞いただけで嫌そうな顔をするか、それとも要領を得ないののしりだけが続く。それこそが関係の悪さの証明だとも言えるが。情報としては無意味な限りだ。
ナギはこの村で、狩り担当になっていた。誰に強制された訳でもなく、自分で希望した。他にできそうなことがなかった、というのもある。
日本に比べ不便は多かったが、ここでの生活は悪くない。たぶん、水に合っていたのだろう。狩りに使う弓の扱いは、まあ、そこそこだったが。酷いと言うほどでもなく、何匹か獲物を捕らえられた。
意外にも役に立ったのは、知識面だった。測量やらなにやら、学生知識程度でも役に立つ事は多い。
一つ一つはつまらないことの積み重ねだ。自分で意図してなかったことも多いが。徐々に受け入れられている。その実感だけはあった。
毎日がめまぐるしく、何かを思い悩む余裕もなかった――などと言うと、嘘になってしまうか。実のところ、暇はそれなりにあった。
仕事の中心は狩りなのだが、これは以前に水物だ。獲物が見つからなければ、日が落ちるぎりぎりまでかけずり回る時があり。逆に前日大当たりをしていれば、翌日に何もすることがない、という事もあった。というか、今日がまさにそうだった。
何もやることがないとういのはキツい。家の中に籠もるか、外をふらふらしているしかないのだが。意味もなく長時間歩いていると、注目される。つまり、なんだこいつ、である。非常に居心地が悪い。
そのため、いつもはどこかの仕事に混ぜてもらうのだが。
その日はカーツ・ヴォ――ナギを拾ってくれた男だ。どうやら若者のまとめ役のようで、かなりの力を持っていた――に、何かないかと聞いたのだが。
はっきり言って、失敗だった。
「ミスってんじゃないわよ」
正面から、きつい声が投げられる。というか、わざと低くしているのだろう。嫌味に聞こえ、できればどこかへ行けという意図を込めて。ただし、視線は努めてこちらに向けない。あくまでお前など見る価値もない、というスタンスを貫いている。
「そう言ってやるなよ」
苦笑しながら言ったのは、カーツだ。彼も手元でだけは作業をしていた。
彼の意図は分かっていた。つまり、そのキツい相手と自分を、なんとか仲良くさせたいのだろう。
「なあ……」
「うるさい話しかけるな」
とりつく島もない。ナギはため息を吐いた。
そのまま、少しだけ顔をカーツの方へ寄せる。彼もそれを察して、頭を寄せてきた。
「無理じゃないっすかね?」
「そう言うなよ。彼女はこれで、悪い奴じゃないんだ。ただ、頭が硬いだけで」
「その硬さが鋼もかくや、って感じっすけど。メレリーのやつ……」
「っっ!」
「ほら、これっすから」
名前を呼んだ。それだけで、めちゃくちゃに睨まれる。
「メレリー、いつも言ってるだろう。彼の技術は、どう見ても帝国のものじゃない。彼は帝国人じゃないよ」
「どのみちよそ者でしょう!」
だん! と叩き付けられたのは、木製の計量スプーンだ。中に入っていた穀物状の何かが飛び散る。
今行っているのは、調薬だった。といっても、薬の分量を量るのはメレリーの仕事であり、正しい分量も彼女しかいない。ナギ(とカーツ)がやっていることと言えば、すり鉢の中身をすりこぎでひたすらごりごりしているだけである。これにはこつがあるようで、最初に(やはりカーツから)やり方のコツと注意を教えられた。続けるには根気と力が必要で、気を散らす人間には任せられない。つまり、子供以外の暇人のやることだ。
今までナギがこれをしなかった理由も簡単だ。彼女たちに避けられていたからである。
「言っただろ? 長老だって認めてるんだ」
「ボケてるのよ! この前だって勝手に私が作ったお菓子を食べちゃうし! 絶対もうすぐお迎えが来るわ!」
「ガメた材料で作ったお菓子を食われたからって怒るなよ。というか、自分のじいちゃんだからって言いたい放題だな」
言わずもがな、長老はこの村の最高権力者であるり、(少なくとも表面上は。実態はもっと気安いようだ)誰からも敬意を集めている。皆の前で好き放題言うのは、彼女だけだ。
「こいつだってカーツさんが迎えなければ、誰も受け入れはしなかったわ!」
「まあ、そうだろうけど」
「あんたに言ってない!」
「はいはいごめんなさい」
剣幕を流すために、すぐ謝る。それすら気に入らなかったようだが。
とはいえ、彼女の言も嘘ではない。カーツは次か、その次の長老となるのだろう。村全体からそういう雰囲気がある。もし、受け入れてくれたのが彼でなかったら、こうまですんなり行かなかったろう。
まあ、村の重鎮という意味では、彼女も似たようなものだ。それに、言葉には真実もあった。
「筆頭呪巫女として言わせてもらうわ、こいつは何かおかしい!」
「それは呪巫女だからじゃなくて、単にお前が気に入らないだけだろう」
「関係あるわ! あたしには村の大いなる流れを守る義務がある!」
「お前が死んだばーちゃん好きだし尊敬してたのも分かるけどな、「新しいものは全部排除!」なんてのはかぶれすぎというかもう真っ赤に腫れ上がってるぞ。ばーちゃんだってそんなに酷くなかったよ」
「新しいからじゃないわ! だってこいつ、なんか、その、ええと……そう、肌が白いじゃない!」
「それ呪巫女云々関係ないただのこじつけだろ」
「あんたは黙れ!」
「はいごめんなさい」
またも剣幕が迫ったので黙る。
お偉いさんが受け入れたから、というのと同程度には、お偉いさんが拒絶したから、とうのも通じる。
呪巫女というのは、いわゆるシャーマンだ。だが、ただの祈祷師という訳でもない。純然たる力を持った、いわゆる『奇跡』のような事を起こせる巫女だ。実際に枯れかけた植物に力を与えたときは、驚いたものだ。今作っている薬も、効果の程が怪しいものではない。呪巫女の使う力を助け、増幅してくれるものだった。その薬を作るのも――そして呪巫女の力自体も、一番高いのは彼女である。メレリーが筆頭呪巫女なのは、血筋による贔屓ではない。実力で得たものだ。
カーツが応と言えばそうなるように、メレリーが否と言えばそうなる。実際、彼女の派閥(主に呪巫女)からは、ナギの受けはかなり悪かった。
「だいいちこいつ全然使えないじゃん! 弓も使えなかったし!」
「重要なのは狩る事ができるかどうかだって。狩り自体はなかなか上手いよ。頭もいいし、剣の腕は村で一番だ。面白い技術だし」
「剣が何の役に立つのよ! 狼にでも斬りかかるわけ!?」
「村を守るには重要な技術だ」
「それで後ろから斬りかかってくるかもしれないじゃない!」
「それなら私たちには教えないよ」
メレリーの険は全くなくならず、カーツの微笑も同じだった。彼らについて、気がついた事がある。この二人は、そろうとだいたいこんな感じなのだ――つまり、保護者とだだっ子の。ナギの件があろうがなかろうが、関係なく。
まあ、基本的に、誰に対しても気が強いのだが。尊大だというのではなく、筆頭呪巫女としての重圧に応えようとしているような雰囲気だと、ナギは思っている。
(見た目だけは美女なんだけどなあ)
それは、認めざるをえない事だった。
褐色の肌に、ちょっと色の落ちた、うっすら赤みのかかった髪。大きな瞳はしかし鋭く、気の強さを表している。ゆったりとした服の上からでも分かるほど体つきは豊かだが、同じく服の上からでも分かるほど腰がくびれている。見本のような、長身グラマーの体型だ。日本に育ち、この村で生きるのの十倍以上の人間と会ったことがあるナギでも、お目にかかったことがない美少女だ。これで眉間の皺さえなければ、と思わざるをえない。
まあ、あろうがなかろうが、仲良くなれたかは疑問だが。はなからこちらと仲良くする気がない相手だ。そんなものにいちいちつきあうほど、暇もない。
「なによ」
「別にぃ」
「その言い方むかつく!」
考え事をしている間、メレリーを見ていたら文句を言われた。
実際には、彼女を見ていたわけではない。真正面にいるのだから、視線を上げれば彼女がいる、というだけだ。
メレリーと仲良くするのに、労力を裂くつもりはない。つもりはないが、
「カーツさん」
「ん?」
「メレリーって、弄ると面白いっすよね」
「なんですって!?」
「はは、そうだねぇ」
「カーツさんも同意しないでよ!」
別に無理して仲良くなどしなくても、付き合い方はある。こんな風にだ。
まあ、今のところはこれでいいのだろう。そう思う。この手の奴と理解し合うのには、時間がかかる。それですら無理なことも多い。それは仕方ない事だ。誰もが誰もとわかり合えるわけではない。特別なことでもなんでもなく、普通のことだ。誰もがそうしている……
数日後になって、ナギはこうも思う。この時、もう少しだけ理解し合えれば、もう少しマシな状況になっていたのではないか、と。