9 シトラスティー
工房から戻った杏子は、春潮や夏墨が代わるがわる夕食時を告げに来るのを扉越しに断り、部屋に閉じ籠もり夜を過ごし朝を迎えた。
昨日のままのワンピース姿でベッドから身を起こす。
窓布の隙間から覗き見た外は、濃い霧に覆われている。
杏子は静かに窓を開けると、そっと庭へ降りた。
朝露に濡れる庭を横切り、霧に紛れながら柵の向こうへ歩き出す。
ここから逃げ出そうとしているわけではなく、ただなんとなく漂う霧を吸い込み、歩いてみたかった。
鳥たちの囀りもまだ聞こえない、静寂の朝。
なだらかな草地の丘をしばらく登ると、眼下の霧の切れ間に焼栗色の屋根が見えた。
杏子は草むらに腰を下ろして、霧に見え隠れする屋敷を眺める。
出来る事なら、このままそっとここを抜け出してしまえたら、どんなに気が楽だろう。
そうすれば、彼らの感情と対峙することは避けられる。落胆、失望、そんな類の感情とは向かい合いたくなかった。
けれど、杏子には行く当てがないこともわかっていた。
ここへ来ることを薔子も望んでいるのなら、杏子は帝都へは戻れないのだろう。
必要とされている場所がある。ということは初めてだった。
それは微かな期待を杏子に与える一方で、不穏な騒めきを多いに与える。
長く過ごした帝都の屋敷には慣れていたし、なにより杏子に干渉する者はいなかった。
杏子のこれまでの日々は孤独と静寂に司られ、自分以外の誰かの心情を思い悩む必要はなかった。
だが、ここは違う。
彼らは杏子に何事かを望んでいる。そんなことは初めてだった。
大きく息を吐きだして、杏子は立ち上がる。弱気な目元に小さな決意が宿っている。
杏子は歩きだした。桔梗の館へ向かって。
彼らは、わたしを待っていたと言った。ずっと、待っていたと。
どうしてかはわからないのに、その言葉と彼らの眼差しを杏子は無下にしたくないと思った。
そして、杏子は知りたいと思った。
彼らのこと、母のこと、薔子のこと。そして、自分のことを。
「杏子、おはよう」
ダイニングキッチンに入って来た杏子を、春潮の不安げな声と表情が迎える。
部屋に閉じこもった杏子が帝都に戻りたいと言い出すのではないかと、もしそうなればどう引き留めようかと、春潮は一晩中思案していた。
「おはようございます。杏子さん。よく眠れましたか?」
夏墨は昨日と少しも変わらない笑顔を杏子に向けたが、夏墨も春潮と同様に昨夜は気を揉んで過ごした。もっとも、彼は杏子を帝都へ返すつもりなど微塵もなく、どんな方法を使ってでも彼女をこの屋敷へ留まらせる心算でいた。
部屋に冬凪の姿はなく、杏子は密かに胸を撫で下ろす。
「あの……。今日から、よろしくお願いします!」
杏子はやや震えた声でそう一息に言うと、二人を交互に見る。
夏墨と春潮は一瞬、呆気にとられたようにしたがすぐに笑顔を浮かべた。
「よかった! 杏子がここに居るって決めてくれて嬉しいよ」
春潮の弾んだ声と笑顔に、杏子はいつの間にか握りしめていた指をほどくことができた。
「ゆうべはごめんなさい。あんなふうに、閉じ籠ったりしてしまって……」
「突然のことで驚かれたのは無理もありません。気にする必要はありませんよ。それより、僕のことは夏墨と呼んでください。杏子さんは、僕たちの主なのですから、改まった言葉使いは必要ありません」
「でも……」
にこやかに申し出られても、自分より年上であろう夏墨に対して気安い言葉遣いを使うことに杏子は抵抗を感じて返答に迷う。
まして、あの高圧的な冬凪に気軽に話し掛ける様子は想像もできない。
「もちろん冬凪にも、かしこまる必要はありませんからね」
夏墨はきっぱりと告げる。
その微笑みを絶やさない空色の瞳に、くっきりと浮かぶ有無を言わさぬ強さに杏子は頷かされる。
「わ、わかりました。……その、いきなりは難しいので徐々にそうしてみます」
ぎこちない返事をする杏子に、春潮がにこにこと頷く。
「確かに、すぐには難しいよな。俺は、そのままでも気にしないけどな」
「春潮。あなたと冬凪は、杏子さんに対する態度を改めて頂きたいものですね」
「ええ!? 俺も?」
「主に対して気安すぎます。名まで呼び捨てにして……」
「そうは言っても、これは昔からだしな。急に、杏子さまって呼べって言われてもなぁ……」
杏子さま。
その響きに、杏子は慌てて首を横に振る。いくらなんでも、そんな呼ばれ方は自分に不相応なことは肌で感じた。
「あ、あの。そんなふうに呼ばれては困ります。普通でいいです。春潮さんも、今までのようにしてください」
「そうだよな。杏子がそれでいいって言うなら――」
「春潮」
じろりと夏墨に見られて、春潮は口を閉じる。
代わりに、ためらいながらも杏子は夏墨を見て口を開く。
「夏墨さん……その、わたしは普通に話してもらえる方が……いいんですけど。いけませんか?」
夏墨は優しく微笑むと、やれやれといった具合に小さく息をつく。
「わかりました。杏子さんがそう望むのなら、構いません。ただ、僕たちの名はそのまま呼んで頂きたいんです」
「たしかにそうだな。杏子から、春潮さんって呼ばれるのは、居心地が悪い気がする」
杏子は頷いた。杏子さまなどと呼ばれることに比べたら、彼らを名だけで呼ぶことなど簡単な気がしてくる。
「では、朝食にしましょう」
夏墨は杏子の為に食卓の椅子を引いた。
そこはもちろん上座であり、主が座るべき位置なのだ。
杏子が席に着くと、続き間の居間にいるササタの姿が目に入る。
ササタは、長椅子の足元に寝そべっていた。そしてその長椅子の背に、大きな黒い鳥が止まっているのに杏子は気が付く。
夏墨が鳥を呼んだ。
「ルリテ、こちらに」
夏墨に呼ばれて、黒い鳥ルリテは長椅子から飛び降りるとそのまま床を跳ねて進み、夏墨の左肩へと飛び乗る。
「紹介しますね。僕の使い魔のルリテです」
夏墨の肩の上で、翼も嘴も瞳も黒一色の鳥、ルリテが杏子を見つめた。
使い魔。という響きに、杏は鳥から少し身を引いてしまう。
夏墨もルリテもそれを気にする様子はなかった。
ルリテは小さくキィと鳴くと、来た時と同じように床を跳ねて長椅子へ戻る。
「あとは、マシロに会えば全員ですね」
「マシロ?」
「ええ、マシロは冬凪の使い魔です」
杏子は居間の黒い使い魔たちを見る。
使い魔が黒い犬に黒い鳥とくれば、次に現れるのは黒猫のような気がした。
食卓に視線を戻し、空席に目をやる。そこは昨日、冬凪が座っていた場所だった。
冬凪の席を不安そうに見る杏に、夏墨は優しく声をかける。
「冬凪なら、朝食には来ませんよ。彼は活動時間が不規則なんです。……気になりますか?」
「わたしがここに居ることを、あまりよく思わないんじゃないかと思って……」
昨日の冬凪の態度を思い出して、杏子は言い淀む。
夏墨は微笑み、首を横に振る。
「そんなことはありません。冬凪の主も杏子さんなのですから。さあ、朝食にしましょう」
食卓にはミルクスープに、焼きたての丸いパンが湯気を立て並び。さらに温かな緑の野菜が運ばれてきて、杏子は急に空腹を感じた。
そういえば、昨日はほとんど食事をとっていなかったことを思い出す。
夏墨が杏子のティーカップへ、温かいシトラスティーを注ぐ。
「食事が済んだら、今日は屋敷を案内します。それと、これからの話をしましょう」
夏墨はそう言って微笑む。
杏子は不安ながらも頷き、入れてもらったばかりの紅茶を飲んだ。
爽やかな柑橘が溶けたシトラスティーが、すっきりと身体に染み込んでいった。